the kiss of death


 翌日、変化は起きた。

「馨ちゃん、おはよう」
「おはよ」

 いつものようにすれ違う友人たちに適当に挨拶を返し、靴を脱ぎながら自身の下足箱の取っ手に手をかける。そのまま脱いだ靴と中にある上履きとを履き替えられれば、ただの何てことない日常の一コマで終わったのだが。

「あれ……」

 開いた下足箱の中には上履きの他、一枚の紙が入っていた。
 ノートか何かを乱雑に破り取ったらしい即席のメモには、簡潔に一言、こう殴り書きされている。

『サッカー部をやめろ』

 どくりと瞬間的に心臓が高鳴ったが、脳はすぐに冷静さを取り戻す。三回読み返したところで馨はメモを握り潰し、呆れ混じりの溜め息を吐いては指に引っ掛けた上履きを床に落とした。
 ――こうなる可能性はあったのだ。
 総帥からの贔屓に対する憤りか、技能への嫉妬か、或いはそのどちらともか。どちらにせよ、入部して半年以上経った今ではあまりにも今更だ。
 しかし気にする必要はない。どこの誰かなど知る由も無いが、犯人探しをする気は起きなかった。こんなこそこそした卑劣な手段でしか物を申せない顔も知らぬ相手を相手にする程暇ではない。姿の見えない犯人を、馨は胸中で冷たく見下していた。
 下足箱に入れられた古典的な脅迫メモ。
 それだけで終わればまだ平和的であったが――現実はそう甘くはなかった。

「……小学生かって」

 多少の教科書やノートなどを置いたままにしてある自分の机。まさかなと思ってその中に手を突っ込んでみれば、嫌な予感は見事に的中した。
 触れたものを掴んで引っ張りだしてみれば、落ちてきたのはくしゃくしゃに丸められた紙。それも一つではなく複数で、乱雑に広げればそこに書かれているのは先程も見た一文。どうやら書きたてほやほやのものもあったらしく、気付けば手には黒いインクが付着していた。

「カッターの刃じゃないだけ良心的、かな」

 明らかな異変、けれども動揺などしない。
 自分でもしょうもないと思うことを自嘲的に呟いて、馨は手を洗うべく面倒そうに席を立った。


 朝は犯人を探すつもりなど全く無かったし、それは現時点――放課後だって変わらない。知ったところで何をすれば良いのか解らないのだから、相手が気の済むまで我慢をしてやり過ごせば良いと思っていた。それを世間は逃げ腰だと罵るかもしれないが、こんな余計なことに労力を割く方がバカだと、少なくとも馨はそう考えていた。
 だが、こちらから探るまでもなく、馨は犯人を見つけてしまった。
 と言うよりは、気付かざるを得なかった。どんなに馨が鈍い人間であったとしても、悟れないわけがなかったのだ。

「……」

 最初は部室へ入った直後、あまりにも解り易すぎるおかしな雰囲気と周囲の様子に触れた。あからさまに距離をとられていると直感が告げ、その証拠に馨を見る彼女らの目は冷えていて、態度はよそよそしいを通り越してほぼ無視の状態。空気は入部したての頃と似ているが、根本がどこか違っていた。
 変化が顕著になったのは、いつも通りストレッチなどを終えてから行われるミニゲームのときだった。
 普段ならば司令塔ということで必然的に皆からのパスが集中する馨だが、不自然なことに今日はまだ一回もボールが回ってきていないのだ。パスされるべき機会を得て受け取る構えをとっても、相手が無理矢理な方向へボールを蹴ってしまう。逆に相手のボールを取りに行こうにも叶わない。解りやすすぎるあんまりな対応だ。
 まともなプレーができないことへの苛々を募らせながらも、問題は起こさぬようにと何とか堪える馨。ならば、と声を張り上げて指示を出してみたのだが、仲間はそれも無視し、決して従おうとはしなかった。それどころか、最早馨の方を見てすらいなかった。
 ――何がしたいのだろう。
 共に《デスゾーン》を完成させ、今は完全に馨を疎外しているあの三人の背中を睨む。昨日、あんなに頼りにしている風にしていたではないか。それがどうしていきなりこんなことになってしまったのか、冷静に考えてみたところで理解に苦しむ。
 結局一度もボールに触れないままにゲームを終えた馨は、ぐっと握り拳を固めて脱いだビブスを地面へ投げつけた。歪む表情。腹が立つのと同時に、何とも幼稚な行為を始めたチームに対する情けなさが湧き起こっていあた。
 その後の練習でも、やはりパスはやってこないし指示は通らないしで目も充てられないような酷い有様だった。
 馨は終始文句も言わず、練習を抜けようともしなかった。もうすぐ決勝戦があるのだから、本当ならばこんな戯れ事に付き合っている場合ではない。馨を空気のように扱いながらピッチを駆け回るチームメイトらを心を殺して目で追いながら、脳内では影山に報告すべきかどうかを悶々と考えていた。昨日までなら余所事を考える暇などなかったが、今は出番が与えられない、そして奪うことすらできないのだから仕方ない。
 あまりに周囲とかけ離れた現状で、自分が今どこに立っていて何をすべきのか、それすら見失いそうになった。

