バカ者なりの進む道


 思った以上に覚えていた。
 頭ではなく、身体全体で。
 自己認識して、独り自嘲した。


 通常、帰宅後は真っ先に荷物を片付け風呂に入り夕飯を食べ、やることを済ませた爽快感と共にその後の時間をだらだらと有意義――飽くまで馨にとっては――に過ごすのが日課である。先日までのように課題や考査が詰まっている時期は別として、基本的に馨の夜は特にやるべきこともやりたいことも無い空白の時間だ。せいぜい雑誌を読むとかテレビを見るとか、普通の女子大生から煌びやかさを差し引いたようなことしかしていない。何せ馨は趣味らしい趣味を持っていないのだから。
 良く言えば自由、悪く言えば空虚。
 そんな夜を過ごすのが当たり前の日常――だとすれば、今という時は馨にとっては途轍もない非日常だといえよう。

「えーっと……これか」

 帰宅してからとんとん拍子にやるべきことを片付け、明日の準備もそこそこに開いたのはローテーブル上に置かれているノートパソコン。大学指定の真っ白なそれはほぼ課題専用機かレジュメ専用重石と化していたが、今日ばかりは全く別の用途で役に立ってくれている。
 座椅子上で胡坐をかき、やや前のめりの姿勢で画面を覗きながらカチカチと操作をする馨。開いているのは日本でも有名な動画サイトだ。そこでお目当ての動画を見つけると、音量に注意しながら再生ボタンをクリックした。
 画面に流れるのは、つい先日、馨が訪れた先で行われていた帝国学園の練習試合の様子である。
 撮影者は定かでないが、恐らく外部からの観戦者、平たく言えば野次馬なのだと思う。ハンディカメラで撮ったらしくブレとピンボケの多い画面は少々見辛いが、アップで映し出される帝国サッカー部員の動きを確認する程度ならば申し分のない参考資料となってくれる。
 あの日、自分は見て見ぬ振りをしようと決めた試合。図書室で聴いた声は歓声であり、途中からはやはり、悲鳴に変わったようだ。次々に倒れていく相手チームの選手に奥歯を噛み締めながら、それでも馨は目を離さずに動画を見続ける。

「……基本はやっぱり変わってないんだ」

 何度目かのゴールのホイッスルが鳴り、再び試合が再開されようというところで画面全体が引き気味になったので、一旦そこで動画を止める。帝国イレブンの初期陣形が見やすくなっている部分だ。馨はパソコン横に用意しておいた練習用のノートを手に取り、該当のページを開いた状態で画面と見比べてみた。
 ノート上に描かれた十一個の丸が表すのは、中央に配置された司令塔が鍵となる3-5-2の形――『フォーメーション・デスゾーン』。試合展開によっては他にも使い分けてくるが、大体は終始一貫してこの陣形を用いるのが帝国サッカー部の基本戦術だという記憶のもとに書き起こしたものだ。そして画面上の選手の配置と鑑みてみれば、全く相違無いのが見て取れる。馨の記憶はだいぶ前、それこそ六年も前のものなので、現状と差異が無いかを確認したかったのだが――杞憂だったようだ。ある意味、あの学校はどこまでも伝統と秩序に重きを置いているということなのだろう。こちらとしてはありがたい話だが。
 殆ど走り書きに近かったフォーメーション図を改めてしっかりと書き直す。そうしながら、帝国のサッカーについて今一度思いを馳せる。
 そう、彼らは伝統を大事にしており、戦術は常に変わらず代々受け継がれている。その証拠として、目の前の動画上で駆ける選手たちの動きはどれもこれも馨の記憶にあるものと違わず、一瞬タイムスリップでもしてしまったかのような錯覚にすら陥りそうになる程だ。
 そんなにも長い間同じ戦術を使い続けていれば、遅かれ早かれ周りのチームも対策を講じてくるだろう。なのにも拘らず、何故帝国は四十年間無敗の記録を誇っているのか――単純な答えだ、その“伝統”が強すぎるからに他ならない。
 対策を練ったところで、帝国はそれを上から叩き潰せるだけの力を持っている。力とは勿論、ドリブルやパス、シュートといった技能面のことだが、しかしそれだけではない。

