ごぼり、と嫌な音が体内に響く。
森蘭丸はボロボロの左手で左脇腹を押さえた。そこからはとめどなく血が溢れ出てきている。道すがら一部も落とした可能性もあるが、それどころではない。白袈裟が真っ赤に染まるその姿は見るものによっては鬼にも見えたかもしれない。森蘭丸は構わず足を引きずり歯を食いしばり、歩を進める。
「、、ぶ、ぁが、コヒュ、さ、ま、ヒュッ、」
どこかからか、空気の漏れる音がする。空気を吸っても吸っても、どこかからかとめどなく溢れる。もう、近い。死期が。その前に、その前に。私の愛する、命を捧げる主君の元へ。ぼたぼたと、流れるとは言い難い量の赤が塊のように落ちる。愛する主君から授かった不動行光は折れてしまい刀身の半分もない。森蘭丸は燃え盛る本能寺へ足を踏み入れる。熱さなどとうに感じない。痛みもない。ただ視界は赤しかなかった。自身の体内の音しか響いてこない。
足の先は焼けた。纏う白装束…いや、「赤」装束も焦げ落ちていく。雪のような真っ白な肌に生える赤が一瞬で赤黒くなり煙を燻らせる。脂の焼ける匂いなども、何も、感じない。閂でせき止められていたであろう既に焼け落ちた戸に体当たりをするように転がり込む。
「…ヒュ、のぶ、な、さ、ぁ」
腕に、脇腹に、銃痕が残る我が主君は扇子を片手に息絶えていた。その顔は悲観するものではなく、蘭丸が愛してやまない未来を、先を見据えた立派なものだった。瞳自体に光は無いものの、ごうごうと焼ける部屋の明かりを映したそれは死して尚立派なものである。
ああ、この人は、最後まで、最後まで織田信長であった。森蘭丸は嬉しさと虚無感に涙を流す。最後まで織田信長であった愛する主君の為に、自身も最後まで森蘭丸として息絶える。自分は、最後まで、この方に忠誠を誓い、なおかつ命を捧げた事を誇りに思っている。だからこそ、自分の墓はここだと思った。主君の隣に眠るなど不敬にも程があるが、あの方なら笑って、「許す」と一言言ってくれるだろう。自分に殿を任せた時の信長様の声が頭にこだまする。
「蘭、先に行っているぞ」
ああ、ああ、信長様。蘭もすぐにそちらに行きます。地獄の底だろうが、閻魔の御前だろうが関係ない。自分がこうべを垂れるのはこの方のみ。信長様が閻魔を斬るなら私もそれに従おう。一生、御傍に。
織田信長の背後に立て掛けてある短刀に、森蘭丸は手を伸ばす。自身の不動行光では首を*き切るのはもう出来まい。刀掛けが森蘭丸の手の重みで転がり、掛かっていた短刀が森蘭丸の眼前まで転がってきた。そこで初めて森蘭丸は皮肉げに笑った。
「ゃげ、コヒュ、と、しろ、」
そう、あの、薬研通だった。室町幕府管領の腹を貫かなかった、あの。
「ごめんなさい、薬研通。君の信念を私の我侭で捻じ曲げてしまう事を許してくれないか。私は、少しでも早く主君の御前に参上仕りたいんだ。わかってくれるかい」
そう、言葉を紡ぎたかった。だが実際に漏れ出たのは苦しそうな息のみ。だが、伝わったのか、薬研通はその刃にごうごうと燃え盛る炎をよく映し出していた。ごめんなさい、薬研通。
「信長様、蘭も、そちらに」
ちゃき、と小気味好い音を立て、森蘭丸は薬研通の鞘を抜く。それを己の喉に、
「……っ!!!」
「……どうか、しましたか?」
「ああ、すまない五虎退、起こしたか。何、夢見が悪かっただけだ」
「……そう、ですか」
少しだけ困ったように眉を下げた五虎退だったが、そのまますぐに寝入ってしまった。そんな五虎退の目尻には少しの濡れ跡。そして赤みを帯びていた。それだけで、五虎退の眠りが浅かった理由がわかってしまう。薬研は己の額にじんわりと浮かんだ冷や汗を拭い、反対の手で五虎退の目尻を優しく撫でた。くすぐったそうに身動ぐその姿に、少しだけ、安堵の息を漏らした。
薬研通…基、薬研藤四郎は時の政府が立ち上げた、対歴史修正遡行軍の刀剣男士としてこの本丸へと呼び出されていた。審神者と呼ばれる、付喪神を顕現させる力をもつ者に呼び出され、過去を変えんとする歴史修正主義者と相対していた。過去を変える事がどれほど恐ろしい事か。それを、自分を顕現させた審神者は説いた。ひとつ、変わるだけで、もしかしたら国一つ無くなるかもしれない。ふたつ変われば緑がなくなるかもしれない。みっつ変われば海が干上がるかもしれない。よっつ変われば生命がなくなるかもしれない。いつつ変われば、この地球は、無くなるかもしれない。ああ、この人も、護りたいものがあるのか。真剣な眼差しを浴びた薬研は、ふ、と笑みを浮かべた。
