崩れ落ちた先


「貴様、まさか忘れたわけではあるまい」

 男が語る。
 氷のように冷たく、鉄のように無機質な声が、遠い空間に反響も無く溶け込んでいく。

「救いようのない程に愚かな奴、結果はとうに解っていなければならないのに」

 男が嗤う。
 三日月のように鋭利で、チェシャ猫のように歪な笑みで。

「よく見ているがいい、貴様は私を追い越すことなど決してできやしないのだ」

 男が動く。
 その伸ばされた手の先には、――。


* * * * *


「――やめろッ!」

 腹の底から叫び、弾かれるように身体を起こす。
 はっとして見渡した馨の目に入るのは、いつもと同じ自分の部屋。途端、急激に頭が冷やされる感覚。

「……ッ」

 ――夢か。
 背中を滑り落ちる不快感と恐怖感に眩暈がした。
 どくどくと、今にも壊れてしまいそうなくらい激しく早鐘を打つ心臓。額から鼻筋にかけて冷や汗が伝うのを感じ、身体中が一気に熱くなった。まるで体内で業火が燃え盛っているかのように全身が熱く、滲み出る汗の量が尋常ではない。
 カーテンの向こうから青白い光が透けている。時計ははっきりと見えないが、今はおおよそ午前三時か四時頃だろう。いつもならばまだ夢の中にいる時間帯だ。
 何度も深呼吸を繰り返すことで乱れきった心拍をゆっくりと整え、馨は寝間着の胸元を強く握り締めた。

「ハァ……ッハァ……」

 頭が割れそうに痛い。
 あの男の声が、地獄の底から響くような忌々しい声が、依然鼓膜の奥に残ったままがんがんと反響しては痛みを助長している。ただの夢のくせに、と下唇を噛んだ。
 男の顔は思い出せない。きっと思い出さない方が良い。ただ、途轍も無く冷たかったという印象だけが脳味噌に直接張り付いているようで、その感覚を自覚する度に寒気が走る。嘗て、あの冷たさと同じものを湛えた存在がいた。輪郭すら朧げな影の中にその存在の姿を見出してしまいそうになり、もう一度ぎゅっと目を瞑って全てを消散させる。
 ――気持ち悪い。
 全身を駆け抜ける寒気は、決して夢のせいだけではない。馨には解っていた。
 昨夜から身体の不調には気付いていたが、まだ大丈夫だろうと思っていた。それが甘かったのだ。熱は計るまでもない、この頭痛と気持ち悪さだけで状態把握は充分である。

「……最悪」

 土日こそ練習に力を入れたかったというのに、この様だ。
 とにかく朝まではきちんと寝ようと思い、布団を被り直す馨。もう夢は見たくないと、何も考えずに身体の力を抜く。
 無理に閉じた瞼の裏側。真っ黒なそこの孕む熱が、今にも両の眼球を溶かしてしまいそうだった。


 ピピッと鳴った音を合図に体温計を覗き見て、馨はぐっと顔を顰めた。
 ――38.3℃
 完全に風邪の症状だ。

「有り得ないよなぁ……」

 熱を計る前に、円堂へは『急用ができて部活に行けなくなった』と連絡をしておいた。素直に体調不良と言って心配をかけるのは嫌だったし、何より指導者として情けなさすぎた。度重なる夜更かしで体調を崩すなどコーチ失格だ。
 一人暮らしなために看病してくれる人はいないが、幸い歩いたり何かを持ったりするくらいなら可能だったので、ある程度のことは一人で済ませられる。こういう有事の際にと予め買っておいたパックのお粥が役に立つ瞬間だが、何も嬉しくはない。
 自分のことに関しては特に問題無い。これまで大抵の風邪は一日しっかり寝ていれば治っていたから、今日ゆっくり過ごせば明日には体調も良くなっているだろう。万が一それでも治りきらないというのなら素直に医者へかかるつもりだし、とにかく雷門イレブンに心配をかけるには及ばない。
 ――ただ、問題は部活の方だ。
 今日こそは相手のフォーメーションと必殺技への対策をやろうとしていた。そのために昨晩はノートの仕上げと、併せて使おうと考えていた例の帝国サッカー部の試合の動画をDVDに焼いておいたのだ。視聴覚室を借り、そこで動画を鑑賞しながらノートの内容と擦り合わせを行い、帝国の持つ特有の“タイミング”を覚えてもらう予定だった。それが実演のできない馨なりに考えた、精一杯の対策だ。
 なのにこれでは、確実に試合までに満足のいく練習ができない。自分の不甲斐無さにほとほと嫌気がさした。