「……」

 動画を再生させて間もなく、一人の帝国選手が強烈なスライディングで相手のボールを奪うシーンがあった。いや、ボールを奪うというより直に足を狙いにいっているという方が正しい。あまりの激しさに撮影者も動揺したのか、カメラのブレが一際大きくなる。
 だのに、上手く他の選手の影になっていたためか、審判はその危険なプレーに気付かずホイッスルも鳴らされない。
 ――≪ジャッジスルー≫。
 当然、審判に見つかれば即笛を吹かれてイエローカードを出される場面であった。だが、どんなに危ないプレーでも見つからなければ問題無いと、そういう考えで生み出された帝国の必殺ブロックだ。直接足首の関節を狙っていく技のため、まともに喰らってしまうと甚大な被害を被ることになりかねない。現に、今まさに直撃を受けた相手選手は足首を押さえて地面に転がったまま動けず、結局担架で運ばれ交代となってしまった。
 繰り出したのは薄水色の長髪が特徴的な11番のFW。よく見れば眼帯を装着しているようだが試合に影響は無いらしく、審判から何か指導を受けた後も飄々とした態度でポジションに戻っていくのが窺えた。自身の技で相手を傷付けたという認識も罪悪感もまるで無い、そんな様子だ。
 そう、これが帝国学園の持つ“力”である。
 勝利のためならばどんなことでも厭わない。何人相手選手を減らそうが、ファールホイッスルを吹かれようが、最終的に試合に勝てればそれでいい。ボールをゴールへ蹴り入れる、その道中に幾つ屍が転がっていようが気にしない、それが帝国学園サッカー部。
 彼らはそうやって指導されてきて、それを正しいことと刷り込まれて、数多の犠牲者の上に聳える絶対的な王者の座に着いている。彼らにとって勝利こそが誇りであるのだと、真っ赤なマントを羽織ったキャプテンの表情を見ていれば解らないはずがない。
 残酷だと思う。非道だと思う。
 ――だからこそきっと、忘れられずにいるのだろう。

「……いち、に、……うん」

 動きの一つ一つを何度か繰り返して確認し、記憶を手繰り寄せながら手元のノートにペンを走らせる。選手個人に合わせて最適化などされてはいない、寸分違わぬ動作のテンポ、タイミング。見れば見る程そのままで、そして思い出せば思い出す程、馨はこれまでの自分に意味なんて無かったように感じられてならない。
 ああ、覚えている。何から何まで覚えている。忘れてなぞいない。ペンを動かせば、あの日の全てがノートの中に蘇ってくる――無意識に嘲笑が漏れた。

「……はっ」

 あれだけ忘れたがっていたのに、忘れたと思い込んでいたのに、結局この様だ。
 けれども、雷門サッカー部を指導するにあたって、この記憶を引き出すことが避けては通れぬ道であると解っていた。覚悟も決めていた。敵情視察どころか基本のプレーすらままならない雷門にとって、帝国サッカー部の情報というのは宝も同然の重要さを持っている。知っているのと知らないのとでは何もかもが大きく違ってくるだろう。だからこそ、馨はこの道を選んだのだ。
 基本のフォーメーションから始まり、使用する必殺技、注意すべきブロックやドリブル技、中盤選手の戦略、パスの軌道による次の行動の予測。
 取捨選択すらできない程の膨大な情報を、できるだけ解りやすく、中学生の彼らにも伝わりやすいようにと噛み砕いて書き記す。大事なのは予備動作とタイミングだ。それさえ見逃さなければ、まだまだ未熟な雷門イレブンでも無事に試合を進めることができるだろう。
 ――スポーツには、そのプレーをするに於いて最善のタイミングやテンポというものが存在する。ただ我武者羅にやれば良いわけではない。それらを踏まえて動くことで動作に於ける最大の力を引き出すことができる、そのためのある一点が必ず動きのどこかに隠されている。
 馨はそれを知っている。そして実際にこの目で確かめ、帝国学園が完璧な勝利を手にするためにずっと受け継ぎ続けていることも確信している。
 だから馨の練る対策は、ノートに書き込む情報は、間違いなくこの世でたった一つ、雷門サッカー部を助けられる救世主となれるはずなのだ。


「……んーと、あとは――」

 一心不乱に手を動かし続け、ふっと息を吐いたところで仕上がった見開きページを見返してみる。まだ書き足りないところもあるが、ひとまず今日はここまでにしておこう。夕方の練習で書いた部分に触れつつ明日の夜に追加をして、完成したノートを本格的に使うのは明後日というところだろうか。本当に、時間の足りなささだけが悔やまれる。
 きっと、詳細を語る自分を疑う者は既に出てきているだろうし、このノートを見せればほぼ全員が疑惑を抱くだろう。ぽっと現れた見知らぬ女性が帝国学園サッカー部の情報を大量に引っ提げているのだから、そんなもの怪しくないわけがない。
 それでも仕方ないのだ。あの学校と試合をするチームとして、彼らは絶対に知らなければいけない。自分たち自身が傷付かないために。未来を潰されないために。
 あの笑顔を、失わないために。