「改めて、薬研藤四郎だ。名前はこうだが兄弟たちと違って、俺は戦場育ちでな。雅なことはよくわからんが、戦場じゃ頼りにしてくれていいぜ。ま、なかよくやろうや大将」
「……ありがとう、薬研藤四郎」
彼女は、例えるなら一つの大輪の花だった。
この本丸へ顕現した短刀は皆彼女に懐いた。それを筆頭に、打刀も、太刀も、皆が皆、彼女を主と呼び彼女を好いた。彼女はひたむきだった。ただただ真っ直ぐに、過去を守ろうと、それに繋がる未来を護ろうと奮闘していた。夜遅くまで兵法の書を読み漁り学び、霊力の使い方を鍛え、万事に備えて本丸を運用し、備蓄も万全な体勢であった。
演練の場へ赴けば、誰もが羨む本丸だった。大分初期に鍛刀された薬研藤四郎は一軍入りを果たしており、練度も段違いに高いものであった為、主の為に腕を振るえる事に大層喜びで溢れているのを、いつも主の働きに感激に溺れるへし切長谷部をなだめながらも感じていた。燭台切光忠もまるで家族を見るような目でいたし、初期刀である山姥切国広は口では写だのなんだの言っているが、主にとても頼りにされている事を誇りに思っているようであった。とても、とても幸せな場所だった。
「山姥切国広と、薬研藤四郎をここへ」
その幸せな生活が、五年、続いた、ある日。そう、それは、とても唐突にやってきた。
「主、呼んだか」
「たーいしょ。何だ、戦か?」
「……そこに座りなさい、二人とも。………新しい主の、御前ですよ」
主は、上座に座っていなかった。
上座には、見知らぬ女が気味の悪い笑みを浮かべ、座っていた。
「……大将、笑えねえ冗談は冗談なんて呼べねえぞ」
「……ああ、笑えない冗談だ」
「冗談ではありませんよ、山姥切国広、薬研藤四郎」
高圧的な声色で言い放たれた言葉に、上座に……いつも主が座る群青色の座布団の上に鎮座している女に鋭い視線を向けた。
「なああんた、そこ、うちの大将の座敷だぜ?不敬だぞ」
「やめなさい、薬研」
「……大将?」
「……決まった、事です」
「主、やめろ、何故だ…?俺が、俺が写しだから…?俺が悪いのか…?役に立たないか、」
「黙りなさい!!山姥切国広!!!」
びり、と。主の霊圧で部屋が揺れた。
それに山姥切も薬研も、ぐっと唇を噛みしめる。上座の女は主の霊圧に驚いたように目を見開いたが、すぐに狐のように目を弧の形に歪める。
「往生際が悪いですね?これは政府からの指示です。政府に従わないと、どうなるかわかっていらっしゃいますね?刀剣男士様」
「……初期刀であり、一軍の隊長である山姥切国広は新しい主の近侍に。その補佐に薬研藤四郎、あなたを任命します。新しい主を、よろしく頼みますよ。いいですか、これが、最後の、っ、」
最後に言い淀んだ主に縋るような眼差しを向けていたに違いない。山姥切も、自分も。やはりここは私の本丸だから、お引き取りくださいと、いつもの凜とした態度で言い放つと、そう期待していたに違いない。だが、それとは相反して主は震える唇で言葉を小さく紡いだ。
「これが、最後の、主命です」
この女…新しい審神者は時の政府のお上の娘らしかった。霊力も審神者の中でもトップクラスを誇っており、次から次へと潤沢にその身から霊力が溢れていた。ただ、少し要領が悪いようで、その半分しか上手く扱えないものだから、主よりも刀剣の鍛刀が下手くそだった。また、おつむも主より弱いようで、兵法のへの字もわからず、ただただ練度の高い刀剣を出陣させたりしているのみで、刀剣頼りであった。しかもこの審神者、刀剣男士の中でも随一の美麗さを誇る三日月宗近が目当てだったようなのだが、この本丸には三日月宗近は顕現していなかった。
「何よ。実績がトップクラスだったから期待していたのに。満足にレア度が高い刀剣がいないじゃない…これじゃあ…」