「――今日の練習はここまで!」

 賀川の一声で、いつもの倍くらい長く感じた練習はようやっと終わりを迎えた。終わってからも当然のように誰からも声を掛けられないし、遠巻きにされてしまう。気にしないのは簡単でも、慣れるのはそう上手くはいかなかった。
 彼女は――ふと思い立って、全員がベンチへ戻っていく中で一人振り返って賀川の方を向いてみる。
 すると、彼女は目が合った瞬間に何故かバツが悪そうな面をし、不審な程の速さで顔を背けた。明らかに昨日と違う様子の横顔。戸惑いすら窺えるそれから視線を外した馨は、つきんと胸を針で突かれたような痛みを感じた。


 このままにしておくのは試合にも影響するためよろしくない。だからすぐにでも影山に相談しようと判断してから、馨は彼のいるであろう部屋を訪れた――が、それも徒労に終わることとなる。閉ざされた扉の前まで来てから思い出したのだが、影山は今日から三日程、学園を留守にする予定になっているのだ。
 相談する相手はいない。妙に酷い孤独感に襲われた馨は、首を振って気持ちを正し、帰るためにと素直に扉へ背を向けた。

「あ」

 ――そこで偶然、彼に出会った。

「ん?」

 データらしきファイルを抱えてこちらへ向かって来ていた一人の男子生徒は、馨を見るなりぴたりとその足を止める。数歩程度しか開いていないお互いの距離で、彼は目をぱちくりさせて馨の顔を正視していた。
 物珍しそうな、まるで珍妙な動物を観察するような、そんな反応。入学して半年のうちにすっかり慣れてはいるけれど、あまりじろじろ見られてはやはり気分が悪い。馨は眉間に僅かに皺をつくり、訝しむようにそっと呼び掛ける。

「あの……」
「あー、今日から総帥いないんだっけ」

 忘れてた、と言っては大して困っていなさそうにからから笑う相手を前に、馨はうっかり次に掛けようと思っていた言葉を忘れてしまった。
 男子生徒はどうすべきか少し迷った挙げ句、ファイルに目を通しつつ「急ぎじゃないし別に構わないか」などと独りで自己完結した。そして黒い瞳が動き、拍子が抜けてぽかんとしている馨を改めて正面から見据える。

「オマエ、女子サッカー部の江波馨だよな」

 教えた覚えの無い、それどころか面識すら無い相手に苗字を呼ばれ、再び馨の脳が回転を始めた。

「知ってるの? 私を」
「男子サッカー部だとそれなりに名前広まってるぜ。ま、一軍の方はどうだか知らないけど」
「……二軍?」
「そう。残念ながら、オレにはいきなりレギュラー確定で入部できるような優れた才能は無いからな」

 にやりと意地の悪い笑みを向けられ、一瞬返しに詰まる馨。今の台詞から解ったのは、彼が自分と同じ一年生だということと、彼が男子サッカー部二軍であるということと、少なくとも男子サッカー部二軍には自分の噂が広がっているということ。どれも知ったところで特に損得があるわけではないのだが。
 それにしても、初対面だというのに随分皮肉めいた自己紹介をしてくれたものだ。馨は彼に対し、出会して数十秒のうちは抱いていた遠慮や謙虚さを一切投げ捨てる決断を下した。