「ふぁ……げ、もう三時」

 大きく伸びをすると背骨が嫌な音を立てて疲労を訴えてくる。時計を見ればもう深夜の三時を回ろうとしていた。明日も早起きなのだし、さすがにもう寝なければ大学にも練習にも響く。ただでさえレポート地獄からこの方まともに就寝時間が取れていないのに、これではそのうち身体を壊してしまいそうだ。
 ――そう解っていながら、馨はまだパソコンを閉じられずにいる。
 動画の関連リンクを適当に押せば、どこか知らない学校同士の野良試合が画面に映し出される。こちらは帝国の試合とは打って変わった賑やかな歓声と共に、真剣ながらも楽しげな空気感でゲームが進行されていた。
 何を目的とするわけでもなく、ただぼうっとその動画を見つめる馨。明るい晴天の下で繰り広げられるサッカーは色彩のコントラスト以上に眩く、ともすればちかちかと瞬く合間に雷門のメンバーの姿が見えるようで。
 ――いつか、どのくらい先の未来かは解らないけれど、あのグラウンドにはこんな風にサッカーをする皆がいるのだろうか。
 無事に帝国との試合を切り抜けたのなら、動画内の選手たちと同じように、何も難しいことは考えずひたむきにボールを追いかける本当のサッカーができるようになるのだろうか。いや、きっとできるはずだ。雷門サッカー部ならば、円堂ならば、きっと。
 馨はゆっくりと目を閉じる。視界を隠して音声だけの空間に浸ると、まるで本当にそれが現実になったかのように思えてくる。高鳴る鼓動、真剣な眼差し、躍動するテンション、ボールを求めて駆け回る皆はどこまでも鮮やかに世界を染め上げていき。
 ――そして、改めて自覚をするのだ。
 そこには決して、自分の姿は無いのだと。


* * * * *


 翌朝、早く起きろと急かすアラームに抗いたい衝動を何とか押し殺してベッドから這い出た馨は、自身の身体にいくつかの違和感を覚えた。どことなく気怠さが抜けず、節々には筋肉痛とはまた違う鈍い痛みが停滞している。疲労も回復しきっていない感覚があるし、完全に寝不足の弊害が表れているとしか思えない。
 最悪だな――健康管理はスポーツマンにとって最も大切なことなのに、よりにもよって指導者側に立っている馨がこんな調子では部員たちに示しがつかないではないか。せめて練習試合当日までは何とか己の肉体に頑張ってもらわねば。
 とりあえず顔を洗ったら少しは気分もマシになったので、まだ大丈夫だろう。ついでにビタミン剤を飲んでプラシーボ効果に期待をし、馨は手早く準備を済ませて家を飛び出した。


 ビタミン剤のプラシーボ効果より、講義中の居眠りの方がまだ効き目があったのは、恐らく気のせいではない。
 講義内容がつまらないわけではないのにいつの間にか夢の世界へ旅立ってしまうこと三回目、要するに今日の大学は睡眠を取ったという結果だけで終わってしまった。幸いそんな学生は馨だけというわけでもないので、教授側もいちいち個人を指して叩き起こすこともしなかったが、目覚めたあとのまっさらなルーズリーフを目にした瞬間のショックは依然変わらず大きい。隣で受講していた友人にも「どんだけ疲れてんの」と笑われる始末だった。
 徐々に私生活まで影響を及ぼしてしまっているのはどうかと思うが、それでも後には引けないのだから仕方ない。三時間分まるまる寝入ったおかげか朝よりは体調も良くなっているし、このあとにあるサッカー部の練習はちゃんとまともにこなせそうだ。こういうのを不幸中の幸いというのかもしれない。
 大学を出て一旦帰宅してからラフな格好に着替え、部活用に鞄の中身を入れ替える。予め部活開始時刻は四時十分だと聞いていたので、一時間程休憩を挟んでから、ちょうどそのくらいに着くように家を出た。
 徒歩で三十分程度のところに雷門中はある。馨が着いたとき、まだメンバーはストレッチを行っている最中だった。