審神者の部屋へ近侍として赴いた山姥切が耳にした言葉だった。ああ、この女は、護りたいものがあるわけではないのか。自身が刀としていた時代にも収集癖のある高官はわんさかいたものだ。ただただ飾られるのみで、ただただ眺められるのみ。退屈で、何のために鍛刀されたのかわかったものじゃない。中には眺められるのみで可愛がられさえしたら問題のない刀もあったようだが、今のところこの本丸にそれを望んでいる刀剣男士はいなかった。だからこそ、不満は溜まっていくのみだった。
「や、やだ!!やめてよ!!僕のだよ!!」
「乱藤四郎。あなたは曲がりなりにも刀剣"男士"です。こんな女のような格好で戦場へ赴くんじゃありません!」
そんな時だった。発端は乱藤四郎が自身の給金で密かに集めていた女物の着物、浴衣、簪を審神者に見つかってしまった時であった。主は微笑ましく、可愛いねと喜んでくれたが、何故かこの審神者はそれに激昂した。普段からスカートを履いて戦場を駆けていた乱にいい目をしていなかった審神者であったが、それが見つかった事によってタガが外れたように乱を叱りつけていた。また、主がもともと保っていた戦績もガクンと下げてしまった事からストレスも異常に感じていたのかもしれない。
「主は、主は可愛いって褒めてくれたもん…!」
「っ!!!今の主はわたくしでしょう!?!?従いなさい、主命です!!!」
「嫌だ!!!ボクの主は、主だけだよ!!お前なんか主じゃないもん!!」
この言葉がいけなかった。また、彼の、彼らの保護者のような役目である一期一振、薬研藤四郎、また薙刀や大太刀は遠征。山姥切国広や他の脇差、打刀、太刀は大阪へ出陣していた。本丸には奇しくも短刀しか在していなかった。誰も、止められる者がいなかった。
戦場から帰りついた山姥切国広、他刀剣達は本丸に踏み入った瞬間言葉を失った。
廊下には細かな折れた刀剣の欠片が散りばめられていた。キラキラと輝くそれ達は、玄関から、審神者の部屋の方向まで、とめどなく続いていた。呆気にとられる打刀や太刀を置いて、山姥切国広は足裏に感じる痛みを無視して輝く道を走り出した。皮肉なもので、縁側に差し掛かる所で審神者部屋まで続く道はこれでもかという程輝いていた。何も知らないものからしたら、感動し、綺麗だと正の感情しか抱かないかもしれない。だが、自分達刀剣男士にとってその光景は負の感情しか抱けなかった。そして何故か、足裏が痛いのは自分だと言うのに、破片を踏みしめるたびに、活発な、あの明るい声の彼が断末魔の叫びをあげているように感じて胸が軋んだ。もう、誰が折られたかわかってしまった。
「っ、主!!」
「おや、山姥切ですか。お疲れ様です。軽傷で済んだのですね。手入れ部屋にはまだ行かずともよいと見受けます」
「違う主!!これは、これはどういう事だ!!」
審神者部屋の前にも満遍なく敷かれているそれを目にし、審神者は赤く綺麗に紅をさした唇を歪め、純粋な笑みを浮かべた。そして、首を傾げる。その姿に山姥切はゾッとし、ずり、と一歩後ずさった。そんな山姥切の様子に気付かず、そして悪びれもなく、審神者は言葉を紡いだ。
「謀反、という言葉はご存知よね?私を主でないとのたまった刀を謀反刀として折ったまでの事です。謀反刀は還さなければなりませんよね?」
「短刀一振りではこの量は、……まさ、か、わざわざ、鍛刀して、まで、気が、済む、まで、!?」
思わず審神者部屋の前でがくりと膝をついてしまった。ざり、と膝にも残骸が食い込む。山姥切の言葉に審神者は是も非も答えず、ただにったりと笑っているのみであった。そんな審神者の手の平は、細かい刀傷や水膨れが幾重にも、幾重にも重なっていたのを山姥切は見逃していなかった。
その光景を見聞し、乱の断末魔の叫びを実際に耳にしていたのは残っていた短刀達であった。その後遠征から帰りついた薬研藤四郎と一期一振、また他刀剣達は本丸の様子に愕然とした。山姥切や他刀剣達はひたすら短刀達をなだめていたが、皆一様に顔を青ざめさせ、がくがくと震えていた。薬研藤四郎は隅に集められた刀剣の残骸を眺め呆気に取られ、一期一振はその時の乱の気持ちを考え嗚咽を漏らし、嘔吐した。ギリギリと歯を食いしばった際に口の端が切れた一期一振は何かを決意したように立ち上がり、踵を返したが、それを燭台切光忠は必死に掴んで止めた。
