12 : Grief





夜風が心地よい。素直にそう感じた。
此処の場所は海が近すぎず私の好みの場所だった。昼間は人間で賑わい、夜更けにたまに男女が訪れるとは言え。
このような時間にそうそう人が近寄ることはない。だが背後から聞こえる足音はポケモンのものではなかった。

物陰に身を潜め、様子を窺う。

だが、それはよく知った顔だった。自分が気にかけている人間。
信頼とはまだ呼べぬその感情に、そのまま背を向けるか悩んでしまった。
しかしその考えはすぐに却下した。その瞳は、美しい海も、輝く星空も映してなかったからだ。

そのような人間ではないはずだった。少なくとも、最後に見た彼女の姿は活気のあるものだった。


「あ、」


姿を現せば小さく、彼女が声をあげた。驚きでもなく、その言葉に意味などないように、空虚に言葉を落とすように、彼女は薄く笑った。「スイクンさん」
それがあまりにも痛々しく感じた。同時に、ゾッとした。
世界に唯一平穏の光を灯せる人物が、こんなにも脆くても良いのだろうか。あまりにも、脆く、弱すぎる。

少し足を踏み出す。だがこちらに眼を向けることなく、海に映る闇だけを見つめるかのように。
溶けてしまうのではないかと思うくらいに。

まるで、別人だと思った。


そなた、こんな夜更けに…


ここまで言葉にしてから気がついた。ベルトにいつも下げられているボールが見当たらない。


…ボールも持たずに、危ないとは思いつかなんだか


私の言葉を聞き入れたかそうでないのか。彼女はゆっくりと「そうですね」とだけ口にした。
何をいってもだめなのではないだろうかとすら感じる。なぜこうも彼女は人間らしすぎるのだろうか。
仮にも、アンノーンの力を受け入れたものだろう。

私が生まれる前から彼女は存在し、愛を与えてきた。だが今の彼女に愛はあるのだろうか?
愛すら消えてなくなったのではないかという錯覚が私を支配してしまいそうな、虚無感をどう打開しろというのか。


私のようなポケモン風情が理解できるとは、到底思えないが


一拍置いて、彼女に口を開く。馬鹿げている、そう思った。
どう考えたとしても彼女が私のようなポケモンに話すわけがない。そして彼女の事を私が理解できるとは思えない、所詮は人間とポケモンだ。

その隔たりは昔よりずっと高く厚い壁となって彼女と私の間で阻むのだ。

だのに何故、そんな言葉を彼女にかけてしまったのだろうか、自分でも理解できぬことだった。
私は何を望んだのか。彼女に世界の平穏を望んでいない、とは言わない。だがそれしか無いわけではないようだった。
あの瞳は、幸福に満ちていたはずだった。失った光はどこにあるというのか。

別に何も、といいかけた彼女の瞳が見る見るうちに涙で溢れかえる。
嗚咽と、鼻を啜る音、途切れ途切れの言葉。何を言っているか、聞き取りづらい。

だが気がついたのだ。彼女は曖昧な存在だと思っていた。だがそれば彼女に対する私の勝手な思い込みであり、真実ではないのだと。
彼女はアンノーンが唯一心を許しただけの、ただの少女なのだ。
ただの、人間だったのだ。

なおも崩れ咽び泣く彼女に私が人間だったならとふと、考える。
人間だったなら、私に何ができるというのだろう。何をしてやれるか。


「あたしっ…きらわれ、ちゃっ……!」


かろうじて聞き取れたのはその程度で、声をあげて泣き出すそれが、不思議と煩わしいと感じなかった。
人間は苦手だった。ポケモン相手ですら、あまり得意ではない私が、感情を剥き出しにした彼女に不快感を抱かないというのは、と不思議な気分を感じていた。

ただ、頬を滑るこの涙を拭うことなく闇を受け入れつつある彼女に、ならば私がその涙を掬ってやろうとすら思えたのだ。
しかし何度見ても私の身体はスイクンと呼ばれるポケモンの姿のまま。

私はアンノーンの申し出を断った人間。望みすらしなかった、人化など、できるわけもない。
数十年、数百年、かかっても彼女がまだ泣いているとは思えなかった。今すぐに彼女の涙を掬ってやることができるのは人間か、彼女の手持ちであるポケモンたちだけだろう。

