土門飛鳥の心


 誰かの笑顔を見て“眩しい”と思ったのは、生まれて初めてのことだった。


 ――土門、君には雷門への潜入調査を命じる。

 深海みたいに暗い部屋の中、底冷えのするような低い声がオレにそう告げた当時のことは、今でもはっきりと思い出せる。
 オレはその日から帝国サッカー部ではなく、雷門サッカー部の人間になった。
 っていっても、どうせ元々二軍で燻っていた人間なんだ、総帥や一軍のメンバーからすればオレなんて帝国サッカー部の一員ともカウントされていなかったと思う。旧友との約束と己の意地とを貫くためにサッカー名門校の帝国学園に入ったはいいものの、オレは二年になっても尚、いつまでも結果を出せないままだらだらとサッカーを続けるしかなくなっていた。こんな風に目的も無く、ただこの息苦しい空間でひたすらボールを蹴っているだけの現状、オレにとって一体何の意味があるんだろうと何度か思い直そうとしたこともある。でも、その度に答えを見つけることはできなくて、結局惰性で居座ることしかできないでいた。
 そんな折、総帥直々に下された命。まともな神経をしていたらとてもじゃないが受け入れ難いその役目。
 けどオレは、断ることができなかった。
 当然なんだ。この帝国学園に在籍して、かつ二軍といえどサッカー部に所属している人間が、あの人からの命令を拒否できるはずがない。どうしてオレなんですか、なんて質問すら許されないまま、オレは“帝国のスパイ”として雷門サッカー部へ入部することになった。

 課せられた任務は二つ。
 一つは“雷門サッカー部の内部情報を帝国へ流すこと”。
 そして二つ目は、“江波馨の監視”だ。

 前者は――道徳的にどうかという話は置いといて――まあ解る。あの豪炎寺修也を迎え入れた雷門サッカー部は最近めきめきとその頭角を現してきていたから、総帥も危険因子として注目なさっているんだ。だからこそオレのような人間が派遣されたわけだし、いずれ当たるであろう予選決勝に備えて情報収集を行うのが目的なんだろう。
 今までのように鬼道さん直々に偵察に来るという手段もあったけど、総帥はそれでは足りないと踏んだのだ。何故なら雷門サッカー部のやることはどれもかなり突飛というか、こちらの予想がつかないような方法で強さを増していく。『イナビカリ修練場』なんてその最もたる例だし、そこで得られるデータは内部の人間でないと持ち出すことはできない。部室にはいつもきっちりと鍵がかけられているんだ。
 決してスパイ行為を許容するわけじゃないけど、結果的にはそうなっている。帝国学園はそういう組織で、そのトップに立っている影山総帥はそういうお人なんだって解っているから、オレもこうして素直に従うしかない。
 それに、入部した当初はぶっちゃけ――どうでも良かったんだ。
 オレは雷門サッカー部を、そのキャプテンである円堂守っていう人物を殆ど何も知らなかった。だから、どうでも良かった。ただオレはオレのやるべきことを遂行しなくちゃいけないって気持ちでいっぱいだった。そうしなければオレは帝国を追放されて、サッカーができなくなってしまうから。必死だったんだ、オレも。
 そんな気持ちがちょっとでも揺らいだのは、いつだったか。多分、あの人と初めて話したときには、既にそうだったのかもしれない。
 そしてそれが、オレに与えられた任務の後者に関係する。

 江波馨という人物は、総帥曰くの「愚か者」らしい。オレの有する彼女についての知識は、それと、現在は帝国サッカー部でマネージャーをやっているっていうことくらいだった。
 彼女が帝国と雷門の練習試合にて雷門側のコーチを務めていたという話は、スパイとして潜入してからすぐに他の雷門メンバーから聞かされた。オレは内心すごくびっくりした。元々雷門でコーチをやっていたのに、何で今は帝国にいるんだろう。そんな当たり前の疑問が湧いて出たけど、“江波コーチ”について懇々と話してくれる皆の様子を見ていると、何となく事情を察することはできた。
 要するに、江波さんは何らかの事情によってそうなってしまっている今現在の自分の立ち位置を、コイツらに一切話してはいないんだ、と。内緒にしておきたい、とも言えるかな。
 そりゃそうだよな。ただのファンを自称して仲良くしているその人が実は敵チームに所属していました、だなんて、一瞬にして信頼を崩壊させかねないんだから。どういう経緯でこんな面倒な立場になったのかは知らないけど、結果的にオレみたいな監視役を付けられて、実に難儀な人だ。多少なりとも同情心が生まれなかったかと言えば、それは嘘になる。
 そして、同時にもう一つの疑問が生まれた――総帥はどうして、オレに監視を命じてまでして江波さんが雷門に関わるのを許可しているんだろう、というものだ。
 それについては依然解答は見えてこないけど、例え見えたとしてもオレがやるべきことは変わりないし、下手に詮索して身を滅ぼすのは嫌だったから、オレは総帥の考えについて深追いするのをやめた。