「私、総帥直々から誘いのかかった特待生だから。最初は確かに驚いたけど、あの待遇は当然と言えば当然だったのかもしれない」

 それが現在はあの様だけど、と喉まで出かかった言葉は無視をする。ゆるりと腕を組んで自分より少し背の高い彼の視線を捉えれば、特待生と聞いて目を丸くした男は、一拍置くと次いで苦笑いのような吐息を漏らした。

「プレーに似た性格してんだなオマエ。……オレ、木原暁」
「別に聞いてないよ」
「良いんだよ、自分だけ相手の名前を知っておくだなんてオレのモラルに反する」

 どんなモラルだ、と言い返そうとした唇を止め、馨も木原につられるようにして小さく笑みを零した。さっき、一人でいたときに頭の中を巡っていた事柄が、そんなわけがないのに何だかどうでも良いことのように思えてしまうから不思議だった。
 馨は身に着けていた腕時計へ目を遣り、もうすぐ校舎が施錠される時間であることを確認する。長居してしまったと思いながら、同じく時間を気にしていた木原に簡単な挨拶をして先にその場をあとにしようとした。

「あ、ちょっと待って、オマエに聞きたいことが」

 が、彼の伸ばした手に軽く腕を掴まれ、動けなくなる。馨は早くしてくれという思いを込め、眼球だけを動かして続きを催促した。
 木原はあの砕けた笑みからは一変し、驚く程真摯な顔つきでいた。やや日焼けした無骨な手で細い腕を掴んだまま、相手へしっかり伝わるように、一言。

「江波さ、何でサッカーやってるの?」

 馨の鼓動が一つ、波打つ。
 ――“何で”。
 どうしてそんなことを訊くのかと思う前に、彼の声が鼓膜の奥で反響する。その問いに含まれる意図はすぐには理解できなかったが、一呼吸置けば、思考より先に自然と回答が口から飛び出していた。

「私に期待して、私を信頼してくれる人に、応えるため」

 帝国で自分を磨くのも、徹底したゲームメイクをするのも、試合で相手を潰すような真似をするのも、辿れば必ず一本の道の果てへ繋がっている。そこに立っているのは、いつだって不変の彼の姿。
 だからどうしたと言わんばかりに明瞭に言い切れば、木原は「そうか」と言うだけでそれ以上は追及しなかった。精悍な顔つきだった彼の表情が、少しだけ緩む。

「じゃあさ、サッカーやってて、楽しいか?」
「楽しいか?」

 最後の単語を鸚鵡返しすると、意識せずとも脳裏にはサッカーをしているときのヴィジョンが映し出された。
 まるでチェスでもするかのように選手一人一人を的確に動かし、相手を意の儘に操り翻弄し、フィールド全体を我が物にし、標的の選手の呻き声を聴きながらゴールを奪う。スコアボードの数字は試合を行う度に大きくなり、仲間は自分を囲んで喜び、結果を逐一報告しに行けば彼は決まって自分を傍に呼び、触れてくれる。さすがだ、と言っては満足げに笑みを浮かべてくれるのだ。
 これは、この感情は、果たして楽しいと言うのだろうか。
 そもそも、楽しいサッカーとは何だったろうか、定義が解らない。帝国へ入ってからは何よりも使命感が先にあったから、考える機会もなかった。
 けれどもただ一つだけ、はっきりと自覚できていることがある。

