楽しい合宿 - 後編 -


「もー、コーチがいないって気付いたときは本当にびっくりしたっスー」
「そりゃこっちの台詞だって。いきなり悲鳴あげて逃げ出すから何事かと思っちゃったよ」

 盛大に嘆息しつつ皿の中でルーと白米を混ぜ合わせる馨に、壁山は申し訳なさげにしょんぼりとした。「だって本当に幽霊が出たのかと……」とぶつぶつ呟く姿にはさすがに罪悪感が湧いたので、馨も大人げなかったと言って謝った。
 その向かいで福神漬けを取っていた鬼道は、二人のやり取りを見ながらくすりと笑みをみせる。

「でも、何事も無くて良かったです」
「ご心配おかけしました」
「鬼道なんて一番先に飛び出したからなぁ」
「……当たり前だろう」

 円堂の言葉に若干の間を置いてそう返し、鬼道はカレーを掬って口に放り込んだ。

「だが、嬢ちゃんも大概驚いてたぞ」
「当然ですよ! 暗がりでいきなり肩叩かれて驚かないわけないじゃないですか、しかも面識無い人に」

 少し離れたところに座っていた褐色肌の男・備流田は、馨の怒る顔を見ながら水を一気に煽り、がははと思い出し笑いをして大きく肩を揺らした。
 ――校舎内での騒動の後、一同は揃って校庭に戻ってきていた。
 円堂の無慈悲な枕シュートを喰らった民山はまだ少し後頭部を気にしているようだったが――「ハゲてはいないよね?」と髪村に確認を取っていた――その他は特に怪我人も無く、真っ暗な校舎に突入するという皆の無謀な冒険は、穏やかな、言い換えればやや拍子抜けするかたちで幕を下ろした。何はともあれ“影”の正体が解り、且つ馨も無事に発見されたのだから、結果的には万事解決と言えるだろう。そんな事の顛末を語られた居残り組は、揃いも揃って声をあげて笑い飛ばしてくれた。
 騒ぎの間も夏未や響木たちが火を見ていてくれたので、カレーも焦げずに美味しく仕上がっていた。しかも、馨たちが一悶着起こしている間にサラダとデザートまできっちり作ってもらえていたので、校舎乗り込み組は冒険を終えてすぐに夕食へありつくことができた。
 買い物時にちょうどバナナが安売りしていたので、デザートはシンプルにバナナのヨーグルト和えをチョイスしてみた。このあと出てくる予定であるが、既にメニューを知っている部員たちは皆それを楽しみにしてくれている。

「心配させちゃったお詫びに、デザートのバナナ一個あげるよ」

 ぱくりとカレーを頬張り、馨が言う。その対象である鬼道は一瞬きょとんとしたが、すぐに首を左右に振った。子どもみたいな扱いに照れたのか、耳元がやや赤くなっている。

「いや、いいです、そんなことは」
「ならオレにくださいっス、コーチ! オレも超心配したっス!」

 目敏いというか耳敏いというか、鬼道に被さるかたちでびしっと挙手したのは壁山。遮られた鬼道があまりの勢いに肩をびくつかせていた。
 元はといえば彼の絶叫が馨の置いてけぼりにされた原因でもあるのだが、壁山の目がバナナ目当てにきらきらしているのを見れば、ここはもう気前良く笑っておくしかなかった。

「解った解った、壁山くんにもあげるよ」
「あ、ならオレも! オレもスゲー心配した!」
「オレもでやんす!」
「ボクもー! 超心配したー!」
「じゃあオレもー」
「じゃあって何だよ、じゃあって」

 一人許可すれば次から次へと、遠慮も何も無しに湧いて出てくるのがまさに雷門サッカー部。冷静な数人は呆れ笑いを浮かべつつ様子見しているが、残りは我も我もと勝手に自己主張をし出して収集がつかない。別に心配の度合いであげるかあげないかなど決めていないのに、何故そうやってすぐ熱くなるのだろうか。そういうところが雷門らしくて好きなのだが。
 延々と『ボクはオレはこんなにコーチを心配したんだぜ』合戦が繰り広げられる中、とうとう痺れを切らした馨は、誰よりも目立つ大声を以てびしっとその場を締め括った。

「解った、解ったから! もう全部あげるから好きなだけ取っていっていいよ! 心配してくれてありがとうございました!」
「やったー!」
「じゃあ嬢ちゃん、オレも」
「わかっ……って、備流田さんは心配させた側でしょ!」
 
 便乗を狙った備流田と半ノリツッコミ状態になった馨によって、一際派手な笑い声が夜の校庭中に響き渡った。


* * * * *


 大鍋いっぱいに作ったカレーは底まで綺麗に無くなり、食べ盛りの少年たちのお腹も充分に満たされた模様である。やはりこうして大人数で囲む合宿での食事は格別に美味いものだと、その合宿とて遠い記憶である大人組も大層満足していた。
 暫くはのんびり談笑し、少し落ち着いてから洗い物を済ませた。マネージャー陣とコーチが洗う皿を選手たちがタオルで拭い、それを響木が元々入っていたプラスチックのクリアケースにきっちりとしまい込めば、あれだけ大量にあった洗い物はあっという間に消え去った。
 その後、元祖イナズマイレブンの面々によってメンバーが連れて来られたのは、イナビカリ修練場のとある一室だった。