 江波さんは元帝国生とのことなので、オレのプレーを見ればきっと察しがついてしまうだろう。ただの帝国からの転入生って体で通しても良かったけど、それだけでは足りないように思えた。
 オレはまず、江波さんからの信用を得られなければいけなかった。
 雷門サッカー部については何の問題も無く、円堂キャプテンはオレが入部すると告げるや否や大喜びで迎えてくれたし、うっかり試合中に《キラースライド》を使っても何とか誤魔化しきることができたから良かった。とにかく新入部員であれば何でも嬉しいっていう歓迎ムードだったんだ。おかげで難なく懐まで潜り込めたんだし、オレとしてはありがたいばかりの話なんだけどさ。
 でも、そんな奴らと違って江波さんは大人だ。話によると二十歳だそうだ。そう簡単に騙くらかせるなんて考えちゃいないし、元雷門コーチ、現帝国マネージャーっていう変遷の時点でサッカーにも明るい人なんだと解っていた。第一印象を間違えてしまえば、すぐにオレがスパイだと勘付かれてしまうだろう。オレは柄にもなく緊張していた。
 元々は野生中戦当日に初対面を果たすはずだったけど、どうやら帝国の方でもいろいろとあったらしく――鬼道さんは詳細を話してはくれなかった――結局、初対面はその翌日になった。
 河川敷を見下ろす江波さんの存在に気付いたとき、自分でも心拍数が上がるのが判った。そして階段を下りてくる途中にふと立ち止まったことで、いっそうオレは緊張した。それでもいつも通り、何とか平常心を保ちながらまったく気付いてませんよという振りに徹していたら、いつの間にか挨拶を交わすときが訪れていた。

「江波馨です。コーチって呼ばれてるけど、一応ただのファンだからね」

 手を差し出すと、江波さんは何の躊躇いもなく素直に応じてくれた。オレのことを訝しんでいる様子は見られなくて、ひとまずほっとした。
 第一印象は、優しそうな人、ただそれだけ。現実の江波さんは、他の奴らが話して聞かせてくれた江波コーチ像とほぼ差異が無かった。優しそうで、笑顔のあたたかい人。雷門サッカー部にいるのがよく似合う、とてもあの帝国でマネージャーをやっているだなんて思えないくらい、雰囲気が穏やかな人だった。
 オレが《キラースライド》を使ったという話を聞いたときはさすがに怪訝そうだったけど、予め用意しておいた嘘を並べ立てたら一応は納得してくれたみたいだった。自分でも驚く程にあっさりとした展開に、正直拍子抜けした感は否めない。もっとこう、怪しまれるとばかり思っていたから。こんなほいほいとオレの言うこと信じていいのかなって、一瞬そんな心配すらしてしまいそうになった程だ。もしや、人を疑うということを知らない人種なのか? だなんて失礼な考えすら過ぎった。
 雷門サッカー部には早くも馴染めたし、江波さんとの邂逅も思いのほかすんなりいったし、オレのスパイ活動の滑り出しとしては上々かな。
 そんなことをぼやぼや考えていた矢先、オレはふと、その人の眼差しが持つ柔らかさを知ることになる。

「土門くんは、良いチームに入ったね」

 そう言いながら練習に励むチームを眺めている江波さんの目は、笑顔は、オレのこれまでの人生の中では大凡初めて見るものだった。少なくとも、あの帝国学園にはこんな目で練習を見守るような人は、誰一人としていなかった。
 オレはそのとき、少し言葉に詰まった。雷門サッカー部のことを褒める江波さんの口調はどこまでも真っ直ぐで、嫌でも思い知らされたのだ――ああ、この人はコイツらのことが、このチームのことが好きなんだな、って。
 でもオレは、そんな貴女の好きなチームに潜り込んだスパイであり、貴女を監視するためにここにいるような人間なんですよ。なんて、実際に口にしたらどんな反応するんだろう。言えるわけもないのにそう考えてしまう自分は、今更だけど本当に嫌な奴だと思えた。
 江波さんはオレの本性なんて露知らず、最後にこんな言葉を残してくれた。

「……土門くんが来てくれてよかったな」

 両目を細めた優しい笑顔。
 スパイを殺すために向けられているんじゃないかと被害妄想してしまう程のそれを湛えて、あの人はオレの目をじっと見つめ、そう言った。

「これでもファンだから、雷門サッカー部がどんどん進化していくのが嬉しいんだ。仲間になってくれてありがとうね、土門くん」

 ――罪悪感なんて、遅すぎるくらい今更の感情なんだ。
 総帥に命を下され、仕方がないとはいえそれを呑んだ時点で、オレはもう取り返しがつかないところに立たされてしまっていたんだから、ここで後悔したって何の意味も無い。
 オレはオレがやれることをやるしかない。鬼道さんからの連絡通りに動き、雷門の情報、そして江波さんがチームメンバーとどんな話をしていたのかをさりげなく聞き出し、逐一報告する。毎日がそんな行為の繰り返しだった。毎日毎日円堂たちと激しい練習に明け暮れて、気付けば日は落ちていて、鬼道さんに連絡を入れて。あまりに当たり前のように日々が過ぎていくものだから、オレは時々ふと、自分の立場を忘れそうになる瞬間すらあった。
 だとしても、オレは雷門サッカー部のメンバーじゃない。メンバーになんてなれない。皆のことを裏切っているオレに、そんなものになれる資格は無い。
 忘れそうになるたび、そう自分自身に言い聞かせていた。どんなに円堂がイイ奴でも、雷門サッカー部がオレと一緒にサッカーに励んでいても、江波さんが優しい人でも、オレの正体を知れば何の意味も無くなる。ここに築いた信頼関係はまやかしのものでしかなくて、それをまやかしにしているのは他でも無いオレ自身。そんなオレに、後悔する権利なんてあるはずなかった。
 何がしたいんだろう、オレ――そんな自問も、数えきれない程に無意味に、繰り返した。