「……認めてもらえることや、喜んでもらえるのは、嬉しい」

 無意識のうちに仄かな微笑を口元へ描く馨。
 しかし木原はとうとう相槌すら打たずに、黙って彼女の腕を解放した。


* * * * *


 何も反応を示さなければ、すぐに飽きてこんなバカらしい行為などやめてくれるはず――唐突に行われるいじめへの対応くらいなら心得ている馨は、そう心の中で復唱することでひたすら平常心を保ち続けていた。
 大事な試合が控えているというのにどうしてこんなバカみたいな真似が出来るのだろうと、内心で相手を虐げでもしなければやってられない。決して自分には渡らないボールの行方を目で追いかけながら、いつしか脳は作戦やフォーメーションについて考えることが少なくなっていった。
 疎外されるようになってから二回目の部活が終わり、相変わらず見事な程に無視をされる中で更衣室へ向かう馨。その際、隣のグラウンドで練習している男子サッカー部二軍の掛け声がやけに耳をつき、何気なく順路を外れてはそちらの方へ足を向けてみた。
 ベンチ側からこっそり顔を覗かせてみれば、距離が近づいた分ますます気迫が強くなったように感じられる。掛け声はあちこちから満遍なく掛かっているが、その中でも特に顕著なのはピッチのほぼ中央で人一倍声を出している部員――木原だ。

「もっと喰いついてけー! ボール取ってけー!」

 片手をメガホンにして若干枯れている声を響かせる彼はどこまでも楽しそうだ。流れる汗でさえ気持ちよさげで、照明に反射しているせいかやけにきらきらと輝いている。馨は何故か、彼の周囲だけやたら明るく見えてならなかった。

「ほらほら走れー! ……あっ」

 黒の両目がこちらを見た瞬間、彼は馨に気付いたらしく声を張るのをやめた。そして小走りで一気に距離を詰めてきたものだから、馨は驚いて数歩後ずさりをしてしまった。いっそ逃げようかとも思ったが、それはそれで相手に失礼になるのでやめておく。

「よぉ江波、練習終わったのか?」

 汗を流しっぱなしにしていても、木原はどこまでも爽やかだった。にっと見せる白い歯に視線を奪われつつ、馨も努めて普通に振る舞う。

「まぁ、女子は終わるの少し早いから」
「そういや、なんか治安がどうのこうのって言ってたもんな。ところで、誰かに用事?」
「いや、ただ何となく見に来てみただけ」

 その言葉に嘘偽りは無い。
 無表情のまま答える馨に「へぇ」と呟く木原。相槌にしては意味ありげな語調だったが、どちらもそれ以上を口にはしない。代わりに、どこか探るような目をしていた木原が、途端に良いことを思いついたとでも言いたげにポンと手を打った。

「そうだ、江波も一緒にサッカーやってけば?」
「は?」
「どうせこの後帰るだけなんだろ? ならオレたちとちょっとやっていこうぜ。オレ、前からオマエとプレーしてみたかったんだ」

「どうだ?」と期待に煌めく瞳を向けられ、少し返答に困る馨。
 ここ二日はまともにサッカーができていないためにか、身体は今もボールを求めてやたら疼いている。そして自らの使命を果たせない歯痒さが、自身を無理矢理にでもフィールドへ引っ張っていこうとしているようだ。
 けれども馨は結局、頷かなかった――ここで彼らとサッカーをしたところで、現状が変わったりするわけがない。馨にとって今最も必要なのは、以前のように目一杯ゲームメイクできる環境と仲間。それがなければ、サッカーをする意味が無いのだ。
 首を左右に振って拒否を示す馨に、木原は残念そうな顔をしたが素直に引き下がった。直後に彼女の片手を取り、きゅっと軽い握手をする。

「じゃあ、またいつか、絶対やろうな。約束」
「……いつか、ね」

 ささやかな約束のかたちとして、馨もまた握る手に力を入れた。それがきちんと果たせるものなのかどうかは解らないが、あの真っ直ぐな漆黒に見つめられてしまえば無理だと言うことはできなかった。期待を掛けられるという点では影山もそうだが、彼は影山とは違った方向で裏切りたくはないと思わせる。
 木原は、不思議な人間だった。


* * * * *


 我慢をすることで状況を打開することができるとは思っていないが、少なくとも悪化せずにただ元に戻ってくれればとは思っていた。
 けれども、馨だって人間である。人間は、何にしても有限な生き物なのだ。

「……これ、は」

 部内から迫害され始めて三日目の放課後。
 誰よりも先に部室へ入り、どうせ今日も進展は無いのだろうとうんざりしながら開けたのは自分のロッカー。いつもならきちんとハンガーに掛けられたユニフォームがあるはずなのに、今はどういうわけか――。