そう思うと自分というのはまるで無力だと錯覚してしまうのだ。
何が伝説だ、何が、監視者だ。少女ひとりの涙すら拭えないというのに。


…気分を害するかもしれぬ

そうならば、追い出せ。小さく、しかし伝わるように鼻を涙で濡れた顔に近づける。
意識を集中させれば、揺らぐ思考。

ぞくりと全身の毛が逆立つ様な感覚と共に滲んだ記憶に入り込む。
よほど、彼女の中で強い印象を残しているだろうこの記憶は鮮明で、それほど時は経っていないようだった。


『所詮お前もそういうやつだってことだろ……!』


赤髪の少年が声を荒げた。知った顔だ、つい最近見た覚えがある。
確か、焼けた塔でヒスイを突き落とした人間だったか。

瞬間、世界が揺れる。拒絶ではない、彼女の動揺がそうさせているのだろうそれが…ひどく不安定だものだった。
あの少年が彼女には大切なのだろうか…突き落とした本人をそう信頼できるものなのか。
人間なぞ、信頼すべきものに値などしないだろう。彼女とて人間でそれほど私とて信じているわけではない。

ただ、平穏をもたらす…人間は、彼女以外にもういないのだから。
だから関わらざるを得ないだけだ、と心のうちで吐き捨てた。それがなぜか自分でも言い訳染みていると感じる。

揺らいだ世界から覗く、紅。鋭い眼光が私を…否、ヒスイを冷たく突き放した。


『気安く呼ぶな。そんな汚い手で、触るな』


一瞬で世界から色が溶け出した。この少年に拒絶されたことがそんなにつらい出来事だったのだろうか。
私には想像もできないことだったが、一瞬黒髪の少年が映し出される。この角度だと恐らく肩を抱かれ…というよりは無理に引き寄せられたような感覚だろうか。
表情はあまり豊かだとは言えない黒髪の少年が、それでも少しばかり焦ったような感情を顕にしていた。

彼の手からボールが投げられる。橙の陰が一瞬横切って視界が急速に高くなる。
遠ざかっていく赤髪の少年に、彼女の記憶から抜け出すために瞼を閉じた。

顔を離して少し静かになった岬に意識を向ける。遠くから響く波の音が心地よい。
彼女のまだ僅かに不安定な呼吸音が、先程より随分静かになったものだと眼を開いた。


不快では、なかったのか?

「…わかりません」


泣くのを止めた彼女の瞳にまだ光が戻ったとは言い切れなかった。
だが少なくとも空虚に溶けるような瞳ではない。

しゃくりあげている割には随分と落ち着いたようだった。それが何故だか、気分を高揚させる。
理解できぬ感情が自分を侵食しようとしているのではないだろうか、一瞬だけ、ぞくりと冷たい感覚を覚えた。これは、恐怖…。

す、と頬に何かが触れた。彼女の手のひらだった。


「ありがとうございます、スイクンさん」

何に対しての礼だ?

「気遣ってくれたんですよね」


嬉しいです。ふわり、と笑って彼女が言った。
それから続けて、「わかっているんです、」とぽつりと零す。

黙って彼女に触れられている。心地よい体温が、頬に伝わる。


「みんな、平和に暮らすためにやらなくちゃいけない。あたしも紅霞たちも、みんな笑って生きるために。こんなことでくじけてちゃいけないって、ちゃんとわかります。
 でも…傲慢だなって思ってますか?ただ、ひとりの友人を失ったくらいで…揺らぐ、あたしが!」


強い視線が私に突き刺さる。まるで、見抜かれているような錯覚にとらわれる。
出来る筈がないのだ、彼女は人間で…ポケモンでは、ないのだから。

だが確固たるこの瞳から逃れられそうになく、囚われたまま。


…正直に話すと、そう、思っていた

「わかっているつもりなんです…でも彼は、シルバーくんは……すごく、大事な人でした」

何故だ?私の記憶にあるあの少年は塔でそなたを突き飛ばしていただろう


一粒、また一粒と落ちる涙を拭うこともせずに俯いた彼女に質問を投げかける。
それが愛というものなのだろうか。その感情は、私には理解できないものだ。

彼女に愛されている彼女の"家族"はその愛に応え、そしてまた愛を彼女に捧ぐ。
だが私にはその感情そのものが、欠落していた。

関わらぬように避けてきたのだ。私が生まれたのは誰かに愛されるためでも、誰かを愛するためでもない。
秩序と均衡を保護し、混沌を避けるためだけに、生きているのだ。
即ち彼女の心中など察してやれるはずもない。


「それでも…いつも、助けてくれました。必要なとき、あたしを導いてくれました。
 大切な、人なんです」

助け導けば、そなたは安堵するのか?ならば私がその役割を仰せつかれば良いのか?