「うわ、でっかい……」

 入ってすぐ、馨の口から無意識にそんな感想が零れ落ちる。
 室内で待っていたのは、側面に複数のハンドルがついた巨大な機械だった。

「これが、《マジン・ザ・ハンド》の練習用機械なんですか?」
「あぁ、オレたちの手作りさ」

 馨の問いに、備流田は得意げに胸を張って頷いた。
 メンバーの目を引くこの機械は、四十年前に響木の《マジン・ザ・ハンド》特訓のため、他のメンバーの手によって作られたものだ。その結果は既に周知の通りであるが、例え実績は無いにしても、あの技をマスターするために必要な要素はきちんとそこに込められているという。
 ベルトコンベアに印された黒丸を左右の足で順に踏みながら、次々と襲い来る障害物を避けて反対側の端に渡るという、ただ聞くだけならば至極単純な練習方法。ちなみに、機械を動かす主力は六つのハンドルであり、電気は一切使わない完全手動制である。
 これさえあればもしかすると――そんな気持ちが湧いたのだろう、円堂は逸る気持ちを隠しきれない様子で響木に許可を取り、何とも嬉しそうな顔をして早速機械の上に乗り上がった。
 それをサポートするために、率先して手伝いを申し出た六人がそれぞれのハンドルを手に取る。相当古いものなのでかなり錆びていたが、菅田が用意していたオイルを注せばすぐに使えるようになった。

「行くぞ、円堂!」
「おう!」

 一之瀬の掛け声と共にハンドルが回され、軋む音を立てて機械が動き出した。

「もっと低く! 臍に力入れて!」
「はい! ……うおっ……おわっ!」

 最初のうちはなかなか慣れず、半分も進めないうちに障害物に引っ掛かったり転んだりしてしまうなど、特訓はかなり難航していた。その都度響木が指摘を飛ばして円堂は鋭い返事をするものの、頭で解っていても身体がついていかないのだろう、思うように進捗は得られない。

「コンベアの動きより速く、そして障害物を上手く避けて進まないと、向こうまで行き着かないぞ!」
「はい!」
「江波、オマエも見てやってくれ」
「解ってます」

 言われなくとも、馨は先程からじっと円堂の動きを見つめている。
 傍から眺めているだけでも解ることだが、この練習方法は非常に困難だ。ベルトコンベア上の黒丸はしっかり踏まねばならないし、それにばかり気を取られていれば障害物に阻まれ、その両方を上手くこなそうと思うと自然と足取りが遅くなって進まない。
 常に周囲を見ながら複数の動作を同時に行うというそれは、まさにGKにとって必要な要素の詰め合わせ。これは《マジン・ザ・ハンド》のためだけではない、GKの資質そのものを一気に叩き上げるための養成マシーンである。
 なるほど、と馨はそこで一つ納得した。
 円堂はずっと《マジン・ザ・ハンド》は“心臓”がキーだと思い、そこへ繋がるかたちを模索して練習を行ってきたが、それ以前にまず彼のステータス自体が足りていなかった可能性もある。この機械によって彼の身体能力そのものを底上げすれば、そこからまた新しい希望が見えてくるかもしれない。
 馨は、もしものためにと念のため持ってきていたファイルを広げ、ペンを握る。そして、再度スタートを切る円堂のことを一目も漏らさず観察し、浮かんだ単語をどんどんとメモに書き込んでいった。

「頭上から来るものに顔を向けるせいで足元が疎かになってるよ、タイミングと感覚を身体で覚えていかないと」
「はい! ……いてぇっ!」
「……頭上と腰元に同時に来られるのが苦手みたいだな、必ずどちらかに顔が動いて注意が散漫になってる。三秒以上開く時差も捉えきれてない――円堂くん、顔は正面! 視線だけで確認! 下半身に力を込めて姿勢を下げて!」
「は、はいっ!」
「そうだ円堂、もっと尻を落とすんだ!」

 指摘点を書き出し、クリアできたらそれを取り消し線で消す、そうやってメモは徐々に文字で埋め尽くされていく。普段の練習中はわりと早い段階でその工程を終えるのだが、今回はそうもいかなかった。
 円堂は二人からの容赦無いダメ出しを聞き入れ、何とか実際の動きに反映させようと頑張っている。が、それでもなかなか端まで辿り着くには至れず、何度やってもどこかで躓いてしまう。最初こそは覇気に満ちていたその顔付きも、失敗を重ねる度に段々と厳しくなっていった。
 さらに、大変なのは円堂だけではない。ハンドルは大きく重く、齢十四の少年たちにとっては回すだけでもかなりの重労働となる。上で転倒しては乱雑に汗を拭う円堂の一方、下では息を切らしながら腕を動かす六人の姿があった。