「……」

 見るも無惨に切り裂かれた“それ”は、もうユニフォームと呼べる形を保ってはいなかった。
 布切れに隠れたスパイクも大型のナイフでやったのか不器用にずたずたにされており、もうこれでは練習どころの話ではない。そして、いじめの範疇も越えている。
 ――どうして、どうして……。
 元ユニフォームだったものをきつく握り締めた馨は、暴発寸前の感情を何とか押さえ込み、弾かれるように廊下へ飛び出した。そのまま早歩きで幾つかの角を曲がれば目的の人物が目に入る。馨は周囲に人がいるのも気にせず彼女の腕を掴むと、抗議する声を無視して無理矢理近くの空き教室へ連れ込んだ。

「ちょっと、いきなり何なの……江波」
「それはこっちの台詞だと思いますけどね、賀川キャプテン」

 底冷えするような瞳で彼女を射、バサリとボロ雑巾のようなそれを投げ捨てる。

「何なんですか? 何が気に入らないんですか? もうすぐ決勝戦があるって言うのに、こんな幼稚なことして何が楽しいんですか? 何が目的なんですか?」

 矢継ぎ早に疑問符を畳み掛ける馨は、喋れば喋る程自分が興奮していくのを自覚していた。それでも止められない。ずっと我慢してきた分、一度口にしてしまうと後から後から溢れて止まなかった。

「私に文句があるなら、直接言えば良い! 何もこんな、こんなことをしなくたって……!」

 布切れの一枚が乗った机を強く叩きつければ、賀川が大きく肩を揺らす。表情は明らかに困惑していた。

「このユニフォームもスパイクも、私が総帥から頂いたもの……大切なものだったのに……」
「……江波」
「言いたいことがあるなら、今ここで言ってくださいよ!」

 噛みつくようにそう言い切ると、賀川はいよいよ泣きそうな顔になった。馨は、どうしてオマエがそんな顔をするんだ、と思えども口にはしない。怒りなのか悲しみなのか解らない熱さの渦巻く体内が、他人のことまで考える余裕をすっかり奪い去っていた。
 やがて賀川はゆっくりと呼吸をし、唾液を飲み込んだ。涙が張っているのか、或いは感情の揺れの表れなのか、歪んだ光を宿す瞳で馨の首元辺りを見つめる。

「……貴女が、部活を辞めてくれればそれで良い」
「だから、どうして――」
「邪魔なの!」

 ――邪魔。
 理由としてはあまりに簡素な単語。しかし、それをすんなり受け入れられるかどうかと言えばまた話は違う。馨はどくどくと鼓動が速くなっていくのを感じていた。

「あ、貴女がいるから確かにチームは前より強くなった……でもそれは貴女の功績であって、才能ある司令塔によってゲームメイクされた試合では私たちの実力なんて全然関係なくなっちゃうの!」
「そ、んなわけ……」
「チームプレーに於いて、大きすぎる力はいつだって必然的に全体のバランスの崩壊を招くもの……貴女が来るまでも私たちは充分に強かったのに、貴女が来てから……っ何で、貴女は、うちに来たのよ……!」

 徐々に捻り出すようになっていく賀川の吐露。今までの交流で一欠片も見い出せはしなかった彼女の胸中を知り、馨は最早、否定のために小さく開けた口を閉じることすらできないでいた。
 ――バランスの崩壊。
 (おご)るわけではないが、帝国学園に入学して部活に所属してからずっと、自分の力はチームに良い影響しか齎していないと思っていた。影山の言うように持てる才を遺憾なく発揮し、それについて来れる皆の力を利用したゲームメイクをしてきたつもりだった。試合でも素晴らしい成績を残してきた。初期にあった変な空気も時間と共に取り払われ、このまま自分が中心となってチームを引っ張っていけるものだと思っていた。
 なのに、実際はどうだろう――チーム内で、自分の力は邪魔なものだと思われ続けていたと言うのだ。外部からの嫉妬はまだしも、まさか同じチームメイトから未だにそう思われていたことに、今はもう驚きすら湧いてこない。
 代わりにこぽりと内側に湧いてきたのは、ただ一つ、悲しみだった。