 江波さんの監視を始めて、まだ日は浅い。だからオレは、あの人がどうして帝国マネージャーをやっているのかずっと解らないままだった。
 最初こそ、総帥が監視を付けるような人なのだからきっと雷門に傾倒していて、オレが言うのもなんだけど帝国の情報を流すスパイ行為をしているんじゃないかと疑っていた。そうじゃなければ、あの人のややこしい立ち位置を説明できないからだ。
 でも、監視を進めれば進める程、そんな疑念が間違いだったと自覚せざるを得なくなっていった。
 江波さんは練習を見に来ない日など、基本的に円堂と電話やメールでのやり取りをしている。その内容を見せてもらったり聞かせてもらったりもしたけど、全部が全部ただの激励だった。ただの一つも帝国の内部機密なんて入ってなかった。だとしても、本当は見えないところで何かをしているんじゃないかと、そのときまではまだ微妙に疑う線は残っていた。
 そして実際に、御影専農との試合後に控え室へやって来た江波さんを見てみれば、結局そんな微妙な線すら消えてしまった。
 江波さんは、円堂とのメールと同じく単に談笑をしに来ただけだった。というより、チームメンバーの方が彼女に話を聞いてもらいたがっていたっていう方が正しい。まるで母親に今日の出来事を聞かせる子どもみたいな振る舞いで、皆いろんな苦労や努力を話したがっていた。一応顧問の冬海にだってそんなことしない――そもそもあの人は部活に顔を出すことすらしないけど――のに、江波さんの前では皆、年齢が一つ二つ下がったように見える程だった。
 そんな面子を前にした江波さんの笑顔は、やはりあの初対面の日に見たものと同じく、ただただ優しくてあたたかい。微笑んだり、苦笑ったり、若干引いてみたり。いろんな表情を浮かべながらも、あの人は全員の話をきちんと聞いて、たくさん褒めたり励ましたりしていた。
 その姿を傍観していると、オレの中での疑問はますます膨らんでいくばかりだった――本当に何故、この人は帝国なんかにいるんだろう。
 帝国サッカー部は、江波さんの好きな雷門サッカー部を酷い目に遭わせた奴らだってのに。それを目の当たりにしたはずなのに。謂わば、どころか普通に敵だというのに。どうしてそれを知っていて尚、自らの所在を隠し通しながらも、帝国のために働こうと思えているんだろう。
 オレには理解が及ばなかった。江波さんの考えていることが全然解らなかった。例え理解ができたとして、じゃあ何かオレに影響でもあるのかと訊かれればそんなことはないんだけど、とにかく不思議で仕方がなかったんだ。

 その疑問に答えるかのように、それから数刻も経たないうち、オレは江波さんの真髄に一つ触れる機会を得られた。

 雷門中へ帰るためのバス乗り場へ向かう途中、オレは忘れ物を装ってメンバーと別行動を取った。勿論、鬼道さんに監視の結果を報告するためだ。って言っても「いつも通りただ試合の結果や努力の成果を褒めて終わっただけです」と伝えるだけで、そろそろこんな報告に何の意味があるんだろうと思いもしていた。けど鬼道さんは総帥の意向だと言って必ず連絡を寄越すよう言っていたし、そう言われてしまえばオレだって拒否できない。だから通例のように携帯でこっそりと、鬼道さんに電話をしていた。
 その会話内容を聴かれたどうか、真相は判らない――突然ドアを開けて中に入って来た江波さんは、いつもと変わらない調子でオレに話しかけてきたからだ。
 はっきり言うと、もうこれはダメだと一瞬諦めさえした。絶対聴かれたと思ったんだ。江波さんはオレが帝国のスパイだと悟って、きっと言及してくるだろうと。そうなったらオレが監視役として置かれていたことだって当然察するだろうし、そのことは円堂やサッカー部全体、やがて総帥にまで伝わって、最終的にオレはどこにもいられなくなるだろうと。瞬時にそこまで考えて、全身に絶望感が巡った。オレのサッカー人生もここで終わりかなと、心臓が鉛のように重く感じられた。
 なのに、前述の通り江波さんはいつもと変わらなかった。オレを帝国のスパイだと弾劾することもなければ電話の相手について尋ねることもなく、ただ、何の変哲もない会話を続けるばかりだった。
 オレはもう気が気でなかったけど、あまりに平和な空気ばかりがそこにあるものだから、結果的にそれに引きずられるようなかたちになってしまった。幸いにも、この人はオレと鬼道さんの電話なんて聴いていなくて、オレのことを疑う余地すら持ってはいないんだ。そう思い込んで納得することにした――今思えば、それも江波さんの“優しさ”だったんだろうけども。今思えば、な。
 そこからいろんな話をして、気付けば話題は帝国の話になっていて。
 ――江波さんはオレに、こんなオレに、ある話をしてくれた。
 やっぱり今となってみれば、江波さんがあの話をオレにしたことだって、オレの立っている場所を知っていたが故だったんじゃないかなと思う。でも当時のオレはそんなこと全然思い至らないまま、自分でも不思議なくらいに真面目に、彼女の話に耳を傾けていた。
 そしてそれこそが、オレの彼女に対する疑問――何故帝国にいるのかという疑問の、答えだった。
 結論から言えば、江波さんは雷門のことも勿論好きだけど、それと同等に帝国サッカー部のことが、好きだったんだ。いや、好きというよりもあれはいっそ、愛してるって言った方が近いのかもしれない。驚くくらいに深い愛情を、あの人は帝国サッカー部に対して持っていた。話を聞いているオレですらそう感じられたのに、肝心の本人ははっきり自覚できていなかったようだけども。
 六年前、という時間軸が飛び出してきて、江波さんと帝国の関わりはそのときから始まっていたんだということは理解できた。それがきっかけで今の帝国でマネージャーをやるに至ったけど、その“六年前”が原因でチーム内で何やら問題が生じたとのことだった。鬼道さんはそんなこと一言も教えちゃくれなかったから、オレは話を聞いて少し驚いた。あの天下の帝国サッカー部に、そんなことでいちいち蟠りをつくるような選手がいるとは思えなかったからだ。
「例えば」から始まった話を語っている間、その後オレと問答を繰り返している間、江波さんはずっと落ち込んでいて、ひどく悩んでいた。それは他でもない愛情故の苦悩なんだと、オレはすぐに解った。なのに江波さんは、オレが答えを告げるまでひたすら顔を伏せ、ぐるぐると思い悩み続けていた。
 そして、オレがその絶対的な答えを口にすると――ぱっと顔を上げた江波さんは、まるで暗闇の底から光を見出したような、そんな表情を浮かべてオレを見つめた。
 その瞬間、強いフラッシュを喰らったように頭が真っ白になった。一体何をしてるんだオレはと我に返ったのもあるけど、それ以上に、彼女の持つ深い深い愛情に触れて、どうしようもなく困惑したんだ。動揺したんだ。心臓がどきどきとこの上ない程に高鳴って、おかしくなってしまったんじゃないかとすら思えた。

