河川敷での邂逅


 雷門サッカー部よりメールが届いた、そのさらに翌日。
 馨は指先で弄んでいたペンを胸ポケットにしまい、ゆるりと腕を組んだ。視線は真っ直ぐ、コートの真ん中にいる赤いマントへ向けられている。
 ――冬海のバス細工が発覚してからというもの、鬼道の様子が少しおかしい。
 選手たちが普通に練習を共にしている分には判別できぬだろうが、外から見ている馨には彼の纏う空気がいつもよりも尖って感じられた。先程デスゾーンの練習を見ているときもどこかぼうっとしていたようで、いまいち集中しきれていないのが解る。
 今も、強くボールを蹴りつけてはシュートを決めている鬼道。ただの練習であるその行為が、どこか憤りをぶつけているように見えてならなかった。
 彼の心を苛むもの。
 原因は判っているのに、それより深くに立ち入らせてはもらえないのがもどかしい。

「鬼道くん」

 もう何回撃ったかという荒々しいシュートの後、見かねた馨は肩で息をしている鬼道をベンチまで呼びつけた。素直に応じて目の前にやって来た彼の前で、片手を腰に当てて顰め面をする。

「上半身と足に余計な力が入りすぎてる。そんなシュートじゃ、足首に負担しかかからないよ」

 鬼道にとってはそれどころではないかもしれないが、数日後には大事な試合を控えているのだ。無理をしすぎて怪我などしてしまったら元も子も無い。

「練習が全然練習になってない。君らしくないね、何を考えてるの?」
「……何でもありません」

 解りきった答えである。馨は吐きかけた溜め息を飲み込み、それ以上追及しなかった。
 明らかにプレーに冷静さを欠いている鬼道へと幼子を叱るように注意をし、少し休んだ方が良いと言ってベンチに座るよう促す。彼は素直に従ったが、表情は依然硬いままであった。気になるが、気にかけているだけでは何も変わりはしないと知っているからこそ、馨の意識はすぐに彼から逸らされた。
 思いに耽っているのかだんまりなままの鬼道の横で、馨は引き続き他の選手の動きを記録する作業をしていた。システマチックな連携に今更注文をつける隙なんて無いけれど、これも総帥から下された命らしいので口答えなどせずに継続させている。
 雷門との決勝に備え、選手の準備自体はほぼ万全と言っても差し支えない。影山の用意した練習メニューをきっちりこなし、試合のシミュレーションも完璧に行えている。
 とはいえ、それだけだ。
 いつだって彼らのサッカーは“帝国のサッカー”の範疇にしか収まっていない。
 ――もっと伸び伸びと、総帥の意向など気にせずにやることができれば、プレーの幅も広がるのだろうけれど。

「……勿体無いな」

 何度そう思ったことか解らない感想が口をついて出る。鬼道にははっきりと聴こえていなかったのかはたまたスルーをしてくれたのか、特に何か返ってくることはなかった。それでもぴくりと彼の肩が動くのが視界の端に見えたような気がして、馨は先程吐けなかった溜め息を零した。
 フォーメーションやパスワークを観察しながら、それでも気になる点があれば箇条書きにして纏めておいたり、後で鬼道や自分自身が見直せるようビデオにも収めておく。個人の伸びしろを鍛えていくのならともかく、全体練習に関しては現時点でほぼ完成されているため、今日も今日とて単調な時間だ。
 そんな記録の仕事が終わるのは、彼らが個人練習に切り替えたときである。

