「卯羅」
探偵社に二人残って。治さんが残業するなんて珍しい。明日は隕石が落ちてきそう。
「この資料を読み込んでおいて」
「調査書?誰の?今、治さん宛にも私宛にも、特に依頼は無いよ?」
「骸砦で、君を殺した女を知りたくはないかい?」
何時もの誘い水。何時だかもそうだった。結局あれは誰の資料だったのだろう。
「私と君だけの秘密だ。国木田くんにも、敦くんにも。ひいては社長にも内緒」
「解った」
軽く頁を捲る。私を刺した女。便宜上、鼠と呼んだ女。
「……死んでる?」
「そう。失踪届けを出されて、七年経っても見付からない場合、死亡宣告がなされる」
「ということは、この女は戸籍が無い……」
「どう思う?」
「骸砦でも云ったけど」どう思うも何も。「私と彼女は似ている」
きっと坂口さんを強請でもして作らせた物だろう。それにしては空白の目立つ経歴書。特務課でも調べあげる事の出来ない人物。
「魔人の事だ。死んだ事にして、尾を掴ませないつもりだろうね」
「この子、親に棄てられたの?」
「そ」
「自分の子が可愛くない親が居るの?」
治さんが困った様に笑った。だって、母様は沢山可愛がってくれた。いつも傍に居て、見守ってくれてた。
「可哀想」同情する訳ではない。でも、可哀想だと真っ先に思った。
「彼女の弱点は何だと思う?」
「親……?でもそれをどうやって……あ……」
親が無条件で子に与える物。私が母様に注がれた物。それが彼女には無い。きっとそれを与える幸せも知らない。
「君とは真反対の人生だ。何故似てると思った?」
「これはもう私の感覚なんだけど」
あの時、彼女は私の存在に怒っていたというより、私がドストエフスキーを傷付けた事に対して、怒り心頭している様に見えた。「私だって治さんが傷付けられたら、相手を殺しちゃうもん。知ってるでしょ?」
「それはもう十二分に」
何人この手で花を手向けたのか。彼も身をもって知っている筈。
「戸籍がないなら、色々するのに丁度善いね。彼女も異能力者でしょ?砦で使っている様子は無かったけど」
「治癒異能力者で無いことは確かだ。君に裂かれた腕を治療する様子も無かったし」
じゃあ何だろう。谷崎くんの様なものだったら厄介。
「……治さん」
「どうした?」
「また抗争が始まるの?」
「遠からず」
結局、此方側へ来ても抗争が勃発する。そしてその中心には彼が居る。
「私達の居場所を護る戦いでもある。解っておくれ」
「旦那様の御指示通りに」
簡潔に“詩音”とだけ書かれた人物。
彼女がもしマフィアに拾われてたら。
考えたくもないし、あって欲しくは無いけれど。
私が森先生と居たのは、何通りかあったかもしれない選択肢の一つの様に思える。一つでも選択を違えれば、今はない。
彼女の資料を読めば読むほど、鏡を、割れた鏡を覗き込んでいる錯覚に陥る。