偽り

「卯羅さん、太宰くんからの“最後”の伝言です」
「何でしょう」
「『小町草を君に』」
ずぶ濡れの敦くんが、私をぼんやりと眺めていた。

鼠を追ってマフィアを離脱し、坂口さんからそう告げられ、これ以上の転落って無いわ。
もう何もどうすることも出来ない。
街はQの呪いよりもおぞましい怪物に溢れ、鼠を追いかけて行き着いた先は───
「『猟犬』……」
「マフィアの秘蔵っ子か。まあ入れ、鼠の客人なら、儂らも大歓迎じゃ」
「随分な歓待ね。椅子に縛り上げて」
「よう似合うておるわ。何人食った?」
エリスちゃんよりも大口を叩くわね、この幼女。嗚呼、違った。幼女は仮の姿だったわ。
「私、あまり美食家ではないの。旦那しか口に合わなくて」
「ほう」
猟犬三人の後ろで、鼠さんと立原が、不安を孕んだ眼で成り行きを見ている。
「尾崎卯羅───籍はまだ入れておらぬのか。ほう、これは興味深い。立原の先人が貴様の主人か。特務課も染まったか?」
私達三人は絶句した。表情には出ていない。けれど、空気が変わった。
「は、こいつの旦那は……」
「おかしいですね、私が捕縛した元幹部から彼女の香りが濃密にしたのですが」
この男が、治さんを。
それだけで、その事実だけで、身体中を異能が駆け巡る。鼠さんが顔を横に振った。
「あの男は──太宰は、あの前日、私を呼び出して、くれぐれも主人に宜しく、と……」
「それだけでしょうか」糸目の男──条野が、薄ら笑いながら、近付いてきた。「貴女は本当にお一人ですか?二人分の匂いがしますよ」
どういう意味だろう。真逆、治さんが、昔云ってた、あの……
何かを見透かしたように、一枚の紙をひらつかせる。要らないのに、何故欲してしまうの。要らないから、必要ないから、なのに、目の前に出されると、手が伸びそうになる。
「我々からご主人には連絡しておきましょう、無事に保護したと。それで善いですよね、隊長」
福地は無言で頷いた。今、連絡を取られるのはまずい。敦くんの無事がばれ、彼が保護していることが露見したら。
「いえ、連絡は私から入れましょう。主人も、探偵社の件で、何日も寝ていませんの」
そう、あの人は寝られないから。寝ようとしないから。私の胸で、抱き締めてあげないと、駄目なの。
「なら、鼠から連絡を入れさせれば善かろう。末広、こやつの部屋を見」
「いや、それは俺が!」
立原が乗り出すように話を遮った。「俺なら、尾崎の手の内も、異能も熟知しています」
「なら、名誉挽回の機会としてやるか?」
「同じような失態は許されませんからねぇ。矢張、末広も一緒にさせましょう」
「俺の信用!」
結局、室内での見張りは鼠さん。外の見張りは、末広と立原。
「能力名『鵜の目鷹の目』」鼠が部屋を走り回る。それに着いて行きながら、鼠さんが盗聴機、監視機を回収する。それから、申し訳程度の洗面台の水道を、最大の水量で流し始めた。
「……何してるの」寝転んだ寝台から、身体を起こせない。失意からの疲れかしら。
「今だけだからね。云いたいことあるでしょ」
扉の前に大きな熊さんが腰を下ろした。枕元には茶色い兎さん。
「会いたい……会いたいのに……もう、嫌……もう、焼け滅べば善いじゃない!」言葉にするほど、涙が溢れる。「返して、私の、名字を、もう尾崎じゃないの、私は、私の、夫は!」あの時と同じ。綺麗な花冠。このまま、呼べば、また、私は振り出しに戻れる。きっと、“また彼と会える”。
「取って!」
兎さんがもそっと、私の頭に手を載せて、花冠を食べた。「太宰治の事も忘れちゃうんだよ?!アンタが一番狡いだろ!少しは受け入れて!あっちで太宰治が平気で居ると思うの?あいつだって、辛いんだよ、きっと、ううん、絶対辛いんだから、逃げんな!!」
何を云われても、彼の事しか、浮かばなくて、鼠さんの言葉が理解できなくて。目の前に、白いような、煌々とした光。投げるように渡された端末には『坂口安吾』
「猟犬から取り返してみた。早く連絡しなよ」
「……」発信釦を押したら、すぐに憔悴したような安否確認の声。「無事よ、ええ、無事なの。何も問題ないわ。猟犬の皆様が護ってくださるなんて、貴方も心配し過ぎよ」
『卯羅さん、僕は、僕はただ、貴女を……』
「ええ、解っているわ。平気よ、此方に、お友だちも居るの。だから、」
だから、伝えて欲しい。あの人に。
「心配なさらないで。貴方も、無理をなさらないで、それから、それから……」幻だとしても、その腕で抱き締めて。甘えん坊だと呆れて。「愛しています、いつまでも……永遠に」
坂口さんが何か云おうとしたけど、聞かないで切った。あの人にしか云ったことの無い言葉。伝えて、お願いだから、伝えて。ここへ来て、偽りの愛だった、なんて、卑怯よ。
「……ぅ、ぁ………」
少し落ち着いたのか、心労か、胃の不快感。這うように、未だ滝の如く水の流れる洗面台で、全てを戻した。口を漱ごうと、水を含んだら、また。
「真逆……」背中を擦ろうとしたのか、近付いてきた鼠さんが、一歩、後ろに下がった。
「なんで、今なの……」力が抜けて、その場に崩れた。目の前を早駆ける最後の夜。「治さん、助けて……貴方の……一緒に、喜んで……」





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