「大丈夫か」
「あぁ……」

 鬼道と染岡がそんな会話をしているが、どちらもあまり大丈夫ではなさそうだ。
 と、そこで機械から飛び降りた円堂が皆の様子を確認し、焦ったように言った。

「ちょっと休憩するか?」
「だったら、オレたちが回すでやんす!」
「え?」

 その提案に代わって言い出たのは栗松。
 円堂が目を向けた先では、栗松を始めとした一年生たちが真剣な眼差しで彼のことを見構えていた。

「先輩たちが頑張ってるのに、オレたちだけ休んでるなんてできないっス!」
「オレたちにも手伝わせてください!」

 日中のやる気の無さが嘘のように、今の彼らは円堂をサポートすることに信念を燃やしている。言葉からも伝わる熱い気持ちは、そのままマネージャーや他の部員たちの胸にも確かに広がっていった。

「キャプテン! 私たちも手伝います!」
「ここまで来たら完成させたいもんね!」
「……みんな……」

 最後に、そんな皆の思いは他でもない円堂へと届けられる。
 そこへきて初めて自分が見失っていたものに気付いた彼は、ぐっと拳を握って顔を伏せた。

「……何やってんだ、オレは。こんな仲間がいたのに、《マジン・ザ・ハンド》ができないからって独りで焦って……オレは世界一の大バカ者だ!」
「円堂くん……」

 次に顔を上げたとき、そこには皆が知っているキャプテンの、馨が大好きな円堂の、あの太陽のように眩く真っ直ぐな笑顔があった。もうどこにも、孤独に思い悩む彼の面影は無い。

「頼むぜ、皆! オレ、絶対完成させてみせるから!」
「あぁ!」
「キャプテン!」
「円堂!」

 完全に気持ちを入れ替えた円堂に触発され、あちこちから彼の名を呼ぶ声があがる。ここでやっと、雷門サッカー部は一つのチームになることができたのだ。
 その様子を一歩引いたところから見つめていた馨は、胸にこみ上げる熱量を何とか抑え込みながら、横で同じく腕を組んで見守っている響木を仰ぐ。

「やっと決勝へのスタート地点に立てた、ってところですかね」
「あぁ、長いインターバルだったな」

 ある意味、この合宿の当初の目的もこれで完遂したようなものだが、まだまだ夜は終われない、寧ろここからが本当の始まりである――次なる目的は、まさしく“《マジン・ザ・ハンド》の完成”に定められた。

「コーチ、私たちも何か……」
「じゃあ、戻ってきた子たちのために冷やしタオルを用意してあげてくれないかな。皆、手が真っ赤っかになってるから」

 ハンドルから離れた豪炎寺の手を見つつ、そう音無に指示を出す馨。言いながらファイルを閉じてぐるりと肩を回すと、音無が目を丸くして素っ頓狂な声をあげた。

「えっ、コーチもやるんですか!?」
「当然! 粗方指摘はしたし、あとは円堂くんの感覚任せだからね」

 どこからか「無茶するな」と聞こえた気もしたが、気にせず気合いを入れて染岡と交代した。
 改めて円堂が位置に着き、掛け声と共に六人で一斉にハンドルを動かし始めるが、確かにこれは手も真っ赤になるだろうと納得できるくらいに重たかった。回す腕も痛いうえ、中途半端に中腰になるので意外と腰にもクる。それでも、誰一人音をあげず頑張っているのだからと、馨も歯を食い縛って必死に腕を動かし続けた。
 ――どのくらい時間が経っただろう。
 何度も交代を繰り返して練習していくうちに、円堂の動きもかなり慣れたものになっていった。響木の指示通り腰を落として上手いこと障害物を避けられるようになり、最終的にはクリア条件の対岸まで辿り着くことに成功した。
 が、喜びも束の間、響木は次なるステップと称して皆を隣のコートへ連れて行った。

「江波、今から《イナズマブレイク》を撃つ。その調整をしてくれ」
「《イナズマブレイク》?」

 移動を終えるや否や、そんなことを響木に頼まれた。
 同時に円堂をゴール前に置き、豪炎寺と鬼道をこちらに招集したのを見るに、どうやら今からシュートを用いた本格的な練習をするつもりのようだ。しかも、普段円堂が入る部分はユニフォームに着替えた響木が直々に代役を務めるらしい。だから調整を頼まれたのか、と馨は一つ頷き、動きを観察しやすい位置に身を置いた。

「いいな円堂! さっきの感じを忘れるな!」
「はい!」
「いくぞ!」

 皆が唾を飲んで見守る中、鬼道の合図で豪炎寺、鬼道、響木による《イナズマブレイク》が放たれた。円堂がいるとき程タイミングが合っているわけではないが、単純にキック力が増したことにより相当なパワーを纏ったボールが、一直線にゴールへと向かっていく。
 円堂は先程の練習を思い出しながら《マジン・ザ・ハンド》を発動させようとし、右手を強く突き出した。すると、今までとは明らかに違う力の渦が彼の全身を包み込む。

「やったか?」

 一見成功したかに見えたが――失敗だった。
 覇気を吹き飛ばされ、ボールごとゴールネットに押し込まれた円堂に、高揚した空気がしゅっと収まるのが判った。

「惜しい、もうちょっとだったのによぉ」
「でも、明らかに今までの技とは違う感じがしたよね」

 今日に至るまで行ってきた練習のどれにも感じられなかったエネルギーを今、確かに感じられたのだ。一歩一歩成功に近付いてるようで、まるで自分のことのように胸がどきどきするのを実感した。

