◎56 : 物語
会話もなく、ただ指だけを忙しなくあたしは動かしていた。
唇は真一文字に閉じたまま。眉間に寄った皺がとっても気になる。
彼は相変わらずの不機嫌面のまま、あたしの指の動きを眼で追っていた。
「歌わないのか?」
ふと、彼が思い出したように顔をあげた。相変わらず怒ったような顔だったけれど、さっきよりはマシになった。
複雑そうな顔はしていたけれど。
「シルバーくんの鼓膜を破っちゃうかもしれないですからね」
曖昧に笑って拒否する。
コガネ百貨店で見たあの赤い頭が彼だとは限らない。けれど、低い確率かもしれないけれど「彼ではなかった」と断言できる要素のない今、彼の前で歌うのは少し不味い。
バレたくない。けれど、彼はどこか期待するような瞳をあたしに向けていた。
「昨晩、お前をロケット団のアジトで見つけたのは俺だ」
「…はい」
「カイリューをボールに仕舞い、お前をここまで運んだのも俺だ」
「は、はい」
「気を失っているお前にベッドを貸してやったのも俺だな」
「…」
「で、俺はお前にさっきのように歌って欲しいんだが?」
やっと眉間の皺がとれたと思った彼は底意地が悪そうに口角を上げた。
これは、もしかして…もしかしなくても、脅しというやつだろうか…?
ヒスイ国民はテロリストに屈しない!テロリストとは交渉しないという信念の元、強靭な精神力を持ってー…
「で?まさか俺の頼みを断るなんてことは…」
「まっ、まっさかー!あはは!そんなことするハズがないじゃないですか!」
完璧にあたしの心の中に住んでいる大統領(?)がテロリスト兼、シルバーくんの要求についに屈してしまった。
僅か3秒もない間に屈するとは…!
でも、こんな楽しそうな彼を見れるなら、いいかな…なんて。
旋律と共に口ずさむ歌詞の意味はきっと彼もわからないだろう、紅霞たち同様に。
でも意味は必要ない、後付されて、わかるものだから。旋律が語るのだから。
-- That you were romeo you were throwing pebbles
(あなたがロミオだったなんて、小石をそっと投げて合図するあなた)
-- And my daddy said stay away from juliet
(そしたらパパが言ったの、「ジュリエットに近づくんじゃない」)
-- And I was crying on the staircase
(それから私は階段で)
-- Begging you please don't go,
(「お願いだから行かないで」と泣いていた)
「and I say (そしてこう言ったの)」
指で大きく叩くほどに音が大きくなってくる。気持ちのいいリズムに酔いしれて、あたしはシルバーくんを見た。
ロミオとジュリエット、なんていうのはあまりに似合わないあたしと彼だけど、でもね、たまに思うんだ。
彼との出会いにとても感謝してる。
それはとても尊いものなんだって。
息を吸い込んで、少し笑えば彼も下げた視線をあたしに向けた。
-- Romeo take me somewhere we can be alone
(ロミオ、どこか二人きりになれる所に私を連れて行って)
-- I'll be waiting all there's left to do is run
(待ってるわ、もう逃げることしか残されてないの)
-- You'll be the prince and I'll be the princess
(あなたは王子さまに、私はお姫さまになるのよ)