「こんちは、コーチ」
「今日は早いんスね」
「こんにちは、宍戸くん染岡くん。今日は講義少なかったからね」

 やっとFWの調整までいけるよ、と言えば、染岡が待ってましたとばかりに瞳を輝かせた。
 先の二人に続いてあちこちから挨拶がかかり、それに対しては右手を持ち上げるだけで返しておく。何だか有名人にでもなった気分でむず痒いが、三日目ともなればそろそろこの環境にも慣れてきている自分がいた。
 定位置に荷物を置き、馨もまた準備体操やストレッチをする。その際何気なくふいと流した視線の先では、風丸と円堂がいつもより真摯な顔で馨を見つめていた。目が合うと、いつも通りの晴々しい笑顔を見せてくれる円堂とは対照的に、風丸はどこか気恥ずかしげに顔ごと逸らしてしまった。二人の事情はよく解らないが、別段馨に対して悪い感情を抱いているようには見えなかったので、今は特に気にしないことにしておいた。

「よし、やろっか」
「よろしくお願いします」

 ストレッチとランニング、個人練習にペア練習、紅白に分かれた軽いミニゲームなどを行った後は、ポジションごとの練習時間になる。
 これまでずっと円堂と1on1(ワンオンワン)状態だった染岡は、ようやっと指導を受ける順番が回ってきたと随分張り切っている様子だ。その期待に応えられるかどうかはさておき、馨はまずDFやMFにしたものと同じ、ボールを持った相手への対処や逆にボールを持っている際の動きを教えるところから始めた。

「FWは何と言ってもボールを持つ意味が大きいから、当然マークは厳しいしプレスも喰らいやすいし、まずまともにフィールドを動き回れるとは考えないのが一番だね。帝国がMFを五人も入れてる理由がまさにそれ。特にうちは現状染岡くんのワントップだから、マーク二人もついたら撒くのは難しい」
「帝国なんつー強いチームでも、そういう小賢しいマネしてくんのかよ」
「一応基本戦術だからね、サッカーの。下手に泳がせて隙を衝かれるくらいなら、徹底的に潰しにかかるのが帝国の方針。染岡くんは積極的にボールを奪うより、如何にそのマークを外して動ける機会をつくれるかの方が大事になってくるだろうな」

 あまりシュートを撃つということに拘りすぎる必要も無いよ。
 持参したノートをパラパラ捲りつつそう続ければ、染岡は不満そうに眉を顰めて足元のボールを乱雑に捏ねた。

「FWがシュート撃たなくて、どうやって試合に勝つんだよ」
「あー……ごめんごめん、拘りすぎる必要が無いってだけでシュート自体撃たなくてもいいってわけじゃないの。言い方が悪かった」
「あ、いや……オレの方こそ、すんません」

 確かに染岡の言うように、チームの最前線でボールを受け取れる人間がシュートを撃たなければ点は取れないし、点が取れなければ例え失点ゼロでも勝ちにはならない。帝国に勝つつもりならば、とにかく相手のGKを捻じ伏せてボールをゴールネットに突き刺さなくてはいけないのだ。
 だがしかし、そうはいっても――馨は声に出さず、内心でそっと嘆息する。
 染岡が必殺シュート技を有していないことは、昨日の練習で既に確認済みだ。そうなるとまず確実に、彼のシュートで帝国のゴールを割ることは不可能といえる。何せ相手は全国大会優勝常連チームのキーパーなのだ。万が一、いや億が一でも向こうが必殺技を封じるなり二軍選手を起用するなりと油断を見せたところで、それを基に切り拓ける程の力は今の染岡には宿っていない。かといって、ならばチームプレーで翻弄して上手く隙を見出せるかといえば、他のMF陣もまだそこまでハイレベルな動きを可能にするには至っていないのが現状だ。
 はっきり言おう、雷門は帝国から点を取ることはできない。
 だから染岡はシュートを撃っても仕方がないし、それならば先程述べたようにマークの外し方やキツいプレスから脱出する方法を学んだ方がずっと賢明だろう。馨は元よりそのつもりでここにいるのだが、染岡は当然そんなはずもなく、シュートの練習がしたくて堪らないといわんばかりだった。
 さりとて、馨もここは譲れない。もう時間が無い中、FW、しかもワントップというある意味最重要なポジションに置かれている染岡にも、ちゃんとした立ち回りを学んでもらわねば困る。

「染岡くんのシュートは」

 これから、嘘を言うわけではない。
 それでも多少は誇張した表現になってしまうのは、致し方がないことだと割り切らせてもらう。

「初めて見たときからスゴいと思ってたよ。正直、あんまり私が口を出すこともないってくらい。強いていうなら撃ち出す直前に必要以上に軸足が力んでるから、そこを改善すればもっと良くなるだろうね」
「……ホントか?」
「うん、ホント。伊達にサッカー部入ってないね、経験者?」
「ああ、小学校の頃から一応サッカー部だったぜ」
「あー納得した。ドリブルもシュートも基本の型が綺麗だもんね、上手なんだってすぐ解ったよ」