「江波、指示を頼む」
「はい」

 円堂の方も大事だが、ここでの馨の仕事は三人のシュートの威力アップである。情けは無用とのことなので、年長者の響木ではなく総合的な能力が最も高い豪炎寺に指標を定めることにし、馨は端的に全員の動きへ修正を加えた。そうしてまた三人はシュートを撃ち、円堂は技の発動を試みた。
 だが、先程感じた成功の兆しは兆しのままでしかなく、一向に成果には繋がらない。
 シュートを撃つ度に馨の調整が入ることで《イナズマブレイク》自体はどんどんと威力が増し、今や完成形とまでなった。そんな強烈なシュートを受ける円堂の方も、徐々に踏ん張る力は強まっているように見える。
 ただ、それだけなのだ。何回同じことを繰り返しても、何故か《マジン・ザ・ハンド》までには届かない。
 もう少しと思える迫力はあるのに、一体何が足りないのか。その足りないものすら解らず、どうしても完成までには至れなかった。

「やっぱりダメか……なぁコーチ、何がいけないんだ?」
「解らない……今のままでも充分できそうなのに、何が足りないんだろう……」

 悔しそうに拳をつくる染岡に訴えかけられるも、馨は顎に指を添えて眉を顰めるばかりだ。それが自分に見えているのなら、こんな苦労などしていない。

「くそっ、何でできないんだ……ッ!」
「監督……」
「何かが欠けている……何かは解らないが、根本的な何かが……」

 円堂は焦るあまり声を荒げ、響木でさえ頭を抱える現状。傍らでじっくりと見ている馨もやはり、円堂に欠けているものが何なのか依然解らなかった。解らないが、絶対に必要な何かが足りないのだと思えるのは何故なのだろう。あともう少し、ほんの僅か一歩であるはずなのに。
 何度シュートを撃っても技はできないし、防ぐこともできない。ずっと同じことの繰り返しでプラスの要素が見出せず、仕方ないとはいえいよいよOBも含めて暗い表情ばかりが並んでいる。
 そこで恐ろしくも出された一つの結論は――この技は円堂大介にしかできない、幻の技ではないのか、と。

「……てことは、いくら特訓しても」
「《マジン・ザ・ハンド》は、完成しない……?」
「じいちゃんにしかできない、幻の必殺技……」

 絶望的なその言葉に、しん、と静まり返るコート。今まさに試合に敗れてしまったかの如き沈痛な空気が、全員の心を昏く苛む。誰も何も言わないが、そこにある考えは恐らく同じなのだろう。《マジン・ザ・ハンド》が完成しなければ、円堂はアフロディのシュートを止められない。それでは世宇子に勝てない、勝てるわけがない……。

「ちょっと、皆どうしたのよ! 負けちゃったみたいな顔して」

 ――そんな空気を打ち破ったのは、鋭い木野の一声だった。

「まだ試合は始まってもいないのよ!?」
「でも、相手のシュートが止められないんじゃ……」
「だったら、点を取れば良いでしょ?」

 その言葉を受け、馨は地面へ向けていた顔を跳ね上げさせた。
 シュートを止められないなら、点を取る――あぁ、どうして自分はそんな簡単な答えに至れなかったのだろうか。思考が凝り固まっていたのは、何も円堂だけではなかったのだ。

「十点取られれば十一点、百点取られれば百一点、そうすれば勝てるじゃない!」

 木野の訴えに賛同し、音無も前へ躍り出る。

「木野先輩の言う通りです、点を取れば良いんですよ!」
「どうして円堂くんがゴールを防げればそれだけで勝てると思ってたんだろうね。こっちが点を取らなきゃ、絶対勝てはしないのに」

 馨もまた言い募れば、部員たちの表情がどんどんとその色を変えていった。
 サッカーとは点を入れられないようにするだけのゲームではない、点を入れなければ引き分けにはできても決して勝利には結びつかないのだ。それなのにGKの円堂に重役を押し付け、彼だけに勝利の可能性を賭けるだなんて、何て愚かな考えだったのだろう。

「十点取られれば十一点……」
「百点取られれば、百一点……」

 土門と一之瀬が反芻すると、ゴール前で膝をついていた円堂が立ち上がる。あの暗く重苦しかった空気が、その言葉によって大きくうねりを見せていた。

「鬼道!」
「あぁ、取ってやろうじゃないか、百一点!」

 ここがある種の機転。チーム全体の過ちに気付いたFWもMFもDFも、円堂を手助けするだけではなく、各々が自分たちのできる精一杯で試合に勝とうと考えるようになれた。これは大きな変化である。チームにとっても、馨にとっても。

「やろうぜ円堂、できるさオレたちなら! 皆で力を合わせれば!」
「皆……」

 風丸を筆頭に新たな気持ちで挑む決意を固めたイレブンが、真っ直ぐ円堂を見つめている。全員を見渡した円堂が最後に目を合わせた馨は、その心中を察するように、ぱちりと一つウインクを返す。瞬間、円堂が奥歯に力を込めたのが判った。

「……よしいくぞ、オレたちの底力見せてやろうぜ!」
「おー!」

 ――戦える、皆と一緒なら。
 このチームなら、どんな相手とだって戦い抜いていける。
 自分の貫く信頼がまさに目に見えるようなその熱気に、馨もまた、自省の意も込めて改めて気合いを入れ直す。

