瞼に祈りを
すんと鼻を鳴らすと、林檎やオレンジの様な熟れた果実の甘く爽やかな匂いが鼻腔を擽る。そしてインクや古い羊皮紙、何かが少し焦げた匂い。全てが混じり合って一つの香りを形成する。それは本を読む時に飲むミルクティーの様な温かくて落ち着くものだった。
香りを辿るように微睡みからすうっと意識が浮かび上がりぱちりと目が覚める。ふとお腹の辺りに重さを感じて首を動かすと、ココアのような髪色をした頭が見えた。
アニメーガスが成功した事が嬉しくてホグズミードまで行き一通り歩き回った後、この必要の部屋まで帰ってきてそのまま眠ってしまったのだ、と眠りに着く前の自分の行動を思い出す。
そしてうつらうつらしている間にセバスチャンがやって来たのだろう。最初彼は私が私だと気付かずただ起こしてしまった事を謝っていたけれど、それに一言返事をしただけで彼はなにかに気が付き、犬の正体が私であると悟ったようだった。
頭を撫でる彼の手つきが優しくて、そのあまりの心地良さに一瞬だけ浮上した意識も瞬く間に沈んでしまった。しかしそうして私を寝かし付けてしまった彼も今ではすっかり私の腹の部分に身体を預けたまま眠っている。
魔法界に存在する中で最も強力な愛の妙薬と言われるアモルテンシアは、嗅いだ者の好みの香りがするらしい。もし今私の目の前にそれがあったなら同じ香りがするだろうか。
静かな寝息が聞こえる。彼が眠っている姿を見るのはこれが初めてかもしれない。図書館や地下聖堂、そして必要の部屋、少しでも早く周りの皆に追い付けるようにと先生方から出される追加課題に追われて居眠りしているのを見つかるのはいつも私の方だった。今はもう二年前のあの時程必死になる事も多くはないけれど。
珍しいこともあるものだと彼の寝顔を見てみたいという好奇心が湧き上がってくるが、視線を上にずらしてみても此処からでは彼の口が薄く開いている事くらいしか分からない。しかしこれ以上身体を動かしたら彼の事も起こしてしまうだろう。私は雑念を振り払うように首を左右に振って、頭を再び組んだ前脚に乗せた。
「そのままでは貴女もお身体が痛くなってしまいます。彼をそちらのソファに寝かせて差し上げては如何でしょう?」
高く、けれど優しくて耳心地の良い声が降ってくる。この部屋の管理と動物達のお世話を手伝ってくれている屋敷しもべ妖精のディークが、ニフラーやムーンカーフ達の居る草原エリアの通用口から姿を現した。
「皆のお世話してくれてたんだね、ありがとうディーク」
「とんでもありません」
ディークが微笑んでぱちんと擦り合わせた指を鳴らす。すると腹に掛かっていた重みがふ、と消えた。セバスチャンのだらりと力の抜けきった身体が羽根のようにゆらゆらと浮き上がり、傍に置かれていた同時に三人は余裕で座れるくらいの長ソファに横たえられた。
後を追うように自分も身体を起き上がらせ人間の姿に戻ると、ソファの端っこに置いていたブランケットを広げて彼の身体に掛けてやった。姿を変える時、姿現しをする時の様にぐるりと回転する視界の動きにはなかなか慣れそうにない。
「なんだか変な感じだな…」
ただアニメーガスから本来の人間の姿に戻っただけだというのに、急に高くなった視線が新鮮だった。けれどそれ以外の、嗅覚も聴覚も全ての感覚は犬の時に比べてやはり鈍ったような気がする。それでも先程感じた彼の香りがまだ自分の身を包んでいるような気がして心臓はとくとくといつもより弾んだ調子である。
暖炉の暖かな火がそばかすの浮いたセバスチャンの顔を照らし橙色に染め上げている。綺麗に生え揃った睫毛と、太い眉、普段私を揶揄う薄く開いた唇からは白い歯とピンク色の舌が僅かに覗いている。出会った頃よりも少しだけほっそりとした印象の彼は、幾らか背も伸びて脚はソファから少しだけはみ出ていた。
「何かあれば遠慮なく呼んでくださいね」
そう言ってディークは再び指を鳴らすと、空気に溶けるようにして姿を消してしまった。
残った二人だけの空間で聞こえるのは、暖炉の火の中でパチパチと薪が弾ける音だけ。こんな穏やかで優しい時間がずっと続けば良いのにと思う。
大切な双子の妹のアンがセバスチャンの前から居なくなって一時は酷く沈み混んでいるように見えた彼も、今ではすっかりそんな素振りも見せない。彼の評価を邪魔していたその罰則常習犯というレッテルも、禁書の棚に忍び込むことが無くなってからは表立つことも無く、話し掛けられれば持ち前の社交性を発揮して周りからの信頼も厚い。誰が見ても間違いなく優秀なホグワーツ生。寮が違っても友人として、そして恋人として、共に過ごす時間は変わらない。一緒にいない時間でも、見掛ける時は大抵隣にはオミニスが居て、二人の友情も続いている。
彼らもお互いに思うところもあるだろう。けれど彼は彼なりにきちんと叔父さんの事を償おうとしているし、私とオミニスはそれを最後まで見届ける義務がある。そもそも義務がどうだとか関係無しにしても、親友として、そして恋人として、頑張っている彼の傍に居たいと思っているけれど。
許されざる呪文の中で最も恐ろしい呪文を血の繋がった家族に使ってしまった彼を、アズカバンに送らないで良かったのかと一度も悩まなかったかと問われれば、あったと答える。しかしその度にこの世の全ての絶望を煮詰めて閉じ込めたような暗くじめじめと陰鬱な檻の中を思い出しては、やっぱりこれで良かったのだと自分に言い聞かせる。あんな所に友人を入れて良かっただなんて思える日が来るとは到底考えられない。
彼がこの先もこうして少しでも穏やかに眠れる時があるのなら良いな、と祈りを込めて瞼に口付けを落とす。起こしてしまわないよう、自分でも触れたか分からないようにそっと。
「…まさか君に、寝込みの相手を襲うシュミがあったなんて知らなかったな」
離れようとした頬に温かくて大きな手のひらが触れる。瞼の下から現れたカフェノワールの双眸は、まだ光に慣れないのか眩しそうに此方を見上げている。
「ちがっ……起きてたの?」
「たった今さ、どこかの誰かさんに起こされたんだ。君が前に教えてくれたマグルのお姫さまみたいにね」
先程まで寝息を立てていた筈の唇からはやはり少しだけ意地悪な言葉が零れる。
「良い目覚めでしょ」
冗談めかすと、彼は勿論と言って笑った。