「離して、離してください!これでは、これではあまりにも!!」
「……壊れてる」
「……え、?」
「あの人…主は、壊れてるよ、もう」
燭台切光忠の左目には光は宿っていなかった。何か恐ろしいものでも見たかのような振る舞い、そして言動に、一期一振の背筋に悪寒のような冷気が走った気がした。
「僕、見たんだ。主の部屋の前の、乱君の欠片を、集めてる時に、襖が少し開いてた。……主、両の手で顔を覆ってて、肩を震わせてて……あれは笑ってたよ。この惨劇を、面白がっていた。だから、駄目だ。何が火種になるかわからないよ」
シン、と、室内が静まり返った。
そして次の瞬間には、ゴン、と鈍い音が響く。その音の主……握り拳を柱に叩きつけた大倶利伽羅は、不愉快そうに眉根を寄せると大股で室内から出て行ってしまった。そのまま足音が遠ざかっていく。燭台切光忠は、小声で彼の名を口にしたが、それが彼に届く事はなかった。
「主の逆鱗に触れては駄目だ。この本丸の、主の霊力をもって形を保てる僕らには、……主に従う他、ないと思う」
「それでは、あんまりではないですか…!何故、何故…!!」
乱は折られなければいけなかったんですか…!!
悲痛な一期一振の言葉に皆が皆、下を向いてしまった。あの岩融でさえ、寝込む今剣のとなりで静かに鎮座し今剣の寝顔をジッと眺めている。
「………俺は、俺は主の下へ行く」
「長谷部くん!?」
そんな中、静かに立ち上がった長谷部は眉間にこれでもかと深い皺を寄せていた。その表情に燭台切はグッと息を飲む。
「何が何であれ…今の、主は、あの方だ。乱が、言ったんだろう、お前は主でない、と。……謀反刀として見なされても、しょうがない話だ」
「おい長谷部!!黙って聞いてりゃその言い方はねえんじゃねえのか!?」
「兼さん!落ち着いて!」
「落ち着いていられるかよ国広!!仲間が折られたんだぞ!?無理矢理!!それをしょうがないなんてお前には感情がねえのか!?流石あの魔王織田信長の手に渡った刀だな!?あぁ!?」
「っ、」
「兼さん!!!」
「っ、わ、悪りぃ、言いすぎた」
「………いや、いい。俺は行くぞ」
ぽつりと言った長谷部は、これまた静かに部屋を去っていった。取り残された部屋はまた静寂に包まれる。
「……長谷部の、言う通りだ。あの人は、新しい、俺達の主だ」
「……ちっ、山姥切まで、」
「俺は!!主から、最後の主命を賜ったんだ!!」
「っ!!!」
その言葉に薬研の肩も跳ね上がった。あの悲痛な面持ちの主の姿。言葉。声色。全てが蘇る。それを汲み取ったのか、和泉守もグッと押し黙ってしまう。
「俺は…最後まで…"主"の命を守っていく」
その後まもなく。これ以上この本丸にて審神者として働けないであろうとこんのすけに判断された女審神者は、政府の役人に丁重に引き取られていく事になる。その時にはもう女審神者の精神は衰弱仕切っており、碌に本丸を運営していなかった。そんな本丸は瘴気に溢れ、とても付喪神が住む館には見えやしなかったと時の政府は記している。それにあてられた刀剣男士達もまた、かつての生気はなく、ただただ、そこに在るだけの存在になろうとしていた。これではいけない。曲がりなりにも"神様"である彼らがどのような存在に昇華されるのかはデータがなく、焦った時の政府は、浄化の力に特化した霊力を持つ者を探した。そこで適性が認められたのは、齢27にならんとする、2017年に生きる一般男性であった。
「貴方がみょうじなまえさん、ですね?」
「え、あ、はぁ…?」
薬研藤四郎が回想に耽りながら憂いを帯びた表情で五虎退の目尻を優しくなぞっているその時に、その男は、目をぱちくりと大きく瞬かせていた。その姿は、薬研藤四郎が刀として焼かれる最後に喉を貫いた男にそっくりであった。
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