「……よし」
「江波さん、最後まで頑張りましょう、一緒に」

 ふと、隣に並んで握り拳を差し出す鬼道。
 馨はそんな彼に対し湧き上がる様々な感情を、満面の笑みに乗せ、

「うん、一緒に、全力でやりきろう!」

 堅く握った自身の拳を、鬼道のそれに力強くぶつけ合わせた。


* * * * *


 就寝時間は十時と決めていたので、そこからはあまり長時間練習することはできなかった。
 けれど、FWは響木たちと一緒に円堂の特訓も兼ねてシュート練習を行えたし、MFとDFも馨や一部のOBと共に実践的な動きを試すことができた。短時間とはいえ、非常に充実した練習だった言えるだろう。
 今は、学校のシャワーを使って全員が汗を洗い流し、就寝準備と称して体育館でだらだらしている緩い時間帯だ。
 OBは帰ってしまったので少しは静かになるかと思いきや、練習で疲れているにも拘らず、彼らはいつまでもどこまでも元気だった。外にいるというのに、体育館内からの騒ぎ声がよく響いてくるのだ。一体何でそんなに元気が有り余っているのかと、馨はいっそ疑問すら抱く程だった。

「いてて……さっきのハンドルは腰に響いたなぁ」

 ぶつぶつ独り言を漏らしながら、練習後に用いたタオルを洗う馨。水道に水を張って洗剤を投入し、がしがしとひたすら擦るだけの仕事だ。
 ここが帝国学園ならば、洗濯機にタオルと洗剤を入れてボタンを押すだけで全てが完了するところだが、生憎と雷門にはシャワー室はあっても洗濯機は設置されていない。他のマネージャーたちには、体育館で誰かが何か問題を起こさないようにと見張りを頼んでいるので、馨はこうして独り寂しい時間を過ごしている。
 しかし、皆が頑張った分だけ汗は流れ、流れた分だけこのタオルに染み込んでいるのだ。謂わば努力の結果である。それをまた綺麗にして次なる練習で使用するのだと思えば、この単調かつ疲れる作業も何ら苦にはならなかった。

「世宇子っ、にっ、勝つっ、んだっ、もんなっ」

『十点取られれば十一点、百点取られれば百一点』――木野の言った台詞を胸中で繰り返しながらタオルを擦る。取れるのか、などと野暮な問い掛けはしない。
 いつだってそうだった。彼らにとって、試合前の状態や相手との相性など然したる問題ではないのだ。『試合はやってみないと解らない』とは、まさしく雷門サッカー部のためにあるような言葉だとすら思えた。
 燃える心は、ひとまず目の前のタオルの山にぶつけることにする。暫く無言で一心不乱に洗濯していると、ふと、背後に気配を感じて反射的に振り向いた。

「あ、姉ちゃんだったんだ」
「円堂くん、どうしたの?」

 寝巻きで立っていた円堂は「喉が渇いてさ」と言ってへらりと笑い、蛇口の一つを捻って水を出した。

「それ、オレたちが使ったタオルだよな。ありがと、洗ってくれて」
「いいよ、私の仕事だし。明日使える分が無いと困るもんね」
「うん、明日が最後の練習日になるしな」

 蛇口を上に向け、間接的に水を飲む円堂。バンダナを外しているためか、いつもより少し大人びて見えるような気がした。
 馨は一旦手を止めて拭い、円堂が飲み終えたところに自身のハンカチを手渡した。それをお礼と共に受け取った円堂はいつもみたく溌剌としており、それ故にか、次に発せられた言葉もあまり重たいものには感じさせなかった。

「結局、《マジン・ザ・ハンド》は完成しなかったなぁ」
「大丈夫だって、気負わなくて良いから。FWもMFもDFも凄く調子良いし、もしかすると円堂くんの仕事は無いかもしれないよ」
「えぇー!」

 悪戯に歯を見せると、円堂はそれはそれで勘弁してほしいと言わんばかりに不満げな声をあげた。チームが完璧に機能するのは嬉しいが、シュートが皆無というのはGKとしてちょっと複雑な気持ちになるものなのだろう。どんな強力なシュートでもがつんと受け止めたい、そんなGK魂とも言える思いがこの局面でも垣間見えたことに、内心やや驚いた。
 顔を歪めた円堂からハンカチを返され、馨はからからと笑いながら洗濯を再開させる。泡の中に沈んでいく手を眺めながら、円堂は水道の縁に腰を置き、そっと一息吐いた。

「でも、今日で腹括れた気がするよ。あとはもう、やるだけなんだってさ」

 言葉通り、何もかもが吹っ切れたという清々しい声音だった。
 馨は洗濯物から視線は外さず、「そうだね」と答える。

「試合だって何が起こるか解らないしね。難しいこと考えないで、とにかくサッカーを楽しんでやろう! ってくらいの気持ちで挑んでいけば良いんじゃないかな」
「楽しむ、かぁ」

