たえまなく過去へ押し戻されながら

「もう、治さんったら、お酒はお止めくださいまし」
「栓を開けた酒は、味が落ちてしまう。ならば飲み干す他無いだろう?」
ポートマフィアから、彼を救出したことにしたのが、昨日。おまけに御本人は「明日、脱出できたことにする」と云い出すのですから。
愛読書片手に、布団へ寝転びながら、次々に一升瓶と蟹缶を空にする、彼の背を擦る。
本当に無事で善かった。
沈み行く夕日を気にするでもなく、ただ頁を捲る姿に安堵した。
「無茶は為さらないでくださいね。貴方一人の命では無いの」
「嗚呼、そうだ。可愛い可愛い妻は、私の命だけは殊更気に掛けるからね」
身を起こし、私を引き倒す彼に甘んじる。酒の奥に感じる彼の香り。「卯羅、酔ったついでだ」口付けを受けながら、緩められていく釦。粘度を増す唾液と声。
昔の彼が、其処に居た。

目が覚めると隣には、私だけの王子様。私を見つめ続け、頭を撫で続けている。
「おはよう」密着する身体は、僅かに熱を残していて。だらしなく、部分で解かれた包帯が、行為の激しさと余韻を示していた。「残念だが、今日から仕事だ。国木田くんにどやされる。新人くんの件もあるしね」
「嫌よ、離れないわ。何れだけ寂しかったか教えてさしあげます」
胸に、首に、顎に、何度も口付ける。最後は結局抱き着いて、彼の体温と、薫りと、伝わる全てを身に纏う。
「朝からするかい?」
私の顔の横に肘を置き、覆い被さる。前髪を掻き上げる様に撫でられ、額が合わさる。「私はしても善いよ」
「治さん、意地悪ね」
断れないと知っているのに。一日中求めあっても足りないの。
「御支度しなきゃ。食器棚におにぎり有るから、召し上がって」
「嗚呼、卯羅ったら酷いんだから。自ら誘っておいて、いざとなると、拒絶する。嗚呼酷い」
云いながら、この上なく乱れた包帯を外し、私に巻いて、と押し付ける。
「私の奥さんは包帯を捲るのがお好きな様で」
「だって狡いでしょう?弱い所、全て隠しているんだもの」
頚から下へ。体幹、手足。
「素敵な身体なのに」
「君しか見られない」
身支度を整えて、朝御飯を食べて。
お風呂の時間予約と、戸締まり確認。
手を繋いで行きましょうか。
いいや、腕にどうぞ。
なんてのんびり出社したら、国木田さんが半ば呆れたような顔をしていた。
「いやあ、久しぶりの娑婆の空気は美味しいねぇ」
「尾崎まで唐変木とは思わなかったぞ」
「まあ、国木田さんたら。ちゃんと、治さんの処へ行ってきますと、御伝えしましたのに」
席に着いて、端末を起動したら、次は敦くん。「太宰さん!同居なんて聞いていませんよ!」
その後ろに居る子が件の子ね。艶のある黒髪と可愛らしいお顔。
嗚呼、そういうこと。
嗅ぎ馴れた匂い。懐かしい匂い。
「太宰、マフィアに捕らわれていた件の報告書はどうした」
「……敦くん、私の代わりに頼む」椅子をくるくる回し、敦くんに真剣に頼む治さん。
「はいはい。私が書きますから」椅子の向きを戻してさしあげましょうね。
でれでれとした笑顔。つんと顔を背けて。
「何怒ってるの?」
「私のヘアピン、勝手に拝借したでしょう」
「下着の針金よりは善いだろう?それはそうと、敦くん。君に懸賞金を懸けた黒幕の話を聞きたくはないかい?」
「判ったんですか?!」
身を乗り出して食い付く敦くんと国木田さんに、真面目な視線を向ける。「出資者は『組合』と呼ばれる北米異能者集団の団長だ」
「『組合』だと?」国木田さんが疑った様に言葉を拾う。「都市伝説の類いだろ。第一、そんな連中が何故敦を……」
突如震える窓硝子。谷崎くんが、大変です、と声を荒げながら慌てて入ってきた。
皆で屋上に向かうと、社屋の向こうに見える高速道路に、一機の小型旅客機。男が一人、その後ろから従者のように男女が降りてくる。
「……先手を取られたね」治さんが、小声で呟いた。
『組合』を束ねる男は、フィッツジェラルドというらしい。社長との会合目的と。
御給仕、ナオミちゃんで、大丈夫かしら。万が一があったら……でも社長がいらっしゃるから、平気かしら。
考え込む治さんを横目に、私は鏡花ちゃんに社内を案内。可愛いわね。妹みたい。それに───
「鏡花ちゃん、解らないことがあれば、直ぐに聞いてね。敦くんでも、誰でも善い。困ったり、迷ったりしたら、誰かに相談なさい。でないと、焦がされてしまうわ」
「何に?」
真っ直ぐ光を受け止める眼。輝いて、無垢で、美しい。「却説、何かしらね。人に依って異なるわ」
身を焼く程の恋。言葉の通り、総てを捨てて愛する男。隣に居るのが破滅への道だと知っていても。
給湯室でお茶を淹れて皆に持って行きましょう。鏡花ちゃんには仮の湯飲みで。
「お気に入りの湯飲みを見付けたら、お名前書いて、置いておきなさい。根詰まりしそうになったら、気分転換。そこだけは私の主人を見倣った方が善いわね」
「主人?あの人、貴方の旦那さんなの?」
御盆を持って、小首を傾げる愛らしさ。「ええ、そうよ。彼が太宰治。私は、卯羅」
急に眼を見開いて、どうしたのかしら。思い当たる理由は一つだけ。「大丈夫。私はもう、光に出た人間だから」