 そして、彼自身が自分に対してしっかりとした自信、ストライカーとしての誇りを抱いていることもよく解る。自分がシュートを決めて点を稼ぐんだという、FWにとって大事なモチベーションが保たれていること自体は、チーム全体の雰囲気を盛り上げているという意味でも喜ばしいしありがたい。高いプライドも、方向性さえ間違わなければ成長を促進させるので、決して悪いことではないのだ。
 馨は、未だボールを触っている染岡の足を見下ろす。筋肉のついたそれは限界まで鍛えればきっと素晴らしいシュートを魅せてくれるのだろう。でもそれは今ではない。

「染岡くんができることを、今私が君の大事な時間を使ってまで教える必要は無いと思う。それなら、ここでしか教えられないことを教えたいし、それを存分に帝国戦で活かしてほしいとも思う。君がシュートを撃つためには、とにかく機会をつくらないと」
「……確かに、そうだよな。オレがボール持てないと、そもそもシュート撃てねーんだし」
「もし了解してもらえるなら、今日はマークとプレス、あとブロックへの対策を練習させてほしいんだけど、どう?」
「わかった。コーチに任せるぜ」
「ありがとう、染岡くん」

 ようやく彼の表情に笑みが表れ、馨もつられるように微笑を浮かべた。
 説き伏せる、というよりは煽てに乗せるといった方が正しい流れだったが、どうにか染岡の了承を得られた馨。どうせやるなら気持ちよく練習して知識や技術をたくさん身につけてほしいのだから、この手段とて間違っているとは思わない。
 気を取り直し、馨は染岡とボール三つ分程度の距離を取る。片手に持ったままのノートを閉じて正面から染岡と向き合えば、あちらも気合いの篭った目つきで馨を見据え返してきた。

「じゃあ、まずは一旦ボールを置いといて、圧をかけられた状態から逃げる練習をしよう。私が実際の帝国の動きを真似してプレスかけるから、染岡くんはとにかく逃げて距離を取ってね。今はファールとか気にしなくていいから、全力で」
「うっす!」

 威勢の良い返事を受け、馨は一気に染岡と距離を詰めて彼の動きを強引に阻害しにかかる。あまりにいきなりのプレスに暫し動揺していた染岡も、ファールを気にしない、という言葉通り必死に馨の包囲網から抜け出そうともがく。
 そして馨はその一手先、一手先を確実に潰すよう足を、腕を、身体全体を駆使し、一瞬見えた隙に彼の踵を払おうと足を延ばし――すんでのところで留まった。

「……っ」

 ――やはり、自分に実演は無理だ……。
 ラフプレーを教えるには、どうしてもそれを実践できる人間が必要になる。当然現時点でそんなことができるのは馨しかいないので、必然的に演じ手も馨になる。
 だが、どうして踏ん切りがつかない。全ては練習試合のためと必死に念じてみているのに、その思いを上回って抑制心が働いてしまう。本気でやるつもりはない、怪我をさせたいのではない、これは練習なんだ、といくら言い聞かせてみたところで、身体は帝国のプレーを拒絶してしまう。
 染岡を追い詰める動きは止めないまま、頭は右手に携えたノートの中身を思い出す。
 最も警戒すべきブロック技、≪ジャッジスルー≫――その練習だってすべきなのに、とても自分には実演できない。でもそれでは試合本番で、皆が……。

「ッ、おわっ!」
「コーチ!?」

 考え事をしていたせいで複雑さを極めた足元が縺れてしまい、馨はその場で転倒してしまった。辛うじて染岡を巻き込まずには済んだものの、突然倒れたコーチに対し彼もかなり驚いているようだ。

「だ、大丈夫っすか?」
「いたた……平気、大丈夫。ちょっと張り切りすぎたかも、ごめんね。……」

 差し出された手を取って立ち上がるも、少し身体がふらつく。が、嫌な予感は気付かぬ振りをして無視し、再度染岡との練習に集中する。
 ――必殺技やラフプレーの練習は、明日明後日で集中的にやるしかないのだろう。
 その方法を考えることもまた今日の課題にする、そういったかたちで先送りにせざるを得なかった。


