episode 101
引き寄せられる
ふわりふわりと、漂っている。水中特有の煌めきが、そこにはある。規則正しい呼吸をすれば、ゴボゴボと、水面に向かって泡が巻き上がって行った。確かにここは水の中である。しかし、「水」と表現するには冷たさが足りず、また、息苦しさが足りないのだ。それの理由は分からない。そんな時に目に入ったのは、とある光だ。軽く足を動かしてそちらへ近付いてみると、そこには水底に植え付けられている繭の様な物があった。その中にはどうやら正体不明の生命体が存在する様である。
『…君は…?』
(…さくら)
『ここにいちゃ駄目だよ』
(ここは…どこ?)
『水の底』
(貴方はどうしてここにいるの?)
『眠ってるんだ』
(ここで?)
『ここで』
繭の中から響いて来た透明感のある声は悟りを開く様な、そんなそれだった。それに答えるサクラは何処か遠くを見ている様に朧気で、何時もと少し様子が違っている様だ。水中に居るにも関わらず話せていると言う事実を疑問に思う事すらない様である。そんな彼女は、ただただ目の前の繭に視線を向けていた。
『君は起きないと』
(わたし、眠ってるの?)
『そうだよ。目を覚まして』
(貴方は?)
起きる事を促されるサクラは繭から視線を逸らさずにそれに手を翳しながら問いを投げ掛けた。自分が眠っている事すら分からない。けれど、目の前の正体不明の生命体はその事を知っている。この矛盾に進言する事は、今の彼女には不可能に近かった。そんな彼女が最後に投げ掛けた問いに、目の前の生命体は無言を貫く。そして、再び言葉を紡いだのだ。
『目を覚まして。夢に囚われる前に』
(だめ。目が、開かない)
『…目を、目を覚まして』
目の前の正体不明の生命体に何を言われても、一度閉じた両目が開かれる事は無かった。それが引き金になったのか、一度も崩れた事のない繭は液状になり、サクラを取り込んで行く。まるで力に引き寄せられる様に。何か強い力に、引き寄せられる様に。再び呟いた「目を覚まして」と言う言葉は届かず、繭は再び元の形に戻って行ったのだ。
レイノらが出て行ってからと言うものの、都庁のとある一室でひたすらそれらを待ち続けている黒鋼は室内に僅かに響いた布擦れの音に思わず目を見開いた。それは、サクラがシーツを強く握った音である。黒鋼は、サクラがやっと起きたのだと思った。けれど、それは違ったのだ。初見だったから、確信は無かった。けれど、何処か、おかしい。
「…おい。姫!おい!!」
何度か呼び掛ける。けれど応答は無い。しかし、眉を顰めた苦しげな顔は何時まで経っても安らかなそれに戻る事がなかった。さすがにおかしい。そう思った黒鋼はサクラの口元に手を翳した。そこからは人間が生きる為に必要なものが発されていなかった。温かな吐息が、ない。
「…息、してねぇぞ」
これは、どう言う事なんだ。
『建物ないね』
「この辺りは低層建築が多かったから、もう殆ど残ってないよ」
「雨、止んで来たねー」
「注意してろ。来るぞ」
「何が、ですか?」
外に出たレイノらと都庁の集団がモーターバイクを停めたのはこの先の道路がない、目の前に砂漠が広がっている地点である。周りを見渡しても建物らしい物は見当たらない。どうやら全て酸性雨でやられてしまったらしい。遊人がそう説明した後、危険な雨が止み始める。けれどそれは戦闘合図になる様だ。その事が分からないレイノは貸して貰ったボウガンに手を添えながらも眉を顰めた。
その瞬間、砂を撒き散らしながら首の長い何かがこちらに襲い掛かって来たのである。それを見た集団は、それに向かって一斉に矢を射続ける。すると、それは大きな音を響かせながら砂の上に倒れ込んだのだ。
「あれは!」
「酸性雨による突然変異種だ。毒はあるが、そこを避けりゃ食える」
『モコナ、突然変異って言われた!モコナ食べられるの!?』
「うまそうだな」
『きゃー!』
全長数メートルは優に超えるこの突然変異種は食料として持って帰る算段になっている。その為に人手が必要だったのだ。なるほど、とここでやっと納得したレイノはモーターバイクから降りて、それに近付く。近付けば近付くほど眉の形は歪んで行き、視覚的にもなかなか悪い状況だと言う事が分かるだろう。しかし何故だか胸の辺りがむかむかする。どうやらそれは悪い事の予兆だったらしい。
先程殺したそれを回収しようとしていた者らの背後から、別の生物が大きな口を開けて襲い掛かって来たのだ。レイノと草薙が矢を射るがそれは弾かれ、一番近くに居た那托を呑み込もうとしているのである。
「モコナ!緋炎を!!」
『はい!』
その状況を見兼ねた小狼はモコナに刀を要求する。レコルト国とは違う状況なので、魔力が使えるモコナの口からは勢い良く刀が飛び出して来た。それを受け取った彼は那托を呑み込もうとしている突然変異種を、炎を纏った刀で一刀両断にしたのである。地響きを鳴らしながら砂を撒き散らせる残骸からは、既に生命は感じられない。
「すげぇな」
「レイノちゃん、大丈夫ー?」
「大丈夫です。弓矢って難しいですね」
『レイノってちょっと何か抜けてるよね』
「えっ何で?」
「ちょっと分かるかもー」
「えっうそ」
一瞬にして終わった戦闘を眺めていた人々は各々で息を漏らす様に呟いた。その間にファイは、草薙の隣に居るレイノに近付いて行く。そして顔を覗き見るが、彼女は何時もの軽い笑みを浮かべていた。それを見てほっと安堵の息を吐いたファイだったが、モコナの指摘に笑いながら同意したのである。オレが心配する意味とか、いっつも分かってないと思うんだよねえ。目を伏せてそう思えば、目の前では彼女とモコナが視線を合わせていた。どうやらアイコンタクトを交わしている様だ。その後にモコナが言った言葉は、小狼君の身を引き締める言葉だったらしい。
『今、サクラの羽根の気配強くなった』
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