脱兎

仕方ない。放っておいても面倒だし。
「よい……っしょ」
泣き疲れて寝たんだか、また気絶したのか知らないけど、起きていないことは確かな鼠さんを背負って、ゴーゴリの後を追う。
「矢張来たね、お花ちゃん!君も賢い子だね」
「私は治さんを救う為に最善の手段を選んだだけ」
これが論理的な最適解だから。
私の養父の口癖。

凶悪犯の収容所とあって、随分と厳重ね。
小細工は本物の道化師に任せて、私は周囲を警戒する。
「お前は怖くないのか?」
「怖いって、何が?」
シグマさんが問うた。
怯えているのが伝わってくる。「私もね、シグマさんと一緒で、記憶喪失なの」
「は────」
「産まれてから、先生の診療所に預けられるまでの、記憶が無いの。でもね、必要ないから忘れたんだって、治さんが教えてくれたの」
そうなの。今必要なものは、全て手の内にある。其処から零れ落ちかけている彼を拾えるのなら、何も怖くない。
「お花ちゃん、出番だ!さっき私に見せてくれた吹雪をもう一度やってくれないかな」
治さんに怒られようが関係ない。「──『饗応夫人』」
御夫人、あのね、私、貴女が好きなの。治さんは嫌うけど、私は好きなの。貴女と居れば、彼を護れるから。
花弁は高度を増し、警備部隊へと降り注ぐ。「そうだ、お花ちゃん、此処に入れてみてよ」
ゴーゴリが自分の外套を指差す。懐かしいわ。初めての抗争で、罠引屋のお兄ちゃんも同じ事を云ってくれた。
道化の外套から放出された花弁は、更に深く、鋭く突き刺さる。「意外と好きでしょ!」
「此方の方が住み慣れてるから」
目につく万物を蹴散らし、目的地。無数の箱が浮かんでいる。
「ん〜……」ゴーゴリが狙いを定めたらしい。「先ずは此方かな!」
はらり翻した外套からドストエフスキー。「おや。お揃いですね」
背負っていた鼠さんを渡すと、よく頑張りましたね、あやす様に声を掛けていた。
「ねえ、これで終わりじゃ無いでしょう?まだ一人、在るのよ?」
「お花ちゃんは協力してくれたからね!御褒美!」
ぽんっと飛び出した──「いったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「治さん!!!!!!」嗚呼もう、何ヵ月?何年?恋しくて恋しくて仕方なかったの。
地に打ち付けた腰を擦る彼に思わず飛び付いて、抱き締めて、口付けて。涙が止まらなくて、彼の顔を濡らすことも憚らず、延々と名前を呼ぶ。
「嗚呼、卯羅。愛しい卯羅。苦労を掛けたね。その外套……」懐かしい黒外套に、哀れみを込めた視線を送られた。
「そうよ!マフィアに戻って、軍警の包囲網を掻い潜って、安吾の妻になって……も、私、でも、ね……」
何と償いましょう。
私、貴方がくれた贈り物を一つ駄目にしたの。
察したのか、それとも、ただ落ち着けと促してくれているのか、優しく髪を撫でてくれる手が愛しくて。
「これで何時でも心中出来る」
「そうよ、もう、絶対に独りにしないで」
その怖さを知っているから。
取り残されるのはもう嫌。今度こそは私を連れて逝って。





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