65656記念(シルバー)(風邪)






失敗した。そう思った。
何故だかわからないが、とにかく俺は今、失敗したんだ。
ベッドに横たわりながらシンプルな天井を見る。何を期待したわけでもないが、少し、汚れている場所から目を逸らした。

何がどうしてこうなったのかはまったくわからない。ただひとつ、言えることは無様だと言うことだけ。
吐き出した息がまるで熱を持っているかのように、宙で放浪したような気がした。実際には、見えないけれど。
カーテンを開けたバクフーンがこちらをちらり、と見てため息を吐いた。なんだ、何が言いたいんだ。俺だって好きでこうなっているわけじゃない。

咥えていた体温計がぽとり、と布団に落ちる。
37.9度を示しているそれは俺を嘲笑うかのように暫くしてERRと表示された。俺をとことん貶めるつもりのこの熱が煩わしい。ゆっくりと目を閉じる。

刹那、ふわりと嗅ぎ慣れた(でも決して飽きたというわけではなく)良い匂いが鼻をくすぐった。清楚なそれを放つ白く小さな手が体温計を持ち上げた。
まさか、そんなはず。俺は目を開いて虚ろな世界を眺める。黒い瞳が、思ったよりもずっと近くにあって思わず飛びのこうとして失敗する。
白い指が俺の頬あたりを撫でたからだ。でも別に緊張したわけじゃなくて、驚いたから体が固まっただけだ。
そう、別に緊張しているわけじゃない。驚き続けてるだけだ。そうに違いない。


「シルバーくん、風邪ひいたんですね!これは大変かも…」

「おまえ、なんで…」

「ジョーイさんに聞いたんです。シルバーくん、今日はまだどこにも行ってないって聞いて。
 ドアをノックしても気付いてくれなくて困ってたら、マニューラくんが開けてくれたんです」


勝手に入ってごめんなさい、と差し出されたのは水だった。
呆けている頭をどうにか働かせようとそれを飲めば、上手く入らず、喉でつっかえて…結果から言うと、むせた。それも思い切りだ。

呼吸が苦しくなって吐き出された咳に合わせて、こいつ…ヒスイが、俺の背を優しく叩いた。


「少しずつ、ほら…ゆっくり飲んで」


いつもよりなんだか子供扱いされている気がして苛々する。けれど恋焦がれた温度と、においに包まれている気がして文句のひとつも言えなかった。
言われたとおりゆっくり水を飲めば少し、落ち着いたように咳が小さくなった。

虚ろな世界が完全とは言わないが元に戻り、改めてヒスイを見やった。
黒く深い瞳が俺を映してから、少しずつ、近づいてくる顔。
ぴとり、と完全にくっついて情けないが俺はまたも固まってしまった。
だが臆することなく閉じられた瞳が開いた。


「すっごく顔が赤いと思ったら、…熱、高いですね」

「ッ…関係ないだろ」


やっと発言できてもこいつの吐息がかかるこの距離じゃ粋がっている気がして仕方がなかった。
普段は俺のほうがしっかりしてる。はずなのに。

黒い瞳から視線を下に、整った鼻を過ぎ、少し湿って中途半端に開いた唇で止まった。
まるで俺を誘うように見えるこの唇に噛み付いてやりたい。なんて思うのはきっと、風邪のせいだ。

視線を思い切り違う方に向けたことで、いまだERRの文字を表示している体温計と目が合った。それはこいつの手にまだ握られている。ああそうか、エラー表示されてるから、こいつはまた無防備にも額をくっつけて…きたのか。


「関係ないかもしれないですけれど、心配させてください。…ね?」

「……好きにしろよ」

「だから、病人はゆっくり休んでいてくださいね」


両肩を軽く押されて、起こした体がまたベッドに沈んだ。抵抗する力もないなんて情けない。
こんなことじゃ…親父を探すなんて、できるかよ。

心で自嘲しても現実は変わらず、去ったヒスイの背を目で追えばくるりと振り返ったあいつと目が合った。
見ていたのがバレたのかと内心焦ったが、ふわり、とヒスイは笑う。


「いいですか?絶対に!寝ててくださいね。
 おかゆぐらい失敗しないで作れますから、安心してください!」


薬はその後にね、といつものような笑顔に安心した。
この鈍感女には全くといっていいほど勘付かれてないが、正直なところ俺はこいつにしてやられてばかりだ。
ポケモンバトルで、というのももちろんあるが(いまだに勝てない)主にこういった日常の中で…ひとつひとつの仕草に心臓が高鳴る。