 ポジションごとの練習の後には、実際のフォーメーションを用いて試合全体の流れを意識する実演練習が始まる。
 DF、MFそれぞれに対しては既に指導を行ってきたが、FWを交えて実際の試合を見立てた動きをまともに練習するのはこれが初めてだ。本当は相対するチームを用意して本格的な紅白試合ができるのが最も良いのだけれど、如何せん人数が少ないのだからそこは諦めるしかない。それでもまだ十一人に満たないという大きな欠点も懸命に目を瞑り、今はこの八人が帝国相手にチームとして立ち回れるようにしていきたいところだ。
 馨自身もコートの中に入り、ボールと並走しながら個々のプレーに口出しをしていく。チーム練習で馨ができることはそれが限界だった。できるだけ足を止めず、思考時間をつくらず、帝国メンバーに付け入る隙を与えない動きに仕上げていこうと、喉が震えるのも厭わず声を張り上げた。
 その甲斐あってか、それとも彼らの飲み込みが早いおかげか、三日目にしては褒められるべきレベルまでチームの能力は向上した。まだ粗削りな部分もあるにはあるが、初めて見たときと比べ大分まともになったと思わせてくれる。
 とはいえ、現時点の雷門が帝国に通じるかどうか、言及するにはいろいろと不確定な要素が多すぎる。帝国が何の意図を以て雷門と練習試合を組もうと思い至ったのか、そこが不明瞭な状態ではあちらの講じてくる策とて想定はできない。もしかすると二軍を使ってくるかもしれないし、必殺技は封印してくるかもしれない。――そんな予想が希望的観測でしかないからこそ、こうして必死に指導をしているのだが。
 そうこうしているうちに日も大きく傾き、グラウンドは鮮やかなオレンジ色に染め上げられる。部活終了の時間が訪れた。

「ありがとうございました!」
「ありがとうございました」

 相も変わらず若さ溢れる挨拶を済ませてから正門へ向かう途中、後ろから駆けてきた木野が馨の隣に並んだ。

「コーチ、土日はどうするんですか?」
「午前から部活あるんでしょ? 参加するけど」

 大学も無いし、土日はじっくりと本腰入れて練習に取り組めるだろう。スケジュール割りも考えて計画的にやらねばならないが、そういった細々した内容を練り上げるのは馨の好きなことだ。
 当然といった調子で答えた馨に「解りました」と返す木野は、馨を見上げたまま健康的な笑みを見せた。

「ありがとうございます、私たちのために練習見てくれて」
「いえいえ、どういたしまして」
「あの、理由、きいても良いですか?」
「理由?」

 木野の言う理由とはつまり、馨が雷門中サッカー部を指導するに至った訳のこと。突然かつ思わぬ問いに、馨の歩く速度が僅かに遅くなった。
 じっと見つめてくる大きな瞳に耐え切れず目を逸らし、段々と見えなくなっていく前方の少年たちを眺める馨。練習で疲れているはずなのにまだまだ元気なそのシルエットを見つめながら、己の中にある“理由”と向き合おうとする。
 何故だろう。何故自分はこのチームから逃げ出すことなく指導しているのだろう。サッカーが好きという、それ以外にも確かに理由は存在する。のだけれども。
 上手な言い表し方が見つからない。考えたこと全てが、きちんと伝えられるだけの言葉にならない。だから結局、最後まで脳裏に残り続けていたそれこそを、今は答えとしておこう。

「そうだな……バカだからかな」
「え?」

 最終的に口から出たのは、木野にとっては恐らく答えをはぐらかすように聞こえるであろう一言。けれど、これに尽きると思った。あまりに端的、かつ明確に馨の心の所在を言い表していると、自分ではそう思える。
 ――バカだから、こうして首を突っ込むんだ。
 馨にとって、彼らと関わる理由はこれで良い。例え木野が満足していなくとも、他のメンバーには伝わらなくても。全ては自分が“バカ”だったという、その単語一つであらゆる物事に終止符を打つことができるのだから。胸中で反芻させれば、するりと落ちるべき場所へ落ちていった。
 自己完結した馨とは対照的に訳が解らないと言いたげな木野だったが、馨の目が再び木野に向けられれば彼女はそれ以上何も言うことはなかった。納得したとは言い難い、しかし否定的でもない面持ちが、明るい夕焼けに照らされる。そこにある優しさに触れた馨は、思わず木野の頭に手を乗せてぽんぽんと軽く撫でるのだった。
 そうこうしているうちに病院近くの曲がり角へ差し掛かる。このまま叔父のもとへ行く馨は、ここで木野とは逆方向へ進むことになる。