「……どうしよう」

 小さく溜め息を吐きつつ、ちらりと机の上へ目をやる。
 今日まで寝不足を覚悟してノートに纏めた帝国の情報と対策。体調を崩した原因は間違いなくこれだが意味はあるのだ。それが、全てとは言わずとも無駄になってしまう。彼らに必要な情報なのに。
 切なくも放置されたノートから目を逸らし、気怠い動きで部屋の掛け時計を見遣る。午前中に起きてやれることをやってから再び寝たが、あれから夢を見ずうなされることなく睡眠できたため、時間は既に午後の三時を指していた。
 ――届けるか。
 自分がいなくても、ノートさえあればあとは彼ら自身でどうにかできるだろう。視聴覚室の使用についても木野に頼んでおけば滞りなく解決するだろうし、馨がその場で解説をしなかったとしても、最悪ノートを読めば大抵の動きを理解できるようにしたつもりなのだ。これを無かったことにするくらいならば、彼らを信じて託してしまった方が良い。
 馨はのっそりとベッドから抜け出し、最低限の出掛けられる格好に着替えた。風邪を移してしまうといけないのでマスクも忘れない。頭はくらくらするし動けばすぐに息はあがるが、吐き気も治まりつつあるのだから雷門中に行って帰るくらいなら平気だ――少なくとも、馨自身はそう思っていた。


 普段何度も通っている道のはずなのに、今日はただただ地獄のような道のりにしか思えない。麗らかな春の陽気すら熱を帯びた身体には灼熱でしかなく、死ぬとしたら今かもしれない、という悟りに何度至っただろうか。少しどころかかなり軽率な行動をしているという自覚が芽生えるには些か遅すぎて、しかし鞄の中に入っているノートのことを思えば、後悔をしている暇は無い。
 途中何度か立ち止まることはあったが、それでも何とか無事に部員たちの頑張る姿を拝むことができたのは、家を出てから三十分以上経過した頃だった。

「あ、あれ江波コーチじゃね?」
「今日は来られないはずじゃなかったんスか?」
「でも、練習見てもらえるなら嬉しいけどな」

 染岡、壁山、半田の反応はチーム共通だった。
 来ないと連絡していたはずのコーチが突然やって来たことに皆驚いていたが、同時に喜んでもくれているようだ。練習を見てくれるのか、という期待の篭った眼差しが多く馨に刺さる。残念ながら、さすがにそこまでできるような元気は今の馨には残されていなかった。
 心配だけはさせないよう、自身の不調を悟られぬよう、努めて自然な振る舞いでベンチ前にいた円堂のもとへ向かう。

「こんにちは、円堂くん。ちょっと時間空いたから届けものしに来たよ」
「こんにちはコーチ! やっぱ練習見に来たってわけじゃないんだ」
「うーん、大事な土曜日なのに悪いね。……はい、これ」
「ん? ノート?」

 鞄から取り出したノートを円堂に手渡す。無地の表紙には何も書いていないので、一見すると何の目的のためのものなのかは解らない。だから円堂も中身を覗くためページを捲ろうとしたのだが、馨はそれをやんわりと阻止して「後で皆と見て」と念押しした。今目の前で読まれることに躊躇いが生まれてしまう、そんな自分の弱さに内心嘲笑しながら。

「帝国との試合のために必要なこと、私の知ってる全ての情報、この中に書いてあるから」
「帝国の……」
「あと、このDVDには以前とある中学校で行われた帝国の試合の様子が入ってるから、ノートと一緒に鑑賞してしっかり敵の特徴を覚えてね」

 追加で取り出したDVDケースも円堂へ委ね、傍にいた木野を呼び寄せて冬海先生経由で視聴覚室を使うようにと指示を出す。それを了解した木野が校舎内へ駆けていくのを見送りつつ、再び円堂、そしていつしか周辺に集まってきていた他のメンバーに改めて頭を下げた。

「ちゃんと責任持って練習に付き合うつもりだったのに、皆、ごめんなさい」
「そ、そんなに謝らなくても大丈夫ですよ、コーチ」
「そうそう、これまで教えてもらったことを活かしてオレたちだけでもしっかり練習するからさ!」
「……ありがとう」