初めてこいつと話したのは、じろじろ見られていたからだった。
ポケモンを盗んだのは初めてのことだったから、もしかしたら逃げ切れないかもしれないと内心動揺していたのがバレたのかと思った。
だけどヒスイは…正直言って、人の考えを読むのが下手くそだ。

なのになんで俺はバトルでいつも負けるのか…不思議でならない。

とにかく、俺とはまるで正反対のこいつに…警戒心もなく、無防備で、鈍感で、無償の笑顔を俺に向けるヒスイに、俺は完膚なきまでに敗北していた。
いや、敗北と考えることこそがそもそも間違っているんじゃないのか?
惚れたほうが負けだなんて誰が言ったんだ。もし本当にそうだとしても、ヒスイが俺に…惚れれば、引き分けくらいにはなるだろ。

バトルですら一度も引き分けという結果に終わったことはない。
だけど勝つ必要はなかった。…いや、最終的には勝つんだ。この引き分けこそが、俺の求める勝利そのものだ。


「シルバーくん、あの…大丈夫?目を開けたまま眠っちゃったのかと思って、」

「ッ…、おまえじゃないしそんなことできるかよ」

「失礼ですね!あたしだってできませんよっ!」


いつの間にか横に座っていたヒスイに慌てて返せばぷくっ、と頬を膨らませた。
ああもう、だからそんな風にいちいちころころ表情変えるなって言ってるだろ…!

胸が苦しくなった気がして視線を逸らす。


「おかゆ、作ってきました。どうせシルバーくんのことだし寝ないと思って、ご飯から作ったんです。
 お米から作るよりははやいから、びっくりしたでしょ?」


また笑顔でお椀を差し出される。膨れた頬も消えたみたいだ。
湯気がふわふわと浮くそれを受け取って木でできたスプーンで掬う。

あ、とまた何か思いついたようにスプーンにのったそれを見ながらこいつは笑った。


「あーん、とかすべきですか?」

「ばっ…馬鹿だろおまえ!」

「ば、バカじゃないです!でもシルバーくんにはしませんよ、猫舌そうだし」


ふふふ、と面白そうに笑うこいつを無視してスプーンの上で幾分か冷めたそれを口に運ぶ。あ、美味い。
というよりはこいつの料理は美味い。絶品、というわけではないがどこか安心する味だ。

感想も言わず、黙々と食べる俺を暫く見ていたが飽きたのかヒスイはマニューラと話し始めた。
俺には鳴き声にしか聞こえないが、会話は成り立っているらしい。傍目から見てもそう思った。

幸せそうに話すヒスイがふと、俺を見る。(マニューラが一瞬俺を睨んだ気がした)(俺がトレーナーだってこと忘れてるんじゃないか)


「シルバーくんの将来の夢ってなんですか?」

「…ポケモンマスター」


正直に答えた瞬間、ぶ、とヒスイがふきだした。眉間に皺が寄るのが自分でもわかって、舌打ちをする。
慌てて両手を軽く振って「ごめんなさい、バカにしたんじゃないんです」と弁解を始めたヒスイの表情は焦燥そのもので、その表情で一気にもやもやとした気持ちは吹っ飛んだ。

だがそれは顔には出さなかった。からかっていいのはおまえじゃなくて俺なんだ、ということを再認識すればいい。
そしておまえがからかわれていいのは俺だけだ。絶対に、譲る気なんてない。


「シルバーくんがポケモンマスターって言うと、なんだかちょっと可愛いです」

「…嬉しくないな、馬鹿にしてるのか?」

「だ、だから違いますって…!
 ……ってシルバーくん、もしかしてあたしのことからかってますか!?」


やっと気付いたらしいヒスイは俺が笑ったのを見てまた怒り出した。
百面相ってまるでこいつのためにあるような言葉だと思う。笑ったり怒ったり忙しいやつだな、と思っても口には出さない。


「おまえは、どうなんだよ」

「あたし…ですか?」


一瞬きょとん、として少しヒスイは顎に手をあててぼんやりと視線を泳がせた。
聞き返されると思っていなかったらしい。自分でも驚いてる、こんなことを聞き返すなんて。

風邪で幾分か頭がぼんやりとした脳は何を口に出すよう指示するか、わかったもんじゃないな。
残り少なくなったおかゆを口に運ぶ作業を再開すれば、ヒスイがぽつりと呟いた。