「じゃあ、私こっちに用あるから」
「あ、はい、さよなら!」
「さよなら、気を付けてね」

 手を振り、踵を返して行くべき道へ進む。
 日の暮れた道では数m離れればお互いの顔の認識も困難になる程で、あっという間に二人の間には影が差し。

「……バカなんかじゃないと思うけどなぁ」

 そんな木野の呟きも、既に影へと溶け消えた馨に届くことはなかった。


* * * * *


「――じゃあ叔父さん、また明日か明後日に来るよ」
「うん、ありがとう。だけどあまり無理しないようにね。少し顔色悪いから」
「大丈夫」

 心配そうに眉をハの字に歪める叔父を笑顔で安心させ、馨は病室のドアを閉めた。直後、ハァと漏れる大きな吐息。
 コート内を駆け回ったとはいえ実際にサッカーをしているわけでもないのに、何だか酷く疲れていた。肩の辺りがやけに重たい。今朝の体調や染岡との練習中に感じたふらつきを加味すれば自ずと結論は導き出せるのに、それを認めてしまうとダメになる気がして、何とか目を背けている自分がいる。

「年かな……」

 二十歳を過ぎたばかりの女として悲しくなるようなことを零しながら、電灯の照らす少し寂しい階段を降りていく。夕食の時間も過ぎたため、あんなに騒がしかった院内は嘘のように静かだ。自分も早く帰って明日からの練習内容を練り直し、少しでも早めに床に就きたいところだった。
 受付の看護婦に軽く会釈し、自動ドアをくぐる。
 すると――見つけた。

「あ、豪炎寺くん!」
「え……」

 我知らず呼んでしまった名前に反応したのは、今まさに帰る途中であったあの豪炎寺修也だった。
 呼ばれた豪炎寺は声の主を確認すると目を丸くしたが、呼んだ張本人である馨も同じく驚いた顔をしていた。何とも間抜けな話だが、うっかり出てしまった名に自分自身で驚愕しているのだ。
 馨が彼の名前を知っているというのは、とても奇妙なことなのに。

「……何で、名前」

 豪炎寺の反応は至極当たり前のもので、馨はその王道とも言える台詞を聞いたら一周回って逆に落ち着いた。
 全くご尤もだ。ここは包み隠さず話してしまうしかないだろう。

「あー……うん、君の知り合いから聞いて」
「知り合い?」
「円堂守って子」

 実名を出せば、特徴的なぎざぎざ眉がきっと鋭く吊り上がる。

「アイツか……」
「名前くらいしか聞いてないけど、でも気分良くないよね。ごめん」
「……別に謝るようなことでもないでしょう」

 名前の他にもサッカーをしないということだって聞いているが、空気を読んで今は言わないでおくことにした。
 いつまでもドアの前に突っ立っているのも気が引けるので、馨は足を止めている豪炎寺の傍へ歩み寄る。怒ってはいないものの未だ怖い顔をしている豪炎寺を余所に、いつかの約束を果たすために懐から財布を取り出した。

「はい、これ。この前はありがとう」
「あぁ」

 百円を見せれば先日の一件を思い出したのか、豪炎寺は一瞬迷った挙げ句控え目に手を差し出す。そこにそっと硬貨を乗せれば、どこか落ち着かなさそうに目元を伏せられた。

「別に良かったんですけど」
「そういうわけにはいかないよ。金銭問題はミジンコがいつの間にか富士山になってるようなものだから」
「何だそれ」

 馨の意味不明な例えがツボに入ったのか、今までのきつい表情とは打って変わって柔らかく微笑む豪炎寺。光源が病室内からの光しかないのでそこまではっきりとは見えなかったが、綺麗に笑うんだな、と感じられる笑みだった。
 思ったよりも硬い子ではないらしい――これまでの出会いや円堂の話の中での印象とは違い、今目の前にいる彼はちゃんとした年相応の少年に見えた。あのサッカー部の中でボールを追いかける子たちと何ら変わりはない、どこにでもいる可愛い十四歳の少年なのだと思えた。
 けれど、彼は円堂の誘いを強く断ったという。サッカーはしないと言ったという。等身大の豪炎寺の面影を垣間見た今、何故と思う気持ちは馨の内でますます大きく膨れ上がった。彼のことを知りたいと、素直にそう思う。