 風丸と円堂の言葉は、発熱も相まって通常以上に弱くなりつつある馨の心を確かに支えてくれる。そしてその優しさを感じればそれだけ、彼らがノートを開いてそれを書いた人物への懐疑心を抱くことへの恐怖が膨らむ。とても今更で、もうどうしようもないことなのに。

「何かあったら遠慮なく電話してくれて良いから……」

 あとはよろしくね、と激励と謝罪の気持ちを込めて円堂の肩を叩くと、彼だけでなく周り全員が大きく頷いた。何人かは馨が帰ることを残念がり少しでも留まってほしいと嘆願した。馨とて出来るなら最後まで残って指導をしたいが、それは無理な話だと嫌になるくらい認識している。
 正直、この時点でだいぶ体調的にきつい状態だった。しかし悟られるわけにもいかず、脂汗を拭っては努めて笑顔を見せる。そんな辛い努力の結果、馨が帰るときになっても誰一人コーチの異変には気付いてはいないようだった。

「明日は来られますか?」
「うん、努力する」
「よーし、じゃあ今日でもっと強くなってコーチを驚かせてやろうぜ!」

 円堂の呼び掛けにわっと声があがる。相変わらず面白いくらいに彼の声は鶴のそれだ。
 彼がいれば大丈夫だろうし、寧ろ馨が来て以来初めてのコーチ無しということで全体のやる気も上がっている。休むのは不本意だが、チームのボルテージに繋がっているのだろすればそれ自体は喜ばしいことだ。

「しっかりね」
「はいっ!」

 後のことは円堂や木野辺りに任せ、馨はボロが出ないうちにお(いとま)することにした。
 少しずつ振り返してくる吐き気。残る体力で手を振りながら校門を抜けるが、あちらから見えない場所まで来たとき、どっと塀に背中を預けた。

「ぐっ……」

 胃の中がぐちゃぐちゃに荒らされ、丸ごと引っ繰り返されるような気持ちの悪さ。気を抜けば意識ごと持っていかれそうになる。
 波となって襲う不快感は、ある地点を耐え忍べば暫くは楽な時間が訪れる。今さえ我慢すれば、楽になったときにさっさと帰っておしまいだ。背筋を流れる汗を無視し、馨は深く息を吐いた。
 だからといって、いつまでも此処にいるわけにはいかない。下手すれば部員に見つかってしまうかもしれない。
 気持ち悪さはそのままに塀から背を離し、ゆっくり、身体を気遣うように歩みを再開させる。もっと速く歩きたいのに脚がそうさせてはくれなかった。
 念の為、薬は持って来ている。あまりに辛ければもう少し行った先にある公園で休もうと考えたが、瞬間、その思考はぶつりと途切れた。

「……ッ」

 ふっと、目の前が霞んだ。
 天地が一転する感覚に身体が傾き、気付いたときには地面に四肢をついていた。
 ――熱い。
 嫌な汗が身体中から染み出てくる。突然吐き気が引っ込んだと思えば、今度は頭が重くて仕方ない。
 両脚を叱咤して何とか再び立ち上がるが、塀を支えにしないとすぐに倒れてしまいそうだった。

「はぁ……」

 それでも早く帰らねばと、物に掴まりながらも小刻みに歩みを進めた。


 ――どれくらい歩いただろうか。
 雷門中はとうに見えなくなったが、まだ自宅からは遠い場所にいることは馨自身ぼんやりと理解はしていた。殆ど本能で動いていると言っても過言ではない。先の見えない道のりに気どころか意識すら遠くなってしまいそうだ。
 土曜の午後、閑静な住宅街。見た限り辺りに誰もいないのは、果たして幸なのか不幸なのか。

「友達には、見られたくないなぁ……」

 独り呟き、自嘲的に笑う。そんなくだらないことを考えられるうちは大丈夫、そう自分自身に言い聞かせでもしないとやっていられない。
 しかし、上半身を折って息を荒げながら進む馨の目に公園が映ったとき、ついに身体が限界を迎えた。
 がくんと力が抜け、コンクリートに膝を打ちつける。まともな受け身も取れず強かに打ったため鋭い痛みが脳天まで突き抜けるが、最早そんなところにシナプスは働かない。頭が働かない。ジェットコースターに乗ったときのような浮遊感に全身が苛まれ、いっそこの場に倒れ伏してしまいたくなった。
 ――もうダメだ。
 自力では動けない。吐き気は山場を越えたが、身体が鉛を引きずっているようだ。いっそ気絶でもしてしまった方が楽なのに、そこへ至るまでではなく、じわじわと火炙りにでもされているような拷問めいた不快感が身体を蝕む。せめて少しでも体調の波が治まることを、道の隅で崩れて待つしかなかった。
 すると――。

