episode 100
残された時間
人肌の様な、温かい何かに包まれる感覚が続いている。嗅ぎ慣れた様な匂いが鼻腔を擽り、それが酷く心地良い。ゆっくりと瞼を上げれば、視界には未だに暗い、どんよりとした空が広がっていた。雨は止んでいる。視線を僅かに下に向ければ、自身の身体にはファイのトレンチコートが掛けられていた。昨夜のファイとの意味深な会話の後、どうやら自分は寝てしまったらしい。温もりが恋しい、なんて気持ち悪いかな。
「おはよう。黒鋼」
「おう」
「小狼君、まだ起きない?」
「ああ。爆睡だな」
「疲れてたのかなあ……」
背伸びをして頭を覚醒させてからファイのトレンチコートを綺麗に畳み、古びたベッドに置く。それと同じタイミングで部屋に黒鋼が戻って来た。レイノが挨拶をすれば黒鋼は無愛想ながらにも返してくれる。昨夜の様子が嘘の様だ。小狼の隣にしゃがみ込んだ彼女は、小狼の頬を指先で押したり引っ張ったりと遊んでいる。こんな事をされても一向に起きる気配がない小狼はよほど疲れが溜まっていたのだろう。
「……おい」
「ん、何?」
「お前、昨日…っ」
しばらくの間、楽しそうに小狼の頬で遊ぶレイノを見つめていた黒鋼は低い声でそんな彼女を呼び留めた。それを何の疑問も抱かずに笑みを浮かべて振り返る彼女は色んな意味で純粋で、今から聞こうとしている事に罪悪感を感じる。しかし、その問い掛けが彼女の身に降りかかる事は無かった。その理由は、寝ている筈の小狼が黒鋼の腕を掴み、黒鋼の動きを止めたからである。
「…小僧、じゃ、ねぇな。前の国で、本を手に入れた時現れた奴か」
「…どう言うこと?」
「……誰だ?」
『ずっと待ってた…小狼』
焦点の定まらない瞳で、小狼は一言呟いた。何時もよりもワントーン低いその声は背筋をぶるり、と震わせるそれで、意図の分からぬ言葉にレイノと黒鋼は目を見開く。力が抜けた様にゆっくりと立ち上がった小狼だったが、黒鋼の腕を掴む手の力だけは一向に弱まる事を知らない。それは黒鋼が小狼の腕を掴んでも同じ事だった。そんな所に現れたのは何時もの笑顔を浮かべながら、衣服を運んで来たファイだ。
「レイノちゃんと小狼君とサクラちゃん、起きたー?」
「ファイさ…」
「…小狼…君?」
優しげな笑みを浮かべていたファイも冷たい瞳を持った小狼を見てしまえばその笑みも消えてしまうと言う訳で、その瞬間、室内には言葉にしづらい微妙な空気が流れていた。誰も言葉を発しない。否、発したくはない。発してしまえば、現実を直面する事になる。それを別の形で実行した黒鋼は小狼の腕を掴んでいる手に力を込めた。すると、痛覚は残っていたのか、小狼は顔を歪めさせる。そのお陰で目が覚めた小狼は不意に周りを見渡した。そこには怪訝な顔付きの仲間が居たのである。しかしそれは一瞬の事で、再びファイは何時もの笑みを浮かべたのだ。
「おはよー。暗いけど朝だよー。熱は出なかったみたいだけど、どう?具合はー」
「あ、はい。大丈夫です」
「これ、ここの人達が貸してくれたんだー。ここの国の服だねえ。でね、ここにいるつもりなら、これ被ってやって欲しいことがあるんだってー。ちょっと大変そうだから小狼君は休んでて…」
「いえ、行きます。羽根のことが何か分かるかもしれないし」
「無理しないようにっていっても聞かないよねぇ。小狼君は」
「何をすればいいんでしょうか?」
「後で説明するよ。まずはお着替えをどうぞー」
「ゆっくりして良いですからね」
ファイが見せたのは何度も使い回された様なところどころに傷があるマントとボトム、そして、黒のタートルネックである。それらを見せられた小狼はファイの言葉を遮ると、ファイに先程の衣服らを貰う事になった。そして、レイノに見送られて着替えに行く。その時の歩き方はどう見ても違和感があり、未だに傷口が痛むと言う事を証明していた。その後、小狼が居なくなった室内には再び緊張感のある空気が流れ始める。
「…あれ、小狼君…」
「じゃねぇな」
「初めてではないん、だよね?」
「ああ。前にもあった」
「本人、自覚はないみたいだね。なんだか…凍ったみたいな目だった」
確信めいた様に呟きながら、黒鋼は視線を逸らした。先程の小狼はレイノとファイにとっては初めて見る様子で、しかし、黒鋼にとってはそうではない。旅の序盤では見る事がなかったそれが最近になって頻繁に見かける事になっている。それが何を表しているのか、それが分かっている様な言葉はファイが一番近いのではないのだろうか。あまり見せる事がない怪訝な表情を浮かべていたが、後ろを振り向いたファイはあまりににこやかな笑顔を黒鋼に向けたのだ。
「怪我してるのに大丈夫かな」
「はい」
「ここに留まるなら働いてもらわないと。食料も何もかも足りているものなんてないんですから」
今日の東京の天気は生憎朝から雨である。しかも普通のそれではない、触れれば爛れるそれだ。その中をレイノとファイとモコナ、そして、小狼はモーターバイクに乗りながら移動して行く。頭にはきちんとフードが被さっていた。車とは少し違う乗り物に、ファイは酷く喜んでいた。子供か。
「しかし、あっちのでかいほうが来ると思ったんだがな」
「すっごい行きたそうにしてましたけどねー」
「それに、お嬢さんが来るとは思ってなかったよ」
「レイノちゃんもなかなか血の気が多いからねえ」
「多くないです」
「えへへー。まあ、オレがお願いしたんですー。サクラちゃん、まだ目を覚まさないしオレとレイノちゃんと小狼君で行きたいですーって」
『黒鋼お留守番ー』
「「『ねー』」」
瓦礫の間をモーターバイクで移動して行く感覚は、ピッフル国でのドラゴンフライに良く似ている。雨さえなければフードを取って前方から吹く風を楽しめるのに。そんな事を思っていると、ふと遊人と目線が合う。レイノは彼の優しげで、でも、何処か射抜く様なそんな視線が苦手だった。そんな事を考えているとは露知らず、ファイは彼女に向かって、一言呟いた。今から戦場に行くと言うのに緊張感のない会話である。黒鋼が居なければこんなにも緩くなってしまうのか。その事に苦笑した彼女は、笑顔を浮かべるファイに対して目を細めて返事をしたのである。
「…あの野郎共」
危険な雨が降り注ぐ中、都庁は何かに阻まれた様にそれらを受け付けない。そんな中で待機を余儀なくされた黒鋼は退屈そうに顔を歪めていた。背後のベッドには未だに眠り続けるサクラが居る。その彼女が僅かに眉を顰めた事に気付く者は誰も居ない。殺気も物音も発さない彼女の様子には、忍である彼も気付かないのだ。だからもちろん、サクラの意識がこことは別の、水の中にある事も、不貞腐れた彼には分からないのである。
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