「江波さん」

 鬼道に代わった源田の一声で全体練習が終わると、ふと鬼道が小さな声で馨を呼んだ。

「今、何時ですか?」
「時間? 五時二十分、だけど」

 腕時計を見ながら告げれば、彼はマントの紐を解きながらゆったりと立ち上がった。

「用事があるので、今日はこれで上がらせてもらいます」
「用事?」
「冬海の件について、雷門へ謝罪を言いに行こうと思って」

 あぁ、と馨は納得した。
 聞いたところによれば、雷門イレブンは顧問の冬海が追放された――要はクビにされた――ために、早急に新しい監督を探さねばならなくなったそうだ。監督がいなければ試合には参加できないと、フットボールフロンティアの規約にもきちんと列記されている。そのことも兼ねて、冬海の件を謝りに行くと言うのだろう。
 今のところ、馨のもとに円堂たちから何か連絡、或いは要請の電話などは来ていない。単に監督者を置きたいだけならば、彼らの中には馨に頼るという選択肢も一応出たとは思うのだが、馨の現状を知ったうえで敢えて声を掛けないのかもしれない。もしも今馨が帝国に所属していなければ、いの一番に「監督になってくれ」とお願いをされていたのだろうか。だとしたら自分は多分その要求を呑んでいたし、そうすればこの事態もひとまずは丸く収まっていたのだが。
 これで本当に監督が見つからないまま雷門が不戦敗したら――と不安な気持ちもあるけれど、今は人の心配をしている場合でもない。とりあえず、彼らのことは彼らに任せておくしかなかった。

「私も着いて行こうか?」
「いいえ、大丈夫です。チームを見ていてやってください」
「……解った」

 他の奴らには早上がりとだけ伝えておいてくれと言い残し、鬼道は脱いだマントを小脇に抱えて足早にグラウンドを去っていった。

「……」
「馨」

 憂う瞳で彼を見送っていた馨の隣に、いつの間に近寄っていたのか佐久間が並ぶ。

「鬼道は大丈夫なのか?」
「うん。用事があるから今日は先に上がるって」

 どこか心配そうな彼を安心させるように笑顔を向け、馨は自分より少し低めに位置する肩をぽんぽんと叩いた。そして気持ちを平常通りに正し、いつものように冷えたタオルをその手に渡した。
 鬼道がいつもと違うなら、せめて馨は何も変わらないままでいなければいけない。鬼道が独りでたくさんのことを悩み考えていられるよう、このチームのことをきちんと見守っていなければいけない。
 ――直接力になれる、そのときまで。

「佐久間は調子どう? 決勝まで時間無いけど、大丈夫?」
「あぁ、心配いらない。絶好調だからな」
「なら良かった。じゃあ、早く練習戻ろう」

 自身の乱れによりチームに余計な心配をかけることを、彼は望まないはずであるから。


* * * * *


 馨と別れた後、鬼道は雷門サッカー部が練習している河川敷のサッカーコートへと赴いた。そこで最初に向けられたのは、敵意を剥き出しにした強い視線。当然の待遇であると、鬼道自身彼らの怒りはしっかりと受け止めていた。
 グラウンドには下りず、わざわざこちらへ来てくれた円堂に用件である謝罪を述べれば、彼は全く気にしていない風に冬海と土門のことを許してくれた。それどころか、土門を暖かく歓迎する言葉をかけてくれたのだ。そのとき鬼道は、土門が雷門に心を入れ込んだ理由を少しだけでも理解できた気がした。
 ――同時に、馨が帝国に身を置いても尚彼らを見守っている理由もまた、解ったように思えた。
 総帥の策略で掴ませられていた贋物の勝利。自らとチーム全体のたゆみない努力で築いてきたとばかり思っていた帝国学園は、蓋を開けてみれば何てことはない、悪逆非道な手段で塗り固められた偽りの王座であったのだ。己の誇りが紛い物だったという事実に、ただただ悔しさとやるせなさが募るばかりで。
 そして先程、我慢できずに敵である円堂へと吐き出した。今更気付いた真実を、情けないと知りつつも心情と共に吐露した。
 だのに彼は、それを全て否定してくれた。帝国の実力は本物だと、鬼道自身らが数多のシュートを浴びせたその身を以て、はっきりと明言してくれたのだ。
 その瞬間、詰まっていた何かが外れたような、仄かな感覚が生まれた。

「……」

 ウィンドウの枠を過ぎ行く景色を眺めながらも、その瞳には一切が映っていない。
 蘇る記憶。
 帰り際、彼といつ果たせるのか定かでない約束を交わした後。
 不意に円堂から再開させられた会話を思い出し、鬼道はゆっくりと目を閉じた。