-- It's a love story baby just say yes
(これぞラヴ・ストーリーだわ、ねぇ、「イエス」とだけ言って)
軽快なアレンジと共に曲が終わって下げていた目線を上げれば視線が混ざり合った。
最後の音が余韻を残しながら消えていく間、まるで縛られた感覚がよぎって視線を離せなかった。
どくん、と胸が鳴く。
ついに音が完全に消えてシルバーくんの視線が下がった。
解放された、という安堵も束の間、ふわり…と優しく体に重みがかかる。
抱きしめられていると感じるのが遅れたほどに、壊れ物を扱うような柔らかい抱擁にあたしは眼を大きく開けた。
映るのは、広間だけ。
「なんで傷だらけだったとか、どうしてあそこにいたんだとか、俺はそんなくだらない事は聞かない。」
シルバーくんが耳元で小さく囁いた。くだらなくなんかないよ、あたしにとっては。
反論しようにも心臓が煩く喚いてあたしの呼吸を乱す。
息をしているのか、わからないくらいにあたしは混乱していた。
こんなの、なんてことない。のに。
「ただ、ヒスイ…お前は傷つくな。俺に、心配させるな」
少しだけ力が強くなって切るような痛みが体に少し、走った。
けれど気にするなんて余裕はどこかに忘れてしまったかのように体が動かなかった。
勝手すぎる、とか、そんなに大した傷じゃない、とか。
言いたいことは色々あるのに言葉が痞えて出てこないままだった。
抱きしめられたのは、今回が初めてじゃない。
何度も何度も助けてもらったし、優しくしてもらった。
今更、どうして、
「今は、何も望まない。その詩にこめられた意味なんて考えない。
だが憶えておけ、いつか必ず…」
言い終わらないうちに体が解放されて、凡そ間の抜けたあたしの顔を見ながら彼は少しだけ口角を上げた。
そして、瞼にキスを落とした。紅霞がしたところと同じ場所。
少し冷たい、柔らかなそれと…顔が離れたときに微かに浮かんだ優しい笑顔があたしから虫の息となりかえていた呼吸を完全に途絶えさせた気がした。
立ち上がった彼が数歩、歩いて振り返った。
整った横顔が紅の中からあたしを覗いた。可笑しそうに笑ったのを見てあたしもようやく体が動くようになった気がした。
「"仕事"もほどほどにしとけ」
「っ…!?」
喉の奥で笑うように、くつくつと静かに笑った彼がポケモンセンターの玄関をくぐった。
ジム戦なのか、それとももうバッジをゲットして別の町に向かうのか。
あたしにはわからないけれど…でも、それどころじゃなくて。
「ば、れ…てた……?」
まさかね、なんて、思えるほど能天気になんてなれない。
あれは"確信"していた。断言したんだ。
完全なる、敗北。誰にもまだバレてないのに。(…多分だけど)
ピアノの天板に頭をくっつけると、瞼が熱くなった気がした。
白波が横たわるベッドに小さく腰掛けて、安らかに閉じられた瞼を盗み見た。
強くなった、と思う。あたしも白波も。もちろん、紅霞たちも。
戦うたびに、傷つくたびに、何か大切なものを見つけてはもがいてる。失くさないように、逃がさないように。
我武者羅に強くなろうとしてる。あたしの理由は、白波が知ってる。
だけどね白波…あたしはあなたが何を隠して、何を思ってあたしに着いてきているのかはわからない。
だけどあなたの笑顔だけは信じていたいって思うんだ。
甘い甘いスコーンを焼くときも、夕飯の支度を手伝ってくれているときも。
強い力の前に、膝をついたときだって…笑顔で勇気付けてくれる。
それはあたしが"アンノーンに選ばれた人"だから?それとも、あたし…だから?