「貴女なんて、来なければ良かったのに……そ、そしたら私たち皆、普通にサッカーやってられたのに……」
「……」
「嫌い、大嫌いだよ江波なんて……だから、お願いだから辞めてよサッカー部……すぐに辞めてくれれば、そんなことしなくて、済んだのに……ッ」

 とうとう両手で顔を覆って泣き出した賀川に瞳を向けつつ、しかし馨はどこも見てはいなかった。脳が稼働を拒絶し、思考が巡らない。ぐちゃぐちゃになって泣いている賀川を前にして、どうすれば良いのか解らない。
 唯一解ることと言えば――彼女が、自分という存在のせいで、自分がサッカーをやっているせいで、涙しているという結果だけ。
 自分は決して、誰かを泣かせるためにサッカーをしているわけではないのに。

「わかっ、た」

 声がつっかえた。
 賀川は僅かに顔を上げ、真っ赤な目で馨を見る。

「辞め、る、から」

 不自然に震える声でそれだけ言って、馨は踵を返した。床に散らばったユニフォームの残骸も、心なしか引き留めようとする涙に濡れた眼差しも、全てをそこに残して教室をあとにした。


 飛び出した廊下は恐ろしいくらいひんやりとしていて、その冷たさは脳に浸透して直に冷静さを連れ戻してくれる。教室を出てから目的地も無いままに歩いていた馨は、ふと、何も無い曲がり角の影で足を止めた。
 あまりにも急すぎて、何が起こったのか理解できるキャパシティを超越していた。
 その中で何とか解ったこと、感じたことを一つ一つ積み重ねていくと、やがては全ての結論に繋がる。

「……ッ」

 パキリと自身の中の何かが外れ、瞬く間に視界がぼやける。決壊したダムのように溢れ出ては両の頬を容赦無く濡らす熱さがまた、己の内にあった激情をさらに外へ押し出そうとしているようだった。
 ――自分を否定されたも同然だった。
 影山に言われ、あの部に入った。それと同時に自分の在るべき場所、自分を確立できる定位置を手に入れた。そこで指示を出しボールを蹴っている限り、江波馨という人物のサッカーは成り立っていたのだ。影山の望む勝利と才能を提供し続けることができたのだ。
 なのに、チームは自分を否定した。もうあそこは自分の輝ける場所ではない。嫌われているのだ。故に居場所が無くなってしまった。影山に何と言えば良いのだろうか。せっかくこの身に宿る才を引き出そうとしてくれた彼に、これでは恩を仇で返すようなものではないか。
 自分はただ、サッカーをしていただけなのに、何故。

 ――貴女なんて、来なければ良かったのに……。

 賀川の声が鼓膜にこびりついて離れない。
 思い返せばそれだけ心臓と共鳴し、また苦しくなった。

「……うっ」

 床に落ちて小さな音をたてる滴を、落ちる前に力任せに拭う。それでもどんどん流れ出てくる涙は止められなくて、どうしようもなかった。頭痛がする。いっそこの場で大声をあげて泣き喚きたくなった。
 そんなとき、コツリ――硬質な靴音が、響いた。

「どうしたのだね?」
「……っ総帥」

 顔を上げれば、久方ぶりに見る影山の姿がそこにあった。
 それに気付いた途端、馨ははっとして俯き、必死に涙を隠そうとする。真っ赤に充血しているであろう瞳やグシャグシャの泣き顔を晒したくなくて、情けない姿を見せたくなくて、顔を伏せながらも普段通りを装おうとした。

「いえ、何でも……」
「私を欺けると思ったら大間違いだ」

 しかしそんな意地を破り捨てるように言葉を挟み、彼は一歩近づいた。馨は思わず再び面を上げた。影山のサングラスに映っている自分は酷くみっともない様子だったが、もう視線を外すことはできなかった。