 ――好きだよ。

 一言、そう言ったときの彼女の瞳に宿るのは紛れも無い愛情と、何かしらの覚悟だった。
 雷門と帝国の板挟み状態にありながら、その愛はどこまでも揺るぎなく、絶対的なものだと感じられた。
 ある意味オレと似たような境遇だというのに、江波さんは自分の持っているその気持ちを、少しも無下にしようとしない。雷門にも帝国にも、嘘偽りの無い愛情を注いでいる。自分の気持ちに、一切嘘を吐いていなかった。
 それを理解してしまったとき、オレは、自分の中にある一つの“気持ち”と強制的に向き合わせられることになった。

 オレは、いつからだろう、円堂や皆とのサッカーを、確かに楽しいと思い始めていた。
 本当に、きっかけなんて思い出せないんだ。気付いたら、オレは無我夢中でアイツらと同じフィールドを駆け回るようになっていた。帝国でのサッカーとは違う、熱くて、バカみたいで、がむしゃらな雷門のサッカーが、いつしかオレの中にまで浸透し始めていた。『イナビカリ修練場』でのどんなに厳しい特訓だって、弱音は吐くけど諦めない。アイツらがそうだから、オレもその隣で、一緒になって走っていたいと思えてしまった。
 オレは、スパイなのに。コイツらのことを裏切っているのに。
 もう何度念じたか解らない程繰り返した言葉を言い聞かせても、もう心のもやもやは晴れてくれない。諦めたり割り切ったりできない。だからといってどうしようもない現状に変わりはなくて、徐々に円堂たちの近くにいる時間が、苦しいものになっていった。
 こんなとき、江波さんならどうするだろう。江波さんなら、どんな表情で、何と言ってくれるだろう。
 我ながら情けない、そんな考えすら頭を過ぎるようになっていた。次に江波さんが来て、その目を見たら、もしかすると全部洗いざらい吐き出してしまうかもしれない。いや、いっそのことそうしてしまう方が良いんじゃないのか。あの人ならきっと、オレの立場を理解して、ちゃんと受け止めてくれるんじゃないか。ムシの良い話かもしれないけど、江波さんのあの愛情に、今やオレ自身が触れてみたくて仕方がなかった。
 そう考えながら何日が過ぎて、でも江波さんはいっこうに現れなくて。オレはふと、鬼道さんへの定期連絡の際に、何気無さを装って切り出してみたんだ。

「そういえば、最近江波さんはこちらに顔を出しませんが」

 すると電話口の鬼道さんは暫し黙り込んでから、こう言った。

『江波さんなら、現在は入院している』
「にゅ、入院!? 何で、また、そんな」
『……俺たちのために、無茶をなさってな。シュートを撃ったせいで、足を怪我されたんだ』

 そう答える鬼道さんの声音はどこか怒りが含まれていて、オレはまた別の意味で驚いた。いつだって淡々と義務的に事を運ぶ鬼道さんがこうして感情を露わにするところを、この二年間で初めて感じたからだ。鬼道さんの中での江波さんは、もしかすると他より少し特別な人なのではないかと、無粋な意味ではなく素直にそう思えた。
 それにしても、シュートを撃っただけで入院するという事態なんて想像もできない。何をすればそんなことになるんだろう。気になったけど、鬼道さんはその詳細を語ろうとはしなかった。でもオレはそれだけで充分だった。
 江波さんが一体何をしたのかはさておき、鬼道さんの言う「俺たちのため」という言葉で、それが先日の悩み相談の結果なんだということが解った。あの人は悩みを乗り越え、きちんと自分のやりたいことをやり遂げ、好きだという気持ちを表現できたんだって。その結果が入院という惨事であったとしても、多分あの人なら全然後悔してないんだろう。
 ――羨ましかった。
 自分に素直になって行動に移せた江波さんのことが、純粋に、羨ましくてならなかった。
 そんな江波さんが、オレに言ってくれたこと。

 ――悩んでもいい、間違えてもいい、ただ君の持ってる心だけは、ちゃんと大切にしてあげてね。
 ――土門くんの心は土門くんだけのもの。他の誰のものでもないんだから、君が守ってあげなきゃ。