「ねぇ、白波…信じても、いいの?」
気付かないように押し殺してきた想いが一気に決壊した塀から溢れ出るように、あたしはシーツに落ちた染みから目を逸らした。
ふと、暖かい手があたしの頬を滑った。優しく拭き取るように爪が涙を弾く。
視線を上げれば上体を少しだけ起こした白波が、やっぱり笑っていた。
『
貴女を傷つけていたのは、私なんですね』
「白波……体は、大丈夫なの?」
あたしの問いに完全に体を起こした白波が力なく笑った。
無理していると思う。あたしの問いに答えないのは、あたしへせめてもの贖いだろうか。
白波が瞳を強く瞑った。それから、ゆっくりと青い瞳を開いた。
真っ直ぐにあたしを見る。
『
そろそろ、貴女についてお話すべきですね。時期尚早、かもしれません。
ですがこれは私の我侭なのです…貴女に、私を信じてもらうために。』
構わないですか、と強い口調で白波があたしを見据えた。
覚悟をした目だった。いつか、あたしは旅に出る前に様々な覚悟について考えた。
真紅が傷ついたときも、紅霞が傷ついたときも、覚悟をしてきた。
白波の覚悟を受け止めるため、今一度あたしは、覚悟しなくちゃならない。
「大丈夫。…白波、」
先に、伝えなくちゃ。どんな結果であれ、あたしの意思は変わらない。
白波ひとりに責任を負わせるべきじゃない。
青い瞳が一瞬だけ揺らいだ。
「勘違いしないで、白波。どんなことを言われても…あたしは白波が好きだし、信じてるから」
それだけ伝われば、十分なの。あとは付属品でしかない。
世界を救うとか、選ばれし者とか…そんなけったいな称号なんて必要なくて、あたしが欲しいのはただひとつ…みんなと幸せな毎日がほしいだけなんだ。
泣いてしまうことも、心が怒りで満ちてしまうこともあると思う。だけどそんなときがあるからこそ幸せの瞬間は輝くでしょう?
だから、あたしは前に進む。つらくても、苦しくても、大変でも。
それがあたしにしかできないのなら、あたしはあたしのために、突破するだけだ。
白波は暫く大きな青い瞳をいっぱいに丸くして、それから可愛らしく笑った。
きらり、と目尻に溜まる何かが光った気がした。
『
…貴女は本当に、お優しい方です』
『
白波!』
自動の扉が開いて、真紅が入ってきた。その後ろにはジョーイさんが笑顔でついてきている。
カートに入った幾何学模様の描かれたボールをあたしは5個、渡される。
「あなたのルカリオがどうしてもあなたに会いたいと聞かなかったから、ボールをお返しするわ。
このカイリュー以外はもうバトルをしても構わないけれど、今日一日はせめて安静にしてね」
「はい、ジョーイさん。ありがとうございました」
立ち上がって頭を下げれば天使のような笑顔を浮かべて彼女は部屋から退室する。
まだカートに入ったままのボールを真紅はおもむろに宙へと放った。
3つのボールから光に包まれて、彼らが顔を出した。
『
さぁ白波、そろそろ昔話の時間だよ』
『
なんなんだよ、翠霞』
翠霞の意味深な一言に紅霞が真っ先に反応して鋭い牙を彼に向けた。
とは言っても、翠霞だって予想はできても真実は知らないでしょう?いくら天才だとしても、確固たる証拠もない。
真実を知っているのは、白波だけ。
『
…紅霞、それに皆さんも、聞いてください。この世界と、ヒスイと…私たちポケモンについて。』
一呼吸置いて、白波が話し始めた。彼は瞳を閉じて、静寂に意識を投じる。
紅霞も真剣な表情で白波を見据えている。翠霞はある程度の予想はあるようで、やはりというべきか、何処か余裕があるように見えた。
真紅は少し釣り上がっている目を更にいつもより釣り上げて、一言も聞き逃さないという素振り。真紅は頭が良いけれど、まだまだ子供で世界のほんの少ししかわからない。
ロトムくんに関しては、なんとも言えないけれど。ただ話し始めた白波の邪魔をしないように宙に浮いて光のない瞳を彼に向けていた。
あたしは?わからない。自分がどんな表情をしているのか、どんな様子なのか。
でもきっと後悔はしない。聞いても聞かなくても結果は一緒だから。
あたしは自分の我侭のために、意思を貫くつもりだ。
だってあたしは…善人には、なれないのだから。
『
これは人間とポケモンという区別のなかった頃の…とてもとても、昔の話です。』
閉じられた青が開いた。その瞳に映るものを、あたしはまだ何も知らなかった。
2010.03.26
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