逃亡

「彼奴何処行った!」
隠れ家に用意してやった部屋は蛻の殻。廊下まで、腹から出た声が、共に茨が、伸びる。石造りを裂き、殺意を表す。
「卯羅や、どうしたのかえ?」
「母様!鼠は?」
「鼠?」
母様も顔を顰めた。唇が切れる味がした。
「監視室の番号は変わってない?」すれ違う構成員を蹴散らす勢いで、監視室へと向かう。
「何をするつもりじゃ」着いて来ながら、母様は調子を変えずに問うてくる。
「追う」
「何故」
「今、彼奴が捕まったら、猟犬と接触されたら、治さんが助けられない」
「そうかのう……」
監視室の端末を操作し、裏口、表口の監視映像を漁る。居た。あの方向は───よし解った。
「卯羅、一度落ち着け。お主は彼奴を保護する目的だったのか?」
「ムルソーの治さんを奪還するための踏み台」
「ならば善いではないか。余計な案じ事が減ったのみじゃ」
逆だよ、増えたんだよ。そう反論しようとしたら、携帯に連絡が入った。
「もしもし?坂口さん、どうしたの?」
『太宰くんから、伝言が』
「何?」
『極楽鳥花を思い出せ、だそうです』
極楽鳥花……極楽鳥花……なんだったかしら。
「他には?」
『何も……』
通話を切って、考える。執務室へ戻り、昔の本を引っ張り出す。金で箔押しされた植物図鑑。懐かしい。この部屋で、二人で床に座って、寝転んで、一生懸命暗号を考えた。探偵社に入社しても、二人で仕事をする時には、よく使う。
「気取った恋、寛容、凡てを手に入れる……」
花言葉の下に小さく書かれた文字。「成り行きに任せろ」嗚呼、そういう事。
「太宰は何と?」
「鼠が逃げたのも必然。怒っても仕方ないってさ」
「食えない小僧よのう。どれだけ離れていても、卯羅のことはお見通しとな」
「初めて一緒にお仕事した時もそうだった。『大丈夫。私の指示通りに』って」
そうだ。治さんはいつだってそう。私が動きやすいように、表面を整えてくれる。
「何がどうなろうと結果は変わらない。治さんが勝つか、ドストエフスキーが勝つか……それとも」
「もう一つ選択肢があるのか?」
いいや、流石に考えたくはない。一つは善しとして、もう一方は。
「母様だって、孫、見たいでしょ?」
「卯羅のように愛らしい子が善いのう」
なら答えは一つ。
「母様、行ってきます」
「必要とあらばいつ何時でも連絡を寄越すのだぞ」
裏口から本部を抜け、人目を除けながら鼠の足取りを探る。それが恩人を助け出す鍵の一つだと信じて。





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