「っ…スイクンさんは、シルバーくんとは違います!」


声が響き、撫でていた手に力が篭り、次は平手でもくるのだろうか。
自分でも馬鹿な申し出をしたと自覚している。彼は人間で私はポケモンだ、代われるはずなど、ないだろう。

本当に今夜はどうかしている。不自然に丸いあの月が私をおかしくしたのでは…だなんて馬鹿げた逃避か。


「スイクンさんは、スイクンさんです。彼にはたくさん助けられたけれど、でも、彼だけに助けられてきたわけじゃないです。
 ただそういう人がひとり、あたしを拒絶した。そんな現実を受け入れたくないだけ…。でも、ありがとうスイクンさん。」

…波乗りのことか?ならば、

「それだけじゃないです。そうやって手を差し伸べてくれる…それが世界のためだってちゃんとわかってるけど、でも、嬉しいです」
力なくだが彼女が笑う。
実際にその通りだった。私は、私の存在理由のために彼女を手助けしているに過ぎない。
そのはずがどうしてか、この心はそれを否定するかのように、奥底から叫んでいるように感じた。なぜ、私は否定したいのだろうか。

これ以上彼女と話すのは得策ではなかった。話していたい、と思う心もある。
ただこれ以上おかしくなっては、私は正気で居られないのでは?正気でない私は一体何をしてしまうというのだ、それすら、解らぬまま。

ただ彼女の笑顔に、私は何かを感じたがっている。
はっきりと理解できるのはそんな曖昧なことしかなく。

背を、ゆっくりと彼女に向けようとした。だがこんな夜更けに弱い人間をひとりで?
……私は、彼女に懐柔されてしまったのだろうか。


宿まで、送ろう

「やど…?あ、ポケモンセンターのことですか?」

…良いから、乗れ


前に人と話したのは何百年前のことだったか。今は宿泊場のことを"宿"とは呼ばないらしい。
ぽけもん、せんたーとはなんなのだ。私も年老いたものだ。

すみません、と苦笑しながら彼女が背に跨った。
しかし鋭く小さい悲鳴を彼女があげる。何事だ、と身体を強張らせれば少しして小さく謝罪の声が聞こえた。

一旦彼女を浮かせ、向き直る。小さくだが庇っている箇所に眼を移せば白く巻かれた手。
…気がつかなかった、か。


怪我を負っていたか…気がつかずすまない

「いえ!そんな、ひどいもんじゃ、」

…否、血の臭いが濃くなった。力をかけたか


少し痛むやもしれん、と一言断りをいれてから意識を集中させる。
私に治癒能力はない…ただ、皮膚をつなげることはできる。それだけでも随分治りがはやくなると昔教わった。

力をとけば僅かな痛みに歪ませた表情から、慌てて彼女は笑った。


「ありがとうございます」

…いや、失礼。


身体を浮かせ、ゆっくりと跨がせる。
もう少し彼女の苦痛に歪む表情を見ていたかった気がする。美しい、なぜだかそう感じた。
恐らく今の彼女の表情が美しいと感じないせいだろう。前は、もっと豊かだったはずだ。

いつから彼女はこのように取り繕うための表情を、貼り付けているのだろうか。
彼女をそう変えてしまったのはもしかして、私たちポケモンではないのだろうか?彼女に世界を救うことを強要し、そして結果、彼女自身を平穏から遠ざけているのでは、ないのか。

私のしてきたこととは一体なんだったのか。彼女が世界を愛し、家族を愛し、友人を愛し、ポケモンを愛さなければ…何も変わらず不安は危機へと変貌するだけだ。


取り繕うな。その笑顔は、自分を護るためかもしれぬが…素直になるが良い。疲れては、できることもできぬ。

「…そう、ですね」


体重が分散されて、ゆっくりと力を込められる。
跨ったまま私の背を抱く彼女の鼓動がゆっくりと伝わる。私は、世話というものを焼きすぎだろうか。

ゆっくりと歩き出した。ゆっくりと、彼女と居られる時間が瞬く程度には、伸びることを期待して。



2012.05.13





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