 呟く円堂に、そっと頷く。

「自分たちのサッカーってものを忘れなければ、君たちは必ずすごいことができるんだよ。ずっと見てきた私が言うんだから、絶対に」

 サッカーを、試合を楽しむ――それは世宇子の、影山のサッカーと真逆に位置する感覚だ。だからこそ意味を成すと思っているし、雷門のサッカーを見失わず愚直なまでに貫いている限り、勝利の女神は彼らを決して見放しはしないと確信している。
 最初の、あの帝国との練習試合のときから、ずっと皆を見てきたのだ。馨は自分の言葉に間違いがあるなんて欠片も思いはしなかった。

「影山を打ち負かすことは、もう円堂くんたちにしかできない。……でも私は一番に、皆には満足のいく試合をしてほしいと思ってるよ。晴々しい決勝の舞台で、最高のステージで、思う存分雷門らしい雷門だけのサッカーをやってほしいなって」

 バシャリと水音を立てて泡だらけのタオルを傍らの(たらい)へ放り込み、また次のタオルを泡に突っ込む。そうやって作業の手を止めず、目線一つ寄越さないままで朗々と語る馨の言葉は、きっと円堂にもきちんと芯まで伝わっているはずだと。見なくても、そう肌で感じられた。

「……そうだよな、オレたちはオレたちのサッカーを楽しめばいいんだよな」

 噛み締めるようにそう言った円堂は、それによっていっそう笑みを深めた馨の横顔から、するりと視線を下降させていく。やがてその目が留まったのは二本の足。彼と初めて出会った日、馨が『怪我をしたのでサッカーはできなくなった』と言った、未だ一度もボールを蹴りはしない、その両の足。

「……姉ちゃんは、――」

 ふと何かを言いかけて、しかしそのまま唇を閉ざす円堂。
 馨はそこでやっと顔を上げ、円堂の丸い瞳と視線を合わせた。

「どうした?」

 小首を傾げるも円堂はただ首を振るだけで、結局その先を口にすることはしなかった。

「ううん、何でもない。あ、そうだ、オレも手伝うよ」
「いいよいいよ、もう終わるから。練習で疲れてるだろうし、早く体育館戻って身体を休めてなさい」
「えー、戻るのはやだ」

 何だろう、普段といろんな環境が違うからか、今の円堂は随分と子どもじみて見えた。外見は前髪が下りていて大人っぽいと感じたはずなのに、「やだ」ときっぱり撥ねつけるところにはいつも以上の可愛げがある。家ではわりとこんな調子なのかもなぁ、と思うと、馨は胸に仄かな擽ったさを覚えた。
 円堂は本当に戻るつもりはないらしい。すっかり居座る気になって硬い石材に腰掛けている彼を見て、馨も「しょうがないなぁ」とわざとらしく嘆息し、にっこりと笑った。

「じゃあ、終わるまでちょっと話し相手になってくれない? 独りきりってのも結構寂しかったから」
「いいよ! 何の話する?」
「学校の話を聞かせてよ。休み時間とか何してるのか知りたいなー」
「休み時間は大体他の奴のクラスにお喋りしに行ってるかな。夏期講習のときは鬼道のいるクラスに行って……あ、アイツ夏未と同じクラスに転入したんだよ! そんでさ――」


 やがて洗濯を終えた馨と最後までお喋りしながら付き合ってくれた円堂が戻ると、漸く体育館は就寝ムードに入っていた。まだ寝る場所について議論している者たちもいたが、大体は既に決定しているようである。

「コーチ、こっちこっち!」
「お?」
「違います! コーチはこっちですよ!」

 こっちへ来いと手招く松野を木野が一蹴し、改めて示されたのは彼女と音無に挟まれた一つの布団。男子勢とは少し離れたところに敷かれた四つの布団は、言うなれば“女子の島”だった。
 半田と栗松がジャンケンで場所選びをしているのを尻目に、馨はそそくさと舞台裏に入って寝巻きに着替えた。といっても、普段の部活時の服装と大して変わり映えのしない、シンプルさの増したTシャツとジャージ姿になっただけなのだが。
 そうして欠伸を堪えつつ布団に戻り、どうせ意味など無いと解っていながらも携帯のアラームをセットする。皆を叩き起こす時間を考慮し、一応五時五十分に設定した。それから立ち上がって、男子の布団島へと声を掛ける。

「明日は皆六時起きねー」
「えー、早いっスー! せっかく学校にいるのにー」
「早寝早起きは基本です!」

 文句を垂れる壁山に音無が一喝するのを聞いて、他の文句を言いたげだったメンバーは黙ったままこくこくと頷いた。マネージャーたちは本当に偉いなと思っていると、背後でこっそりと「私も朝は弱いですけど……」なんて呟く音無の声がしたような気がしたが、気のせいだということにしておいた。
 堪えきれなかった欠伸を片手で隠す馨。最後の仕事は、館内の電気を消して皆を完全に寝かせることだ。