「私と君さ、よく会うよね」
「病院に用事がある同士なら、仕方ないと思いますが」
「そうだけど、頻度とか場所とか」

 元はと言えば、偶然そこの自販機で当たりを出した馨が後ろにいた豪炎寺を頼ったのが原因だ。
 その出会いが無かったとすれば、恐らく豪炎寺が当たりを出したときも近くを通った馨にお裾分けするようなことはしなかったろうし、こうして百円玉の貸し借りをすることもなかっただろう。ある意味でいえば、馨の出した当たりは本当に“当たり”だったのだ。
 豪炎寺の方も、馨とはよく会っていると認識しているらしい。そうですね、と端的な相槌を返す彼に、馨はさらに話を続けた。

「私はね、叔父さんのお見舞いに来てるんだ。この前事故して足折って」

 少しでも豪炎寺について知りたくて、思いついたままにそう語る馨。対する豪炎寺は、やや沈んだ声色で「お大事にしてください」とだけ返した。

「君は、どこか悪いの?」
「……」

 どこか身体が悪くてサッカーをしないのだろうか。
 それを知りたく、飽くまで自然なかたちを装って問えば、豪炎寺はついに完全に口を閉ざした。気付けばまた硬い顔付きに戻っている。それについて話すつもりはないと、言葉にせずとも雰囲気がそう拒絶しているのを肌で感じた。
 馨はそこで、ここから先の話題が彼の触れられたくない部分なのだということを悟った。人間誰しも持っている、心の内にしまっておきたいもの。馨だって持っている、人には触れられたくない領域の話。
 この問いがそのままサッカーに関係するか否かは解らないが、豪炎寺は明らかに拒む雰囲気を纏っている。ならば無知とはいえそれを切り出し、彼のテリトリーを荒らそうとしてしまった馨は、明らかに彼にとって無粋な侵入者他ならない。
 ――やってしまった。
 まだ名前を知っただけの関係だというのに、いきなり失礼なことをしでかしてしまった。こちらが心を開いてみたところで、相手もそうだとは限らないのに。
 己の軽率な発言を反省した馨は、すぐに前言を打ち消すように言葉を重ねた。

「ごめん、いきなり不躾すぎたよね。じゃあこれで――」

 そのままの流れで立ち去ろうとした馨だったが、踏み出す前に豪炎寺が呼び止める。

「名前」

 それは主語も述語も無い簡潔すぎる単語だった。

「名前」
「え?」

 また同じことを、今度は先程より強めに、しっかりと強調するように。
 間抜けた顔で首を傾げた馨は、直後にあっと声を上げて改めて豪炎寺に向き直った。

「江波、馨。です」
「……江波さん」
「馨で良いよ、豪炎寺くんにはそっちの方が似合う」

 ぎこちない敬称に笑ってしまいそうになるのを微笑で抑える馨。敬称も敬語も、何となく彼には似合わないように思えたのだ。
 豪炎寺は寸刻落ち着かずに目線を泳がせていたが、やがてぽつりと「馨」と呟くと静かに目を伏せた。途端に色濃い影を帯びる精悍な相貌。何かを考えているらしい様子だが、その何かは外側にいる馨には解らないし見当もつかない。先程足を踏み入れようとして引き返した領域、その境界線付近に彼が立っているように感じられ。
 ――何かが、彼を堰き止める黒い何かが、そこにあるとしたら。

「……」

 不思議と、何の根拠も無く。
 豪炎寺の中に自分と同じものを見つけた気がして、心が疼いた。
 疼くと共に、痛んだ。

「君と私は、似ているかもしれない」

 息をするように吐き出す、最早呟きにすらならない細い声。
 しかし幸か不幸か、独り言でしかなかったそれは豪炎寺には届いていたようで。

「……似ている?」

 何を言っているんだ、と訝しさを秘めた瞳が向けられる。
 馨は一瞬取り繕うべきか迷ったが、結局付言をせずにひょいと顎を上げた。

「いや、気にしないで。それじゃあ、さよなら」

 口を挟む隙を与えず言い包めれば、豪炎寺は言葉の成り損ないのような音を漏らした。多分了解したのだろう、彼は背を向けたと思ったらあっという間に馨の視界から姿を消した。
 自分から話し掛けておいて随分なサヨナラだとは思った馨だが、結果的には良かったのだろう。あのまま話し続け、強引な話法を用いて彼の中の影を暴くことができたら、もしかしたら馨の知りたかったことが解ったかもしれない。豪炎寺を縛りつけるもの、サッカーをしない理由が。
 しかし、それが解ったところで――もしも自分が、何かを言える立場でなかったとしたら。

「……疲れたな」

 小さなことが少しずつ繋がって、ここにいる。日常のあらゆる事柄を辿って行き着いたのが、今だ。
 されど、そのさらに先を手繰り寄せる気になるには、今は些か疲れすぎていた。




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