 オレの全てを見抜いたような言葉と、底無しの慈愛が込められた微笑み。
 それは、決して西日のせいなんかじゃない。
 オレにとってはもう、眩しくて眩しくてならなくて、まともに直視することすら叶わなかった。


 そして、遂にそのときは訪れた。
 冬海がバスに細工をしている姿を目撃して、オレは最後の決断を迫られた。
 いや、決断なんていう程考える必要は無かったし、そんな余地も無い。
 いつしか大切な仲間と思ってしまうようになっていた雷門サッカー部のため、そんなアイツらのことを見守っている江波さんのため――総帥に、帝国に、歯向かうことを決めたんだ。

 やるべきことは、そんなに難しいもんじゃない。冬海がバスに細工したということを書き記した告発状を、雷門夏未宛てに送れば良いだけの話だ。
 ただ、そうすることで生じる弊害の方が、オレにとっては問題だった。
 冬海の最後の悪あがきでオレまでスパイだと発覚することは、もうこの際大した問題じゃない。どうせいつかはバレてしまうんだから。告発すると決めた時点で、アイツらとの信頼関係は無に帰るもんだと腹を括っていた。
 そうじゃなくて、オレが危惧したのは江波さんの件だ。
 冬海の性格を考えれば、オレだけに飽き足らず江波さんのことだって絶対に喋るに決まっている。そうなったら当然、皆が江波さんを疑うだろう。雷門を応援していながら実のところは帝国をサポートしていたなんて聞かされて、それでも愚直に信じていられるような奴は多くないはずだ。江波さんのことは、本人から直接皆へ説明しなければいけないことなんだと思っていた。
 けれど、それでも――そんなリスクを踏まえてでも、オレはアイツらを守らなきゃいけない。他でもない江波さんがアイツらを大事に思っているからこそ、影山総帥の策略から守ってやらなきゃいけない。
 そう決めたのはオレ自身。だったら、巻き込むかたちになる江波さんのことだって、オレが最後まで責任持ってやり遂げなくちゃいけないんだ。メンバー全員が疑わないよう、誠心誠意伝えなきゃいけないんだ、あの人のことを。

 そんな決意を固めて、オレは明くる日――理事長室前に告発状を置き、携帯に入っていた鬼道さんとのやり取りを全て消去した。

 事は、予定通りきちんと運ばれていった。
 といっても、練習中にいきなり雷門夏未が現れて、冬海に「バスを動かしてほしい」と頼むことになるとは思わなかった。もっとこう、秘密裏に対処してもらえるんじゃないかと期待してたんだけど、彼女の性格ややり方を顧みれば、まあそりゃそうなるよな。
 理事長代理である夏未の頼みなぞ断れるはずもない冬海は、いっそ哀れな程に冷や汗をかきながら、渋々バスを動かすことを承諾した。
 場所を車庫に移し、オレたちが見守る中で冬海はバスの運転席に乗り込む。オレは皆より少し離れたところで、今にも爆発しそうなくらい跳ねる心臓を抑え込みながら、その成り行きを傍観していた。
 夏未の催促は鬼のようだった。それは多分、事情を知っているオレだからそう感じたのかもしれない。エンジンをわざとかけなかったり、かかっても発進させるのを渋ったり、明らかに様子のおかしい冬海に対し、夏未は容赦なく「バスを発進させろ」と言い続けた。
 やがて、冬海はハンドルに額を置いて、とうとう音を上げた――「できません!」

「どうして?」
「どうしてもです……!」
「……ここに手紙があります」

 こんな展開お見通しだと言わんばかりの夏未が、そこで例の、オレが送った一通の封筒を取り出してみせた。

「これから起きようとしたであろう、恐ろしい犯罪を告発する内容です。冬海先生、バスを動かせないのはあなた自身がバスに細工したからではありませんか? ――この手紙にあるように」

 冬海は、否定をしなかった。否定なんてできなかった。
 オレの書いた内容が本当であったからこそ、今ここでバスを動かすことができない。動かぬ証拠を押さえられて、それでもみっともなく抗うような真似なんて、もうできないだろう。

「ホントかよ……」
「嘘だろ……」

 俄かには信じられないという部員たちの前で、夏未に問い質された冬海はとうとう笑い声をあげ始めた。そして不気味に笑いながらバスを降りた冬海は、自分のやったことがまるで正当な行為であったとでも言うような調子で、その罪を暴露した。
 雷門が決勝戦に出ると困る人がいる、だから自分はその人のためにバスのブレーキオイルを抜いたのだ――その相手が影山総帥だと見抜かれれば、今度は総帥がどんなに恐ろしい人なのかを語り出す。

「君たちは知らないんだ! あの方が、どんなに恐ろしいかを……」

 豪炎寺はそれに対して「知りたくもない!」と返していたけど、オレは全く他人事ではないから、背筋に怖気が奔って止まらなかった。帝国サッカー部の二軍、歯牙にもかけないような存在であるオレだって、あの人の恐ろしさはよく知っている。反抗したり言いつけを守れなかったりしたら、どんな目に遭うのか解ったもんじゃない。冬海はきっと、この分だと近いうちに総帥とも縁を切られるだろう。それだけで済めばまだ全然良い方だ。
 夏未は、その場で冬海に学校を去るよう言い募った。要するにクビってやつだ。対する冬海はいっそ清々したと言って、全然反省する様子は見せない。