「大丈夫ですか?」

 控えめに掛けられた声と、触れる程度に肩へと置かれた手。俯いている馨には相手の顔は見えないが、誰かが心配して寄ってきてくれたことは察せられた。
 朦朧としてきた意識が不意に引き戻される。だが頭の重さには敵わず、馨は顔をあげることすらままならないまま小さく頷いた。

「だいじょ、ぶ、です……」
「とてもそうは見えませんが。気分が悪いのですか?」

 声色からして恐らく少年であろうその人物は、一言「失礼します」と断ってから馨の前髪を上げて額に触れた。瞬間に感じた掌の冷たさは異常な程に心地好く、馨の体温の高さを明瞭に表している。

「……熱がありますね。立てますか?」
「立てま……す、みませ、ん」

 視界の端に少年が差し出したと思われる手が入り、馨は少しばかり戸惑ったが、結局素直にそれを取った。見ず知らずの、まだ顔すら見ていない人に迷惑を掛けるのは非常に気が引けたが、ここで倒れてしまったらもっと周囲の迷惑になってしまう。
 回らない頭で弾き出した決断は、相手に必要以上の遠慮の気持ちを無くさせたらしい。少々力を込めて引き上げられたかと思えば、次の瞬間、馨の腕は彼の肩に回されていた。そこで気付いたが、自分より相手の方が背が低く、やや華奢でもある。多少なりとも体格差のある人に運んでもらうなんて、という羞恥なのか困惑なのか解らない感情が頭の片隅に湧いたが、自由のきかない身体ではどうしようもなかった。
 一歩一歩確実に歩く二人。正確には、少年が馨をほぼ引っ張っている状態だ。その間にも少年は、家は近いのか、薬は持っているか、吐き気はあるか、食事はとったのか、と次々に質問を投げ掛けてきた。その全てに情けないくらい細い声で答えれば、返事かどうかあやふやな音だけが返される。
 そんな彼の最後の質問は「とりあえず公園まで行けますか?」だった。

「家が遠いならこのまま歩いて帰るのは大変ですから、こちらで車を手配します。ひとまず薬を飲んで、落ち着いた方が良いです」

 公園のベンチに座らせられ、言葉を挟む隙を与えずにきびきびとそう言い切る少年。脳味噌は未だぐらぐらと揺れている馨の頭だが、彼の言うことくらいならきちんと理解できた。そして時間は掛かったが、思った以上に迷惑を掛けていると気付くこともできた。
 ――車、って。
 そんな大それた処置は、最早迷惑なんてレベルではない。はっとして、馨は水を買う為にベンチから離れようとする少年の腕を反射的に掴む。

「ま、待って……さすがにこれ以上は」

 結構です、と続けようとして相手の顔を見上げ――思わず硬直した。

「遠慮ならしないでください。道端で倒れられた方が迷惑ですから」

 彼の纏う衣装は、どこかの軍団を思わせる程に厳粛さの漂う黒い制服。馨は一目でどこの学校のものだか解った。
 それよりいっそう目を引くのは、特徴的なドレッドヘアーのポニーテールに、より特徴的な青いゴーグル。
 見覚えが、あった。

「……君、帝国学園の」

 思わず頭に浮かんだままの言葉が唇から零れる。
 こんなに奇抜な容姿の子は、きっと世界中を探しても彼一人しかいないだろう。忘れたつもりでいた馨を嘲笑うかの如く、強く強く記憶に根付いていた少年の姿。グラウンド内で、さながらチェスでも興じるようなゲームメイクを披露する赤いマントの影。
 あの日、帝国学園サッカー部の練習試合に出くわした日、遠目に視線がぶつかった――名も知らぬ、サッカー部のキャプテン。

「そうですが、どうかしましたか?」

 腕を掴んで中途半端なことを言ったと思えば突然動かなくなる。
 そんな、どこから見ても奇妙な言動の女に、少年の眉がいよいよ怪訝そうに寄せられた。明らかに反応に困っている様子だが、今の馨には彼の気持ちを考える余裕などありはしなかった。呆然としてしまった反動で掴んでいた手から力が抜け、無意識に彼の腕を解放する。