「電気消すよー、布団入ってー、雑談したら怒るからねー」

 それだけで眠気が伝わってくるような間伸びた声に何人かが笑う。きちんと全員布団に入ったのを確認するため、馨はそのままぐるりと島を一周することにした。

「円堂くん、にやにやするの止め」
「豪炎寺くんもつられてにやにやしないの」
「鬼道くん、ゴーグル外した方が……まぁ良いならそれで良いけど」
「風丸く……は、偉いね、準備万端か」
「壁山くん何してるの、早く布団入る!」
「影野くんおばけごっこ禁止! 壁山くんが寝れなくなるでしょ!」
「栗松くんも便乗しない」
「半田くん……震えてるけど大丈夫? 笑い我慢してるの?」
「少林くんも偉いね、皆こうだったら良いのに」
「宍戸く……あ、もう寝てるか」
「マックスくん、宍戸くんに悪戯しないの」
「染岡くんは何でそんながっちり目閉じてるの? 起きる気満々なの?」
「目金くんフィギュアしまうー」
「一哉くんお喋りストップ」
「土門くんも、続きは明日ね」
「女の子たちは皆素直で良い子だね。……響木さんと菅田先生、まさかこれから一杯、とか考えてないですよね? 早く布団に入ってください」

「じゃあ消すね。おやすみー」
「おやすみなさーい」

 舞台裏にある電源を落とせば、パチンと音を立てて一瞬にして真っ暗になる体育館。やはり皆疲れてはいたのだろう、暗くなって以降は誰一人喋らないうえ、中には早速寝息を立てている子もいる。
 月明かりを頼りに自分の布団へ潜り込んだ馨も例には漏れず、目を閉じた数秒後には、完全に夢の世界へと旅立っていた。
 ――こうして、雷門サッカー部初めての合宿の夜は、静かに終わりを告げるのだった。


* * * * *


 翌朝、馨は相変わらずアラームを無意味と化す午前五時半には起床を済ませていた。
 普段と違う、開眼一番に体育館の天井を拝んでの目覚めというものは存外気分が良いものだったが、如何せんフロアに直接敷布団を敷いての就寝だったので若干背中が痛い。軽く身体を捻ってパキポキと切ない音を鳴らしてから、馨は手早く服を着替え、顔を洗うためにとまだ誰も起きていない静まり返った体育館を出た。
 柔らかな朝焼けに照らされて草木には朝露が煌めく、何とも爽やかな雷門中学校の早朝。その空気を満喫しながらさっぱりと顔を洗い終えたところで、体育館からマネージャーたちがそろりそろりと出てきた。

「おはようございます、コーチ」
「早いですねー」
「おはよう、三人ともまだ眠そうだねぇ」

 木野、音無、それに夏未も、まだどこか眠たげな様子で目を擦っていたが、馨に倣って顔を洗ってきた頃にはすっかりいつもの三人に切り替わっていた。
 張り切る音無曰く、これから朝食を作るとのことだ。響木や菅田も既に起きているので、火の使用に関しては問題無い。ついでとばかりにメニューを訊くと、白ご飯にベーコン付きの目玉焼き、野菜たっぷりコンソメスープ、サラダ、オレンジ――とても合宿の朝とは思えない内容である。どうも、夏未が家伝いに用意してくれた食材を使うことにしたらしい。

「朝ごはんは私たちに任せてください! 美味しく作りますので!」
「じゃあお任せするね。私は皆を起こしてくるから」
「はい、お願いします」

 意気込むマネージャーたちに食卓を任せ、馨は時計を確認してから再び体育館へと舞い戻った。
 できるだけ音を立てないようにドアを開けると、依然として皆の寝息しか聴こえない静寂の空間が出迎える。既に起きて身なりを整えていた大人たちに無言でアイコンタクトを送れば、彼らも黙って頷いた後にこっそりと外へ出て行った。
 足音に気を付けて部員たちの眠る場所へ近付く。ほんのりとした朝の光に照らし出されながらもすやすやと眠り続ける彼らの表情はとても安らかだ。数人はやや寝相が悪く、隣にいる誰かしらに乗っかっていたり布団を大幅に離れていたりしているが、皆寝顔は気持ち良さそうである。良い夢でも見ているのだろうか。もしかすると、夢の中では世宇子を倒して大会優勝なんてしているかもしれない。想像して、独り小さく微笑んだ。
 こんなに気持ち良く寝ているところ、できれば邪魔なんてしたくないけれど――腕時計を見下ろした馨は心を鬼にし、まずは一度深呼吸。
 そして、ポケットから取り出した愛用のホイッスルを唇に添え、息を大きく吸い込んで――。

 ――ピーッ!!

「うわああっ!」
「なっ! なんだなんだ!」

 盛大なホイッスルの音が体育館に大きく響き渡り、哀れ、夢から強制的に叩き出された少年たちは跳ねんばかりの勢いで一斉に飛び起きた。

「何だ今の音!」
「びびび、びっくりしたー」
「おはようございます! 朝ですよー!」

 相当驚いている彼らに大声と笑顔でそう呼びかけると、おっかなびっくりで目を白黒させていた者たちも、やっと何が起きたかを把握したようだ。ある者は笑いながら朝の挨拶をし、ある者は胸を撫で下ろし、ある者は盛大な溜め息を吐き、ある者は憤慨しながら、それぞれ仁王立ちしている馨を見つめている。

「おはよ、目ェ覚めた?」
「な、なんだコーチか……おはようございます……」
「もー! もっと優しく起こしてよー!」

「横に添い寝して耳元で囁きながら起こして!」とやけに具体的な要求をしている松野をさらりと躱し、馨は布団の間を踏み抜きながら、これだけ騒いでも未だに起きない染岡のもとへ歩を進めた。

