霧雨

「治さん、傘忘れちゃったから迎えに来て?」
『了解した』
与謝野先生との仕事を終えて、社を出たら、雨が降っていた。報告書を作っている間に降り始めたのだろうか。治さんに迎えに来てと連絡を入れて、また書類仕事に取り掛かる。
「卯羅、何だい?その歌」
「何か歌ってました?」
「鼻唄」
無意識に唄ってたのかもしれない。
「綺麗な三拍子だったよ」
「嗚呼、あの曲かな」
「何か思い出の曲かい?」
「王子様との、思い出です」
きっとあの円舞曲だろう。治さんとの逢い引きで偶然聞いた曲。二人きりで手を取り合った星空。あのまま、駆け落ちしても善かったかもしれない。
社の玄関戸が開く音がして、聞き慣れた紳士靴の音がする。
「卯羅」
「治さんありがとう」
先生に会釈して私の隣に立つ。手には傘が一本。
「後は妾がやっとくから帰んな」
「でも」
「後少しだし。それにそこのが機嫌損ねた方が厄介だろ?」
治さんの顔には「帰りに寄り道しよ」と書いてあった。
先生の言葉に甘えることにして退社する。
「ねえ傘」
「相合い傘っていうの?してみたかった」
紳士傘がバサッと広げられる。差し出された腕に手を添える。
「治さん肩濡れちゃう」
私の方ばかり傘を傾げるから、外套の肩が変色していた。
「卯羅すぐ風邪引くから」
「私は治さんが心配」
片眼鏡と山高帽の紳士の光看板。重い鉄の扉を開ける。地下への階段を降りて、いつもの席へ。蒸留酒が二つ。氷がカランと澄んだ音をたてる。何を語るでも無いこの時間。思考を遠くに飛ばす彼。私はうっすらと流れる音楽に聴き入っていた。
共に居るのに、流れる時間の速度は異なる。それだって善い。一緒に居れる。それだけで善い。
氷がカランと乾いた音を立てた。
それに導かれるように、互いに顔を見合わせた。
「居た」
「居てくれた」
漸く会えた人。あまりに見詰めてくるから、目を伏せた。おでこが、こつん。彼の記憶が流れ込んでくるような気がした。
「卯羅……」
絞り出すような声。それに「なに?」と答える。続く言葉は無かった。
雨は地に叩きつけるでもなく、柔らかい霧雨になっていた。細かな水の粒子に、街の灯りが反射する。いつだかの霧とは違い、暖かい。
「傘って善いね。二人で入ると凄く密着する」
「だからね、こういうことも出来るよ」
少し背伸びをして、治さんの頬に口付ける。
「君って子は」
傘の下には秘密がある。諜報員だって秘密を隠すぐらいだもの。此処での秘密は永遠。
「私だけの王子様」
「キスの仕方を教えようか?」





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