「しかし」

 ――そして、やっぱり予想通り、最後の悪あがきに出た。

「この雷門中に入り込んだスパイが、私だけとは思わないことだ――ねぇ、土門くん?」
「……ッ」

 覚悟してたとはいえ、実際に暴露されると……心臓が止まってしまうかとすら思った。
 皆の視線が一斉にオレへと向けられる。何人かがオレの名前を呼んだ。栗松が「そういえば、帝国の必殺技が使えてたような……」とさらに疑念を膨らませていく。

「そんなのアリかよ!」
「土門さん、酷いっス!」

 染岡、壁山、他にも次々とオレに対しての非難の声が湧いて出てくる。
 短い期間とはいえ、ずっと一緒にサッカーやってきた奴らから、まがいものとはいえ信頼関係が築けていたはずの仲間から、オレは今、責め立てられている。当然の結果だ。オレがスパイなことは何の間違いでもないんだから、いつかはこうなるって解ってた。それを覚悟したうえで、こうして告発に至ったはずだった。
 でも、でも、それでも――胸が痛い。
 非難の声が、蔑む目が、疑惑の表情が、オレの身体に何度も何度も突き刺さる。辛くて、苦しくて、今すぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られた。
 だとしても、オレは逃げられない。逃げちゃいけない。
 自分のことよりももっと大事な、守らなきゃならないものがあるんだから。

「ああそれと、ついでにもう一つ良いことを教えておいてあげましょう」

 まだ残っていた冬海が、わざわざ尊大ぶった物言いでメンバーの意識を引く。
 オレは思わずその先を止めようとしたけど、間に合わなかった。

「君たちが大好きな江波コーチ――彼女もまた君たちのことを裏切って、現在は帝国学園でマネージャーをやっているんですよ」
「えっ!?」

 真っ先に反応したのは音無だった。それ以外の奴らも似たようなもので、目を真ん丸にして信じられないという表情を浮かべている。

「そ、そんな、コーチが……」
「う、嘘だ、オマエの言うことなんて信じられるか!」
「なら、さっき私の言った土門くんがスパイだということも嘘になりますねぇ。わざわざこんな嘘を吐くメリット、私にあると思います?」

 染岡がぐっと歯を噛み締め、冬海を殺さんばかりの勢いで睨みつけた。隣で円堂が止めていなければ、多分本当に殴りかかっていたんじゃないかと思う。その円堂も、いつもの溌剌とした笑顔ではなく、複雑なことを考えているように眉を寄せていた。
 あの円堂が、――江波さんを、疑っている?
 そんな予感に至った瞬間、オレは殆ど無意識に声を張り上げていた。

「コーチは、違うんだッ!」
「土門……?」

 久々にこんな大声出したなって感慨に耽る暇も無く、オレはこちらを振り向いた円堂、それに続くメンバー全員に向かって訴えかけた。

「コーチは、江波さんは、皆を裏切ってなんかいない! あの人は、事情があって帝国に――」
「……てことは、帝国にいるってこと自体は本当なんだな」

 風丸の声音だけは冷静な言葉に、オレは思わず言いかけた台詞を飲み込んだ。暗に冬海の言っていることを裏付ける言い方になってしまったと気付いて、内心どうすればいいかと頭を抱えた。

「……でも、違うんだ、そうじゃないんだ、江波さんは……」

 違うんだ、江波さんは裏切ってなんかいない。あの人は帝国にいながら、ずっと純粋に、雷門の皆のことを応援し続けていた。帝国にいるのだって、あの人が帝国サッカー部のことが好きだからなんだ。スパイとか裏切りとか、そんな穢れたものじゃないんだ、あの人が抱いてるものは。
 言いたいこと、伝えるべきこと、たくさんあるのに、どうしても上手く言葉になってくれない。悔しくて悔しくてたまらない。絶対に疑わせたりなんかしないって心に誓って、江波さん本人に宣言までしたのに、こんなみっともないことってあるかよ。
 ちくちくと、いろんな思惑を含んだ視線がオレに突き刺さる。皆が皆、オレを、そして江波さんのことを疑っている。そもそもスパイであるオレが何を言ったところで、コイツらに信じてもらうなんて無理なのかもしれない。
 心が今にも折れそうだ。逃げ出したい。こんな辛い空気なんてかなぐり捨てて、どこか遠くまで逃げ去ってしまいたい。
 でも――あの人は、逃げ出さなかった。
 オレだって、あの人と同じように、自分の“心”を貫き通さなくては。

「……江波さんが、帝国にいるのは、本当だ」

 何とか言葉を繋げれば、誰かが悲観的な声をあげるのが聴こえた。
 オレはそれに被せるように、「けど」と先を続ける。いつの間にか冬海は姿を消していた。

「オレも、どうしてそうなったのかっていう経緯は知らない。気付いたらそうなってたんだ。でも、絶対に雷門を裏切ったんじゃないってことは断言できる」
「何ででやんすか?」
「江波さんは、そんな人じゃないからだよ。あの人は、本気で雷門のことを……それと、帝国のことを、好きなんだ。サッカーが大好きなんだ。この前も、帝国サッカー部のためにってシュートを撃って怪我をする、そういう人なんだ。どっちも大切だからこそ、ここまでずっと黙って、皆のことを見守ってきて……帝国にいることを話してしまえば、もう今までみたいに練習見たり試合観戦したりできなくなるかもしれないからって」

 最初の一声さえ出たら、あとは雪崩れのように溢れて止まらなかった。
 まだ出会って一ヶ月程度しか経ってないオレだって、それを知ってる。だったら練習試合前からの付き合いになるコイツらが、それを解ってないわけがない。江波さんがどんな目で自分たちのことを見てくれているのか、気付いてないわけがないんだ。
 その証拠に、オレの一番近くにいる円堂は、ふと顔を上げると崩れるような笑みを浮かべた。