「辛かったのだろう」

 優しいと言える程ではない声音。
 けれど耳に受けた瞬間、絶対的な安堵感に抱かれたような気がした。

「そ、うす、い」
「泣きたくなる程、傷付いたのだろう」

 黒が透け、一瞬だけ見えた瞳は細められ。

「ど、して……」

 もう形振り構ってはいられなかった。
 全てを見透かし、悟った口調の影山。彼の服を小さく掴んで縋り、馨は流れる涙をそのままにサングラスの奥を見つめる。何故不在中のことを知っている様子なのかなど知る必要も無い。ただ、縋らざるを得なかった。彼が倒れかけた自分を受け止めてくれるのだと、直感がそう言っていた。
 何も疑うことなく見上げてくる揺れる両目を見返しながら、影山は口の両端を微かに吊り上げる。

「オマエのことは、誰よりも私が理解してやれる」

 最後に指先でそっと髪を撫でれば、陥落。
 馨はそのとき初めて、身体の底から声をあげて泣いた。


「私は、サッカーをすべきではなかったのでしょうか」

 薄暗い空間、影山の膝の上に身を落ち着かせている馨がスンと小さく鼻を啜る。あたかも自身に言い聞かせるような問い掛けは、静かな室内で微かに反響した。

「才能はあればそれだけで良いものだと、そう思っていたのです。でも実際に私は……私のサッカーはチームの皆を……」
「オマエが気に病む必要はない」

 段々と小さくなっていく言葉をはっきりと打ち切った影山。その断定的な一声に、馨の乱れた思考や感情は驚く程一つに集中させられる。影山の胸元辺りにあった視線を上げて目を合わせれば、彼は片手で馨の耳付近を掠る程度になぞった。

「あそこは君を受け止めるだけの器になれなかっただけの話だ。そして、その成長を見抜けなかった私にも非はある」
「いえ、そんなことは! ……総帥は私に場所を与えてくれたのに、内面を考えず活かしきれなかったのは私です」
「内面など考えなくても良いのだよ。君の才能は“活かす”のではなく“活かされる”べく存在する。そのためにはそれ相応の舞台が必要なのだ。……江波、お前のサッカーはとても魅力的だ」

 だから、サッカーをするべきではなかったなどとは二度と口にするな――秘め事のように囁かれた低い声音が、血液と共に馨の身体中を巡る。
 ――魅力的。
 いつもみたく命令口調なのに内容は寧ろ甘く優しくて、反芻する度に脊髄に甘美な痺れが奔った。賀川の涙が頭を過ぎる度に自身を苛む罪悪感が、影山の言葉で静かに浄化されていくのが解る。
 自分が彼女やチームを苦しめたのは確かだが、それは言うなれば因果であったと。己がサッカーをやっていたからではなく、環境的になるべくしてなった出来事なのだと、彼はそう言っている。
 一度全否定された自己を、再び認めてもらえた――むず痒さを押し隠して同じく囁くように「すみません」と返せば、彼は満足そうに笑む。馨は、間近で見なければ解らないこの表情の変化が好きだった。

「……総帥のいない三日間、正直言うと、とても寂しかったです」
「そうか」
「それでも一人でどうにか出来ると思っていたのですが、できなくて……」
「よく、頑張ったな」

 普段のように、軽くだが頭を撫でられる。胸がギュッと縮まる思いがした。

「……だから今、とても、嬉しいです」

 無礼にならないように気を付けながら、馨はそっと、さらなる温もりを求めて距離を縮めた。動いた後も影山から何か言われることはなく、心中でほっと息を吐く。広がるのは沈黙。しかしそこには、全てを丸ごと満たしてくれる柔らかな安心感があった。
 影山が背凭れに体重を掛けたことで、椅子が微かに軋んだ音を立てる。それが脳へ刺激を送ったことで馨はふと、今自分がどういう状態でいるのか客観的に見直した。
 廊下の一角で声をあげて泣いた馨。服を掴んで縋りつく彼女に対して影山は何も言わず黙って落ち着くのを待ち、やがて嗚咽が治まった頃にこの部屋へ連れて来てくれた。そうしていつものように椅子へ腰掛けると、正面の少し離れたところで足を止め直立していた馨へ、自身の膝へ座るよう言ったのだ。
 仮にも学園のトップからのそのような要求に最初こそ戸惑った馨だが、彼が自分を特別に扱い、また自分も彼を特別に思っていることを自覚していたから、一つ返事をすると素直に指示に従った。それに、これまでも互いの身体を触れ合わせたことは幾度かあるのだ、動揺するのも今更である。断りを入れてから向き合うかたちで膝に座れば、人の体温は高揚した神経を落ち着かせるのだと、影山はそう言った。
 どうしてこんな関係になったのか、今となってはよく解らない。そうでなかった時期を探すために振り返ったり考えたりするだけ野暮なのかもしれない。現状、自分を包んでくれる存在に身を任せられる幸福があれば、それで充分だった。