「……いや、何でも」

 やっとのことで返した声音はひどく掠れていた。
 少年が帝国学園の生徒でも、ただのサッカー部キャプテンというただそれだけならば、馨の気にするところではない。このまま流れに沿っていき、迷惑かけてすみません、さようなら、をするだけで良いのだ。馨と彼との出会いはそこで終わり、次は雷門との試合当日にグラウンドで再会し、それっきり。縁を断ち切ってしまえば二度と会うことはない、その程度の関係性。
 しかし、少なくとも馨の中では、彼は“ただのサッカー部キャプテン”ではなかった。
 熱に茹る馨の脳裏を、初見時、彼と初めて目を合わせたときの光景が過ぎる。少年のマントの有無などどうでも良い。
 問題は、あのとき彼の隣に立っていた、あの男――。

「、あ」

 馨の顔をじっと見つめ返していた少年が、ふと何かを思い出したように眉を動かした。

「貴女は、あのときの……」
「……覚えてたんだ」

 思い至った結論にゴーグルの奥の瞳を僅かに瞠る少年。対する馨は目を細め、そっと視線を逸らした。
 少年は馨のことを覚えていた。何日か前、試合前のたった一瞬、遠く離れた場所で出会っただけだというのに、少年は確実に馨のことを認識し、こうして記憶の淵から拾いあげてしまった。それはいくら悔やもうとどうしようもない事実であり、第三者の手による改竄など叶わぬ、変えられない他人の過去である。
 ならばいっそ、賭けに出ようと思った。

「ねえ。私の名前を、知ってる?」

 これは、自分とあの男と完全に縁が切れているか確認するための一種の賭けだ。
 自身の過ごしたこれまでの六年間が正しいものだったと、間違ってなどいなかったのだと、ただそう肯定するための賭けなのだ。
 そして、その結果は。

「……江波、馨さん」

 恐る恐るといった感じに吐き出されたそれは、がつんと鈍器で頭を殴られたような衝撃を馨に与えた。江波馨という、紛れもない己の名前が彼の口から齎されるその意味を、嫌でも理解せざるを得なくて。
 身体の怠さすら忘れてしまい、無意識に僅かながら口角が吊り上がる。
 ――あぁ。
 瞬時に受け入れとよく似た、しかし納得や諦めとは違う不思議な感情が静かに生まれた。名前の付けようがないその絡み合った複雑な感情は、熱に浮かされる脳とは真逆に、馨の心を驚く程落ち着かせる。
 全ての事象に意味があるのだとすれば、自分と彼とがここでこうして巡り会ってしまったことにも、また何か意味があるのだろうか。そうなのだとしたら、それはきっと、馨にとってはひたすらに残酷なだけの現実でしかないというのに。
 新たに生まれたか細い縁を、馨は断ち切ることができない。だからやはりこれは、敢えて名付けるとするならば、諦めというものなのだろう。

「それ以外は、何か、知ってる?」
「いえ、名前しか……どうして俺が貴女を知っていると解ったのです?」
「何となく、だよ。理由なんて無い」

 ヒュッと病的な呼吸音を耳に受け、そこで馨は自分が病人であり彼に助けられた身であることを思い出した。途端、またあの鉛に似た重みが内側へ落ちてくる。質量を持っているのではと疑いたくなるまでの苦しさを耐え抜くように、大きく息を吐いた。
 少年は、返された直後は馨の答えにはっきりと満足していない顔を見せた。が、辛そうに肩で息をする馨を見ればそれ以上の言及をせず、ぐっと口を噤んだ。
 薬を、と誰にでもなく呟き、早足で近くの自販機へ水を買いに向かう少年。その背中がいっそあからさまな程に疑念を纏っており、馨は彼の見えぬところで独り自虐的な笑みを漏らした。

「……」

 きっと彼にとって、馨が何故名前を知っていると解ったのかは想像に難くないだろう。それに対して何を考え、何を思うとしても、それは彼自身の勝手であり馨には関係の無いことだ。同時に、馨が少年とその向こう側に確信してしまった“縁”についてもまた、彼には関係の無いことでしかない。
 お互い、これ以上深みに入って関係を深める必要は無いし、するべきでもない――なんて。いつだったか、雷門中でも同じことを考えていた気がするのに、現状がこれなのだから救えない話だ。
 けれど、もうじきに水を持ってきてくれるあの少年には、帝国サッカー部キャプテンの少年には、円堂のとき以上に強くそう思えてならない。彼と一緒にいることは彼にとっても自分にとっても良くないことだと、本能がそう感じている。
 ――薬を飲んで落ち着いたら、すぐに帰ろう……。
 今の馨にできることは、それだけだ。




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