「ところでさ、馨姉ちゃんは元気にしてるか?」

 へらりと砕けた表情で投げ掛けられたのは聞き慣れぬ名で、鬼道は一瞬誰のことだか解らなかった。間を置いて、そういえば、と彼女の下の名前は馨であったことを思い出す。
 どうして円堂が彼女の所在を知っているのか、今更問う程でもないだろう。大方冬海が後を濁すために暴露していったのだと推測し、鬼道の重たい口がゆっくりと開かれた。

「江波さんなら変わりは無い。とても良くしてくれている」
「そっか、なら良いんだ! 最近連絡してなかったから、ちょっと気になってさ」

「オレもだけど姉ちゃんも忙しそうだし」と続ける円堂を見ると、鬼道の胸にぶわりと罪悪感が湧き上がってくる。それは目の前の円堂ら雷門イレブンだけでなく、今も帝国でマネージャーをしているであろう馨へも向けられていた。

「……すまなかったな、江波さんのことも」

 気付いたら、そんな謝罪の言葉が口を割っていた。
 円堂がきょとんとした顔で鬼道のことを見つめる。

「ん? 何で鬼道が謝るんだよ」
「総帥に命じられ、江波さんを無理に引き入れたのは俺だ。もしも彼女が帝国のマネージャーにならなければ……」

 ――もしも、馨を無理矢理誘い込むような真似をしなければ。
 雷門のサッカーを、何の障害も無く楽しく応援するだけで良かったのに。後ろめたさを感じずに彼らと触れ合い、こんな嘆かわしい内輪揉めに巻き込まれることもなかったのに。
 命じられるまま、必要だからという理由で馨を引き込んだのは鬼道自身。そのときはそれだけで終わるはずだった。ただ、総帥の推薦するマネージャーとやらが気になって、何も考えず総帥の指示に従っただけだった。
 なのに、今になってみれば全てが目まぐるしい勢いで変わっていて――やがてやってきたのは、遅すぎる後悔であった。

「あの人は、オマエたちと一緒にいる方が良いんだ、恐らく。それにもっと早く気付けていれば、こんなことには……」

 鬼道の脳裏に蘇るのは、雷門のサッカーを見ているときの馨の瞳。心から楽しみ、熱く燃え上がる、サッカーへの愛に溢れた眼差し。帝国のサッカーには向けられることのない、あの視線。
 ――羨ましい。
 先程円堂に零したときとは別の意味で、鬼道の中で雷門への羨望が募っていく。
 あそこが帝国学園である以上、帝国サッカー部である以上、馨にとって雷門と同じような場所になることはないのかもしれない。それどころかあの場所は、彼女のことを余計な(しがらみ)に捕らえさせてしまっている。

「……すまない」

 影山の笑う顔が頭から離れず、それがまた苦しくて、無意識に口元は自嘲をかたちづくる。
 そんな鬼道を前に、円堂はふっと視線を下にいる土門へと移した。

「土門から聞いたんだけどさ」

 その言葉につられ、鬼道もまた土門を見下ろした。もうすっかり雷門に馴染んだらしい彼は、今も楽しそうにサッカーに勤しんでいる。黄色と青のユニフォームがよく似合っているように思えた。

「馨姉ちゃん、お前たちのためにボールを蹴ったんだってな」

 鬼道は、一瞬眉を寄せた。ふと思い出される当時の記憶に胸をざわつかせながら、無意識に低くなった声音で応える。

「……あぁ」
「知ってるか? オレたちとの練習では、姉ちゃんったら何があっても蹴ってくれなかったんだぜ」

 苦笑いながらそう言われ、鬼道はふと、練習試合時に馨と対峙したときのことを思い返した。
 あのときの彼女は確か、頑なにボールを蹴ることを拒んでいた。当時はその場限りの拒絶であると思っていたが、どうやら違うらしい。馨は何かしらの理由があって、足を使うことを止めているのだ。
 だとしたら――鬼道の胸を、誰かが二度三度とノックする。
 彼女にとってのボールを蹴るという行為は、鬼道の思う以上に大きな意味を持っているのではないのか。
 そう気付いたとき、胸のざわめきがいっそう大きくなった気がした。