「総帥は、何故私のことを見い出してくださったのですか?」

 唐突に浮かんだ質問を投げ掛けてみる。
 少しの間を置いて、答えは返された。

「オマエが、江波馨だからだ」
「それでは答えになっていませんよ」
「……毎日、夕方になると河川敷にサッカーの上手い少女が現れるという話を耳にしていた。後日実際に見つけたとき、衝撃的だったな」

 口振りはどこまでも冷静で影山らしいが、どこか懐かしむような雰囲気が感じられて馨はこっそりと笑みを浮かべた。
 自分がそんなに噂されていたことは初耳であったし驚いたが、おかげで影山に見つけてもらえたのだと思うと純粋に嬉しい。ヒロトたちがいなくなってからもサッカーを続けていて良かったと、そう思えた。

「きちんとした環境があれば伸びる逸材だと確信できた。だからこそ私はオマエを誘ったのだし、結果的に、江波馨は期待通り……いや、それ以上の選手に成長した」
「ありがとうございます、総帥」

 あのまま、影山に見つけてもらえずに雷門へ進学していたら、今頃自分は才能を活かせず萎れてしまっていたかもしれないのだ。これはもう、運命と言っても過言ではない。
 褒められることはそんなに珍しくないが、どうしてか異様に照れ臭い。みっともならないようはにかんでお礼を言うと、それまで一度だって動きを見せなかった影山の眉が一瞬だけぴくりと動いた。不思議な反応に馨は瞬きを一つするが、それっきり特別なことは何もなかった。

「ともかく」

 何事も無かったように仕切り直された会話に、自然と背筋が伸びる。

「今回のことで判ったが、もうオマエは性別で区別されるような選手ではない。明日からは、男子サッカー部の方で活動をしてもらうことになる」
「……男子で、ですか?」

 ――自分は女子なのに?
 女子部を追い出されてこれからどうするのだろうかとは思っていたが、まさかそんな選択肢を取られることになるとは思いもしなかった。影山は選手としての自身を買ってくれているのだから、公式戦で参加の許されない男子サッカーに転属したところであまり意味が無いような気がする。
 何か他に考えでもあるのかと疑問を抱きつつ先の言葉を待っていると、前触れなく、影山の手が馨の脚に触れた。やや吃驚して一部温かいそこへ目を遣ると、視界の外で彼の微笑む気配がした。反応を楽しまれているのだろうかと内心むっとしたが、顔には出さない。

「勿論、性別の関係でフットボールフロンティアには参加できない。だが、練習試合やただの部活でならサッカーはできるし、私はオマエの選手としての能力だけを見い出したわけではない」
「と、申しますと?」
「他人を見る目も才能の一つだ。……部の一軍で、マネージャーをやってもらう」

 マネージャー、と馨の口が声も無く動く。
 選手として起用されないで部に関わるとすれば、確かにその役割しか残されてはいないが。

「不満かね?」
「い、いえ……ただ、経験がないのでちょっと、不安で」
「大丈夫だ、私がそう認めたのだからな」

 お前ならば必ずや役に立つと、暗にそう言われているのはきっと勘違いではない。
 新たな活躍の舞台。ここで手折れて影山を失望させるなどという結果に終わらず、深く安心する自分がいた。

「……でき得る限り、力になります」

 それに、男子サッカー部には彼が――木原がいる。
 二軍だからそんなに会う機会もないだろうが、環境だけは近付いたと言えよう。だからと言って特に何かあるわけでもないのだが、何故か脳裏に浮かんだ彼の姿は、なかなかそこから消えてはくれなかった。




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