「その方が、幾分か素敵だと思うから」
嗚呼、嫌な言葉ね。
失血が進むにつれて、ぼんやりとしてきた聴覚でも拾えた言葉。
鼠に背後から刺された後、どうやら追撃として、何十ヵ所も刺されたらしい。何故か心臓は狙わず、ひたすらに背を刺していたみたい。どの感覚を通しても、血の冷え付くような鉄の味がする。
きっと一度死んだのだと思う。
自分でも何故助かったのか解らない。八〇〇竓なんてとっくに超えている筈。血液型も、私から太宰には出来るけど、彼から私には不可能。まだ死なせてはもらえないのね。
敦くんの言葉に、顔を背けるような仕草をした主人は、少しだけ鼻を啜った。朦朧としていて、はっきりとは解らないけど、泣いている。
抱き締めてあげなくては。強く強く抱き締めて、頭を撫でて、名前を呼んで……手を伸ばそうにも動かない。声を出そうにも力が入らない。
「さあ……卯羅、帰ろう」
優しく横に抱き抱えられ、漸く彼に触れられた。そっと掛けられた白の外套も真っ赤に染まっていた。「内衣と襯衣で圧迫止血の物真似はしてみた。腕が中って痛い?」
ううん。解らない。
解るのは貴方の体温が熱い程に伝わってくる、貴方の心拍が今までになく速い、その二つ。
そんな顔、なさらないで。
今までが幸運だっただけ。額の傷も、身体に残る傷も、少し間違えたら。
大勢の声が聞こえる。駆け寄ってくる音もする。
流れ星かしら。顔中に何かが降り注いでいる。それから離れる体温。
意識の端に見えたのは、一頭の蝶。
余り感傷に浸っている場合ではないが―――敦くんの言葉に、友人を思い出す。
『人を救う側になれ。どちらも同じなら、佳い人間になれ。弱者を救い、孤児を守れ。正義も悪も、お前には大差ないだろうが、その方が幾分か素敵だ』
私に突き刺さる言葉。今の指針と云えるだろうか。零れそうになったものを堪える為に、鼻を啜ると、未だ横たわる妻が、少し反応を示した。
ドストエフスキー、よくもやってくれた。龍に飲み込まれ、中也の来訪後に触れた妻は、背骨が露出するのでは無いかと思う程に、背面を裂かれていた。応急的に内衣を圧迫材、襯衣を胴に巻きつけて更に圧を掛けた。輸血出来るものならしてやりたい。それすら一方通行とは皮肉なものだ。
国木田君が敦くん達に生きていたか、と声を掛けながら此方へ来る。与謝野女医は私が抱えた妻を見つけると駆け寄り、降ろしな、と鋭く云った。
「刻むなら私も刻んで欲しいものです」
「冗談云ってる場合かい?刻まなくとも瀕死だよ」
嗚呼、卯羅。愛しい卯羅。冷たい大理石に横たわる君の瑠璃に光る眼差しをまた見れますよう。両眼に口付けてから、白石の寝台に横たえる。
「能力名『君死に給うこと勿れ』」
蝶が湖畔で遊んでいる。愛と美の女神の誕生に勝るとも劣らぬ美しさ。純白を纏い、愚かな人間に下賜されたか。
「終わったよ」
「ありがとうございます」
治療を終えたが、女神さまが目を覚ます気配は無かった。
それで善い。
来るべき風が吹くまで眠れば佳い。休めば佳い。
眠れる女神を起こすのは血風の口付けと決まっているのだから。