「んなこと、知ってるよ」

 なあ、皆――そう言うのと同時に円堂が皆を見渡したので、オレも同じようにそれぞれの面持ちを見る。
 さっきまでは混乱状態だった皆だけど、今の話を聞いているうちに少しは落ち着いたのか、一様に溜め息でも吐きかねないような顔をしていた。

「あの人の秘密癖は今更だぜ」

 実際に盛大な溜め息を吐いた染岡は、ぼりぼりと後頭部を掻きながら地面を見つめる。そんな呆れたような一言を皮切りに、あちらこちらから声があがった。

「元帝国生だし、情が移って手伝いしてるのかもしれないな」
「コーチにはスパイなんてできませんよ、きっと」
「でもそういうの黙っとかれるの、ホント心臓に悪いからやめてほしいな」
「コーチ、浮気してたんスねぇ……」

 そのときのオレは、ものすごく間抜けた顔をしていたと思う。
 いや、元々江波さんの疑惑を晴らそうって腹括ってたんだから、こんな風に皆が信じてくれるなら、それは願ったり叶ったりな展開なんだ。もっと素直に喜んでも良い場面だった。だのにどうしてこんなに戸惑ったのかといえば、それがあまりにも、あっさりしていたからなんだと思う。
 江波さんは、オレの想像以上に雷門サッカー部と固い信頼を築いていた――それをまざまざと見せつけられたからこそ、オレはもう何も言えなくなってしまった。
 皆が、江波さんのことを信じている。オレなんかの言葉でも聞き入れて、納得してくれている。それはオレの話がどうっていうわけではなくて、元々、江波馨という人物が雷門サッカー部の中でそういう存在だったっていうだけのことなんだ。元帝国の生徒であるコーチを受け入れて、共に練習試合に臨んだ仲。現在帝国にいると知って尚彼女のことを信じていられる、そんな仲。
 両者の間にはっきりと感じられる絆を前に、オレの心は人知れず震えた。
 ……羨ましい。
 江波さんが、羨ましい――目元に力を込めていなければ、オレはその場で、今にもわっと泣き出していただろう。

「じゃあ、土門先輩は?」

 話を戻したのは少林寺だった。
 途端に空気がぴりっと張り詰めるのが判って、オレは息を呑んだ。
 全員の視線が、再びオレ一点に向けられる。

「冬海先生の言うことが本当なら、土門先輩も……」
「バカなこと言うな!」

 江波さんとは違う、完全なる疑惑の視線。
 それを遮るようにオレの前に立ち塞がったのは、円堂だった。

「今まで一緒にサッカーやってたじゃないか! その仲間を、信じられないのか!?」

 皆が一斉に口を閉ざし、熱弁するキャプテンを見つめている。
 円堂は最後にオレを振り返って、にぃ、といつものような笑顔を見せた。

「オレは土門を信じる。な、土門!」

 その笑顔が、今はまた別の意味で、直視できない。
 ――オレは、江波さんとは違う。
 江波さんとは違って、オレは実際に、スパイ行為を行っていた。取り返しのつかないことを、しでかしていた。オレ自身が、コイツらとの間にある信頼を、台無しにしていたんだ。
 そう思うと、胸が張り裂けんばかりに膨れあがる。唇が、声が、震えてならなかった。

「……円堂、冬海の言う通りだよ」
「えっ……」
「悪いッ!」

 泣きたくなるのを懸命に堪え、オレはとうとう、その場から逃げ出した。


 足が向くままに走って、やがて辿り着いたのは以前まで練習をしていた河川敷だった。
 そこでは小学生たちがボールを追いかけ回していて、オレは所在なさげに坂の途中に腰を下ろし、それを眺めているだけ。どこまでも楽しそうに、何も気負わず好きなようにサッカーをしている子どもたちを見ていると、虚しさばかりが心を覆い尽くしていく。
 ――オレは一体、何をしてたんだろう。
 全部が全部、嘘ばかりだった。アメリカ時代の友人との約束を守ってサッカーを続けてきたのに、今ではそのサッカーを穢すようなことしかしていない。サッカーが好きなはずなのに、それを裏切ってばかりいる。せっかく見つけた本当の、自分のやりたいサッカーでさえ、こうして手放すことになってしまった。
 ――江波さん、ごめんなさい。
 せっかく励ましてくれたのに、やっぱりオレ、ダメみたいっす。

「……オレの、心、なんて」

 雷門の皆と一緒に、熱くなれるサッカーをしたい。
 もう一度、円堂たちと共にボールを追いかけたい。
 あの人のやさしい眼差しの先で、応援され続けたい。
 ――それがオレの、心。誰のでもない、オレだけの心。
 でもオレの心を最初に裏切ったのは、オレ自身じゃないか。

 そうやって、今にも塞ぎ込んでしまいそうになっていたそのとき。
 隣に、秋がやって来た。

「昔の私たち、あんなだったわよね」

 まるでさっきの出来事をまるっきり無かったことにするような、そんなさりげない態度でオレの横に腰掛けた。
 秋の放った言葉がきっかけで、アメリカ時代の思い出が蘇ってきた。
 秋、そして一之瀬と共にサッカーをやっていたあの頃。オレとは違ってめきめき上達する一之瀬に歯噛みしながら、それでも必死に背中を追い続けていたあの頃。――一之瀬の事故がきっかけで、幸せな時間が崩れ去ってしまった、あの頃。
 秋は、オレと違ってボールすら見ることが嫌だったと言う。一之瀬が事故に遭った最もたる原因のサッカーボールに、恨みすら感じたことだろうと思う。オレだって、アイツとの約束がなければ、今ここでサッカーをやっていたかどうか解らない。