「オレさ、その話聞いたとき……正直羨ましかった」

 円堂が、どこか切なそうに声を萎めて言った。

「羨ましい?」
「あぁ。それだけ、帝国のサッカー部が大事なんだなーって思ってさ」

 だから――円堂の澱みの無い眼差しが、真っ直ぐ鬼道に突き刺さる。

「姉ちゃんが帝国でサッカーと関わってることを、お前が否定しないでくれよ」

 サッカーが好きで、雷門が好きで、そして帝国が好きで。傍にいる皆を大切に思っている馨を、無かったことにしようとしないでほしい。
 円堂が抱く気持ちは、視線を通じてしっかりと、鬼道の胸へ浸透していった。

「……」

 好いてもらえていることは、解っている。自惚れと言われようが、本人がはっきりとそう言っていたのだから、それを否定しようなどとは思わない。馨が改めて帝国学園サッカー部と向き合えたときから、もしかするとそれよりも前から、彼女がチームのことを思ってくれているのは充分承知していた。
 そして、無意識のうちに育まれた後悔の最も大きな部分――気付けば自分もまた、馨がいることに他には変えられぬ心地好さを抱いてしまったのだ。

 ――そのときは、そのときだ。

 あの日からずっと耳を支配している言葉。馨に対し絶対的権力を有している影山によって彼女が奪われてしまうのだと考えると、どうしたって自身の思いが定まらない。己が未だに惑うのは、彼女という心地好さを失ってしまうかもしれないという恐怖があるからなのだ。
 故にあの優しさにも頼れず、持て余し、(いたずら)に苦しめることしかできない。決して触ってほしくないわけではないのに、何らかの行動で影山という引き金を引いてしまうのが怖かった。
 だから、こんなことになるならいっそ、と思わずにはいられなかった。
 でも――それをまさに今、円堂によって“間違い”なんだと気付かされた。

「姉ちゃんと一緒にいて、楽しくないか?」

 答えなんて解りきっているだろうに、円堂は意地悪にもそう問うてくる。
 鬼道はゆるりと首を振り、微笑を湛えた。

「いいや、……楽しいよ」
「だよな」

 にかっと明るく笑う円堂を見ていると、なるほどな、と思う気持ちが湧いてくる。
 何となく、あの人と似ているのだ、円堂は。
 そう思うと、尚のこと眩しく感じられてならない。

「あの人は、優しい」

 空を仰ぐ。突き抜けるような真っ青な晴天だ。それもじきに色を変え、――あの日と同じような、鮮やかなオレンジに染まっていくのだろう。

「……優しい、人だ」

 ――彼女の存在を、無かったことになんかしたくはない。
 あのとき、橙色に染まる夕暮れの中で感じた身体の軽さは、何の偽りもないものであったのだから。

「あーあ、いいなぁオマエら。もし姉ちゃんが帝国に愛想尽かしたりしたら、次は雷門のマネージャーになってもらおっかな」
「それは彼女次第だろう」
「へへっ、確かに」

 茶目っ気を含んだ笑みにつられ、鬼道の顔も微かに綻ぶ。円堂と話せて良かったと、このとき彼は強くそう思えた。
 この先どうなっていくのか見当もつかないし、まだ不透明な未来しか見えない。
 けれども、心の傾きは前よりずっと明瞭なものになっていた。もう少し、あと一歩、最後の後押しさえ感じることができれば、自分の中に一つの決着がつけられる気がしたのだ。


 回想をやめ、閉ざした瞼を持ち上げる鬼道。胸いっぱいに満ちるのは、雷門への羨望と、自分たちが手にしているサッカーへ対する新たな欲望。
 雷門の自由なサッカーが羨ましい。それは馨が好いているサッカーでもある。だからこそ、羨ましいのだ。
 車は何に阻まれることなく自宅へと向かう。徐々に沈み始めた夕日によって世界は光を失っていき、じわじわと茜から黒に染まり始めていた。

 直に、夜が来る。




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