「世界平和……かな?」

「…は?」

「いろんなところを旅して、困った人とか、ポケモンとか…みんな笑顔になれるようなお手伝いをしたいです」


空になったお椀を奪われて、またコップを渡された。ぬるめのお茶が香り高くそそがれている。
それを少し飲んで(なんとも言えない味がした)胃がすっと落ち着いてくる。

少し考えて、つい笑ってしまった。声を上げてというわけでもなく、ふきだすようなものでもなく。ふ、という感じだった。
別に馬鹿にしてるわけではないし、むしろ、こいつらしいと思った。…でも。


「助ける側じゃなくて、助けられる側じゃないのか?」


マダツボミの塔から始まり、こいつはいつも危なっかしい。
そういうニュアンスを込めれば少し視線を下げて「そうですよね」と小さく笑った。
さっきのようにまた怒るものだと予想していたのに、ああ、不味い。どんどん視線が下がってくる。

腕を伸ばして、床に膝立ちしていた馬鹿を引っ張る。面白いくらい従順に、ベッドに膝が乗った。
それでも座り込もうとしないあたりはささやかな抵抗らしい。


「別に、悩む必要なんてない。おまえが落ちるなら、おまえが転ぶなら。…俺が支えればいいだけのことだ」

「シルバーく、」


言葉が途切れ、最初とは別の場所が触れた。柔らかなそれに噛み付くのは自重して、そう、触れるだけだ。
それでもずっとこうしたくて、混ざった視線を解放するのも名残惜しかった。
だけどすぐに体を離した。一方的にすべきことじゃない、という今更ながらのなけなしの常識と、拒絶への不安が行為を最小限に食い止める。

黒い、丸い瞳が大きく開かれて俺をじっと見つめた。拒絶ではなくまだ、驚愕の表情。


「意味、わかるだろ」

「う、ん…」


歯切れの悪い、返事。暫くの沈黙の後、まるでリンゴのように真っ赤になったヒスイが足に力をいれた。
離れそうな体を繋ぎとめるように、腕を掴んだ。逃がしてなんか、やるかよ。


「逃がすつもりはない。引き分けにするには、長期戦になるからな」

「ひき、わけ?」

「俺だけが惚れているのは気に入らない。おまえは、俺だけに頼ってればいいんだ」


気に食わないジムリーダーだとか、ヒビキのやつだとか。全部ひっくるめて、俺がこいつの中から追い出してやる。

少し呆けた顔をしたヒスイが、視線を二、三度揺らして強く目を瞑った。
その瞬間頭から冷水をかけられたかのような感覚が体を支配した。この感覚は、恐怖だ。
もしかしたらもう既に、俺は惨敗していたんじゃないだろうか。

そう思うと掴んだ腕を自然と放していた。放してしまった。
このままこいつが部屋を出れば、俺は地に膝をついてしまう気がした。
負けを認めるということはあまりに簡単なものなのだ。諦めなんかつくはずもないが。

ぐ、と引かれるような違和感を感じて袖口に視線を向けた。
小さく、本当に小さく袖を掴んでいる小さな手が遠慮がちに少し動いた。


「…あたしを助けてくれるのは、シルバーくんしかいないです」

「ヒスイ…?」

「高いところから落ちそうなときも、ふらふらしてるときも、支えてくれるのはシルバーくんだけです。
 まだまだ…甘えても、いいですか?」


ぎこちなく笑った顔はまだ赤いままで、その言葉が膝をつきそうだった俺の行為を間一髪で食い止めた。
俺の袖を掴んでいた手を壊さないようになるべく丁寧に握って、視線を合わせた。


「…手離すつもりはないからな」


覚悟しろよ、手を引いてまた、唇を重ねた。視線は閉じられた瞼に遮られて重なることはなかったが、なにより、それが最高の返事だった。
重たい体なんて最早気にならなかった。
馬鹿みたいに安心して、瞼を閉じた。この瞬間聞かれた夢よりも手にした幸せのほうが大きいとはっきり、俺にはわかっていた。



(「風邪ひいた…!絶対シルバーくんのせいだ!」)
(「ナントカは風邪ひかないっていうのは嘘だな。」)
(「ひどい!馬鹿じゃないです!」)
(「仕方ないな、今日は俺がおかゆを作ってやる」)
(「…!白波、シルバーくんだけには任せないでええっ!」)
(「…おかゆぐらい、できるだろ。たぶん。」)




* * *


2010.04.05 Culm



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