「でもね、こっちに帰って来て、円堂くんに会ったの。あの子、おかしいんだ」

 秋は肩を揺らして一つ笑った。
 オレは秋に顔を向け、話の続きを聞く。

「雨だろうが何だろうがボール蹴って、いつまでもどこまでも……それも、すっごく楽しそうに。まるで一之瀬くんみたい」
「……アイツは、一之瀬とは違う」

 気付けば、そんな言葉が漏れていた。
 オレだって、心のどこかでは円堂と一之瀬が似てるって思ってた。でも、一緒にサッカーをやる時間が増えれば増えるだけ、二人の違いを感じられるようになっていったんだ。

「オレは、いつも見てるしかなかった、一之瀬の背中を。追いかけても追いかけても追いつけない。……でも、円堂は違うんだよ。隣を走ってるんだ。アイツとなら、いつまでも走ってられそうな気がする」
「土門くん……」

 スパイなんて、到底許されるもんじゃない。未遂ならともかく、オレは事実、皆の大事な個人情報を帝国に渡してしまったんだから。江波さんのような信頼をつくれていないオレなんて、許してもらえるはずもない。
 解っていた、覚悟していた。
 なのにこんなに胸が痛くて苦しくて、自業自得なのに悲しくて、辛い。叶うことならまた、今度はきちんと自分の心で、アイツらと向き合ってサッカーがしたい。とっくにずたずたにされてしまったオレの心を、今度こそ大切にしてやりたい。
 でも、もう……。

「皆、怒ってるだろうな……」

 ――そんなオレの意識を根底から引きずり上げたのは、あの轟くような呼び声だった。

「土門!」

 一瞬後、どこからともなくボールが飛んできた。
 何とか咄嗟に受け止めることができたそれと、今まさにそれを蹴り込んでくれた円堂の姿とを交互に見て、オレはあまりの驚きに目を白黒させるしかない。
 円堂は、ぶんっとその場で足を蹴り上げて、こう言った。

「サッカー、やろうぜ!」

 ――オレのことを何もかも許すような、そんな一言。
 信じられなかった。まさか、そんな言葉を掛けてもらえるとは思わなかった。
 だってオレは、オマエたちを裏切って、なのに。

「ほら早く! 早く来いよ!」

 困惑するオレのことなんて気にせず、円堂はとっとと坂を下りて河川敷のコートに入っていく。秋が、ほらねとでも言いたそうにオレと円堂のことを見ている。
「サッカーやろうぜ」――まるで魔法の言葉だ。円堂はオレと、こんなオレと、これからもサッカーをやりたいと思ってくれている。そんな思いがたった一言に全部詰まっていて、一切余さずにオレの胸へと届けられる。その根っこの部分にあるのは、恐らく江波さんが皆と築いた信頼とはまた違う、もう少し単純で、明確な、サッカーへの思いってやつだ。
 サッカーが好きだ。
 サッカーが、やりたい。
 帝国のスパイなんかじゃない、雷門の土門飛鳥として、皆と一緒にサッカーがしたい。
 そこでやっと、オレは――本当の意味で、自分の“心”に正直になることができた。

「あぁ!」

 上擦りそうになる声で何とか返事をして、そのあとを追いかける。真っ先にゴール前で構えをとった円堂が、オレを見て嬉しそうににかっと笑った。その笑顔の眩しさに、オレは僅かに目を細めた。
 誰かの笑顔を見て“眩しい”と感じたのは、これで二人目だ。
 そして、その一人目であるあの人がどうして雷門が好きで、雷門を見つめる際にあれだけやさしい眼差しができるのか、ふっと天啓でも授かるように理解することができた。同時に、あれだけ揺るぎなくあれる理由もまた、そうだった。
 雷門……いや、円堂守の傍にいれば、誰だってそうなるんじゃないかな。オレがそうだったように、きっとあの人も、似たような感じで雷門に惹きつけられたんだ。そこで何かを見つけられたからこそ、帝国にいようがどこにいようが変わらず、あの人自身の“心”を持っていられるんじゃないか。殆どオレの勝手な推測だけど、強ち間違ってはいないと思えた。
 だとすればやっぱり、あの人には――江波コーチには、雷門が似合う。
 オレの力なんて、必要無かったかもしれないけど。
 
「土門」

 ボールを転がそうとすると、ふと改まったように名前を呼ばれた。
 振り向くと、一旦構えを解いた円堂が、さっきよりも少し柔らかい笑顔をしていた。

「姉ちゃんのことも、ありがとうな」
「……!」

 一瞬、呼吸が止まった。

「ああ言ってくれるオマエのこと、誰も悪い奴だなんて思ってないよ」
「……ありがとう、円堂」

 ちょっとでも気を緩めれば、もう泣いていたんじゃないか。
 そのくらいぎりぎりのところで持ち堪えて、何とかそれだけ返事にすると、円堂はどこか照れ臭そうに「話はそれだけ!」と言って両手を打ち、再びキーパーの姿勢を構えた。
 ――江波コーチ、オレ、こんなんだけど……“心”を守ること、できましたかね。
 本人に届くことはないそんな思いを脚に乗せ、オレはゴールに――円堂に向かって力いっぱい、ボールを蹴りつけた。




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