「染岡くーん、朝ですよー、ほら起きろー」

 すぐ傍へしゃがみ込み、ペシペシと軽く頬を撫でながら再三「起きろ」と繰り返すも、一応眠りから覚めたらしい染岡は低く唸るだけで目を開けようとしない。「あと五分……」という定番な台詞と共にもう一度夢の世界へ潜っていこうとする彼の頬を、馨はもう少しだけ強い力で叩き、そのうちぐにっと摘まんでもみた。引っ張ると、これが意外とよく伸びた。

「染岡くーん、おーい、起きなさいー、朝だぞー、美味しい朝ごはんも待ってるぞー」
「オレ、ホイッスルで叩き起こされるくらいならああいうやり方の方が良かったなぁ」
「何を言ってるんだ」

 向かいでそんなやり取りをする風丸と鬼道。
 それを聞いていたらしい松野が「その手があったか!」という言葉と共に布団へ潜り込み、さらにそれを見た一之瀬もまた面白そうだと笑って同じことをしたため、彼と隣同士である土門が「やめとけ!」と幼馴染の愚行を止めようとしている。
 その一方、染岡はまだ起きずに布団へ包まってしまったし、溜め息混じりに立ち上がった馨の目にはさらに増えた布団虫が映り込む。
 あれ、おかしいな、さっきまでは染岡以外全員起きていたはずなのに。
 ただ起こすだけのことすらままならないメンバーを前にして馨は腕を組み、そうかそうかと二度三度頷いた。

「よーし解った」

 そうやって甘く優しく起こしてほしいなら、彼女でもつくってお願いをすれば良いのだ――コーチはそこまで、優しくない。

「今現在布団に入ってる奴は今日の午前中でトラック二百周走ってもらうね、はい決定、コーチ権限で今決定しました」
「わー! ちょっと待って!」
「起きる起きる!」
「ごめんなさい起きてるからボク!」
「……まったく」

 慌てて布団から這い出る三人に、傍観者たちも何をやっているんだという渇いた笑みを漏らす。
 起床までもがこんなに賑やかになるとは思わず、馨もついつい呆れ笑いを浮かべてしまうのだった。


 実質合宿二日目であるこの日は決勝戦前日ということもあり、練習自体は午前中でおしまいとなった。
 短い練習時間の内にも円堂は何とか《マジン・ザ・ハンド》を習得しようと励んでいたが、結果的には変化は無く、最後まで何も得られはしなかった。それでもチーム全体のモチベーションに影響は無かったので、あとはやるだけなんだと、皆一様に決心を固めているのだということが窺える。円堂自身にも、昨日まであったあの焦燥感は見えない。とにかく明日、全力を以て世宇子を倒すのだという、そんな揺るぎない思いだけが彼の中には渦巻いているように感じられた。

 夕焼けよりも穏やかな午後の日差しに包まれた、閑静な住宅街。
 子どもの声も生活音も何も聞こえない路地を進んでいた馨は、あるところでふと足を止め、ささやかな溜め息を吐いた。

「趣味が悪い」
「おや、気付いていたんですね」

 いつからつけていたのかは知らない、ただ学校を出て間も無く、気配を感じた。
 誰もいないはずだった空間から返ってきた応えと共に、眩い輝きが瞬間的に世界を支配する。心を静めて振り返った先では、先日見た姿ままのアフロディが優雅に微笑んでいた。

「何の用? 偵察……ではないだろうし、また笑いに来たの?」
「別に、特に意味はありません。まぁ、貴女がまだ彼らを止めようとしないことには正直驚きましたけれどね」

「忠告したのに」と言う様は、発言内容とは裏腹にどこか愉しそうだった。ゲームを傍観しているような、結末の解り切った物語の過程を楽しむような、そんな軽やかな口振り。
 美しい眩さから目を逸すことなく、馨は表情を崩さない。今ここで誰に何を言われようが、もう動くものは無いし、変わるものも無いのだ。目の前で依然笑っているアフロディに向ける眼差しに込められるのは、彼と彼のチームに対する微かな哀れみだけだった。

「……あの人から与えられるものを過信しない方が良いよ。それを自分のものだと思うのなら間違いだし、あの人はどのみち、君たちのことをただの使い捨ての駒としか思っていない」

「私のように」――静かにそう語れば、彼の顔から笑顔が消える。男とは思えぬ大きな瞳に、僅かな苛立ちが宿ったように思えた。

「ふん……私は貴女とは違う、私は貴女より強い。そうやって皮肉を言っていられるのも今のうちですよ。明日、貴女はこの上ない程後悔することになる」
「人のことより、自分のことを心配すべきだと思うよ」
「……総帥に間違いなど無い。私は、総帥のことを心から信頼している」

 最後は吐き捨てるようにしてそう言い、アフロディは真白い光に巻かれて姿を消した。後には何も残らない。今のは全て白昼夢か夕日の見せた幻、そう思い込んでしまえる程度には、現実味の無い時間だった。

「……総帥、か」

 心から心酔しきった真紅の双眸。力を持っていることへの過ぎた自信と確信。与えられたものに一抹も疑問を抱かない完璧な信頼。
 ――いつかの自分を見ているようだと、そう思わざるを得ないことが、ただただ悲しかった。




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