翌朝、珍しく早めに出勤した主人の背中から、今回の騒動の重大さを思い知る。風呂上がりにそのまま抱き着いて、耳介に口付けても、ずっと難しいお顔。
報道を流し続ける電視機を注視する。その内に国木田さんが、朝刊を持って怒鳴りながら入ってきた。内容は同じ、マフィアのフロント企業が居を構える建物が、一夜にして消失した事件。
そして賢治くんが失踪した事件。
「これ以上単独で動くな。谷崎、敦と組んで、賢治を探せ!太宰は俺と会議室に来い。社長会議だ」
行ってくる、と私の手を取り、甲に口付けて気障な人。
「じゃあ、鏡花ちゃんは私と、事務作業の研修会でもしましょうか」
端末の使い方、報告書の書き方、仕事の流れ、資料の探し方。覚えることは沢山。大変でしょうけど、飲み込みは早いから、きっと大丈夫ね。
「あの、卯羅……って呼んで善い?」
「善いわよ。何か解らない事あった?」
「この機能、どうやって使うの?」
「これはね……」
これはあの人の匂い。そして、あの動きはあの人の。彼女が動く度に懐かしくて、身体の底の方に、ぽつり、ぽつり、降りだした雨のように黒い染み。
「敦くん達も遅いし、治さんも長いわね。外にお昼でも、食べに行く?」
さっきよりも眼を輝かせながら頷く。治さんに電子手紙で出ることを伝言し、さあ街へ。
表の世界には、組合だの、マフィアだのは、関係無い。特にマフィアの首領が代替わりしてから。
「あれ……」何の変哲もない混合式交差点。その筈。けれど、背を伝うぴりぴりとした緊張感は、この場が危険であると教えてくれている。「お昼、食べている場合じゃ無いかもね」
輸送車のけたたましい警報音に振り向くと、交差点に大量の人が落ちていた。だっと駆け出した鏡花ちゃんを追い掛けて行くと、敦くんや谷崎兄妹、そして拐われた賢治くんも居た。それに──
「あら、先生」
「やあ。息災かね。これはこれは、随分と美しい御夫人に成ったものだ」
「皆さんにも宜しくお伝えくださいな」
敦くんが何か云いたそうだったけど、迎えに来てくれた新入りさんが、混乱状態に陥ったのを見て、敦くんも取り乱す。二人で其処に居るよう指示をして、他三人の様子を伺う。大丈夫、皆無事ね。
「鏡花ちゃん、ゆっくり息吸って。ゆっくり吐いて。何も怖いことは無いわ。何があろうと、探偵社が貴女を守るから」目線を合わせるようにしゃがんで、無闇に呼吸する鏡花ちゃんの背を擦る。そうよね。急だもの。驚くのも仕方ない。
「……卯羅さん?」
「帰りましょう。私達の居場所に」

「森さんも意地悪だなぁ。わざとでしょ、どうせ」帰り道で治さんが、少し口を尖らせる。
「きっと、久しぶりで楽しかったのよ」
どうだか。そう云って欠伸を一つ。
「治さん」
「何ぃ?」
「私、ちゃんと出来ているかしら」
「奥さんとして?そりゃあ、満点さ。自信を持ち給えよ」
本気なのか茶化しているのか。
相変わらず境界は曖昧。
それが気を遣わなくて善い。心地好いの。「じゃあ、これからも、御傍で御世話させていただきますね」
「うんとやってくれ給え!いやあ、恋女房とは、なんと麗しい」
昔と何が変わった訳では無い。隣に彼が居て、その御世話をして。それが続くなら何だってする。人魚姫が望みを叶える為に、声を差し出した様に。





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