episode 99
うその言葉
夜の東京は危険である。酸性雨によって崩れた足場や突然変異で現れた魔物はこの国の民達にとっては充分脅威になりうる。そんな状況の中、寝床を貸して貰えたのはこの国に滞在する間、かなり有利に働くだろう。足場がしっかりしているシングルベッドには未だ目を覚まさないサクラ、疲れから眠ってしまったレイノとモコナ、そして、小狼が身体を預けていた。この空間で声を出しているのはファイのみで、黒鋼には会話をする気は無いらしい。すごい尽くしてるオレ馬鹿みたいなんだけど。ちらり、と外を見れば、雨はまだ、止まない。
「小狼君、熱出るかも。オレ起きてるから、黒様、寝ててー」
そう言ったはずなんだけど、黒様は全然答えてくれなくて、それどころか目も合わせてくれない。今までは「おう」くらいは返してくれてたんだけど、それさえないってなるとちょっと寂しいと言うか何と言うか。数瞬返事を待ってみたけれど返っては来ない返事に、オレはどうすれば良いか分からなかった。
「えーっと、何か答えてくれないと、オレ、独り言言い続けてる微妙なひとになっちゃうんだけどー」
「ならおまえも答えろよ」
「なにを?」
「あの口笛。高麗国とやらで死ぬかもしれない時でも、おまえは魔力を使わなかった。言ってたな。「元にいた国の水底で眠っている奴が目覚めたら、追いつかれるかもしれない」「だから逃げなきゃならない。色んな世界を」」
「黒りん、記憶力いいねぇ。さっすがお父さんー」
寝てるのかと思って数回手を振ってみるけど、そこから返って来たのは明らかに先程の言葉の返事ではないものだった。ああ、やっぱりそこ聞いちゃうんだ。黒様らしいけどね。言うつもりのなかった事を責められるのはあまり好きではなくて、オレはおどける様にぱちぱち、と手を叩いた。いつもの突っ込みがない黒りんは厳しい顔をしていて、言い逃れは出来ないんだと、そこで悟る。
「つっこんでようー。寂しいじゃないー」
「…おまえが罪人で追われてるのか、それとも別の理由があるのか、俺には関係ねぇ」
「黒様らしいねぇ」
「おまえがそう望んでるんだろ」
人間は追い詰められると良く喋る、と言うのはどうやら本当の様だ。黒様が言う事は全部的確で、間違ってる所なんてどこにもなくて、それが余計にオレの心を締め付ける。オレの武器は笑顔だから。笑っていれば敵だとは思わない。笑顔でかわしても嫌な思いをする人なんていない。そうすればほら、オレの心の内なんて誰も分からないでしょう。なのに、何で君には分かっちゃうんだろうね。小狼君とサクラちゃんの事を気にしてる事とか、レイノちゃんを想っている事とか、ね。
「それに、前の国で使った、レイノを抑えてまで使ったあの魔力」
「言ったでしょ?オレは死ねないって。だから…」
「おまえは「自分では死ねない」だけだろう。だが、誰かのせいで死ぬなら別だ。あのまま何もしなければ俺達は捕まるか、悪くすりゃ、死んでたかもな。なのに、おまえは自分から魔力を使った。自分から関わったんだ、あいつらに」
「…オレは」
黒様、いつ聞いてたんだか。レイノちゃんだけに聞こえる様に言ったはずなんだけどね。この国に来てからあまり話してないと思っていたけれど、胸の内でこんなに思ってるなんて知らなかったなあ。まあ、それを避けていたのはオレ自身なんだけど。レイノちゃんには、使わせられないんだよ。魔法具を持っていないあの子に、魔力を使わせる訳にはいかないんだ。もう、誰も殺したくない。ああ、もう。
「オレが関わることで、誰も不幸にしたくない」
こんな事、言うつもり無かったんだけどなあ。
「ちょっといいかな」
「おっと。もう寝てるか」
「大丈夫。黒様が聞きまーす」
オレの一言で進む事はもうないと思っていた黒様との会話は、唐突にやって来た遊人君と草薙君の声で一時中断だ。ほっとした気持ち、きっと黒様は気付いてるんだろうねえ。だから今、オレの腕をこんなに強く掴んでるんだと思うし。ああ、起きちゃったみたい。こんな所、見られたくなかったんだけどなあ。
「話、そらせたとか思ってんじゃねぇぞ」
「いたいよーぅ」
「…言ったな。俺には関係ねぇと」
「うん、聞いたー。だから気にしないで、オレのこと…」
「おまえの過去は関係ねぇんだよ。だから」
ほら、図星。ギリギリ、と骨にまで響きそうな黒様の腕力は相変わらず強くて、割と本気で痛い。顔を歪めながらも笑みを浮かべるオレだけれど、黒様の言葉に、オレは目を見開いた。離された腕は少しだけ痛みが残っていて、軋んだ骨が少しずつ元に戻って行く感じがした。
「いい加減、今の自分に腹ぁ括れ」
今のオレにそんなこと出来るはずないって、君なら分かってると思うんだけどなあ。
黒様がいなくなった空間は、話す者がいなくなったオレがいるこの空間は静寂に包まれていて、外の闇の深さはどんどん深くなっている。それは今のオレの心情を表しているみたいで、遠くなる足音と合わせて、オレの身体は背後の柱に預けられた。ずるる、と下に降りて行くオレの身体に力は無く、もう、何も考えられなかった。自嘲的な笑みを溢して、らしくない弱音を吐くオレは、とても情けなかった。だから、見られたくなかったのに。何でこう言う時に限って君は優しくするのかなあ。
「ファイ、さん…?」
「っ…レイノ、ちゃん」
「大丈夫、ですか……?」
だんだんと明るくなる視界に映ったのは、情けなく笑みを溢すファイだった。弾く様にこちらに顔を向けた彼は迷子の様な瞳をしていて、放って置けなくて、怠く重苦しい身体に鞭打って彼に近付く。そっと指先で頬を撫でると、どうやら彼は強く唇を噛み締めている様だった。その事に気付いたレイノが彼の唇をそっと指先でなぞると、彼は強く、細い彼女の腰に手を回したのだ。
「……どうしたん、ですか?ファイさ…」
「…オレ、は、どうすれば良いの……?」
「え…」
「オレって、何なんだと思う……?ね、レイノちゃん…」
腰に回されたファイの腕は、少し震えている気がした。胸元にかかる彼の吐息も、僅かに漏れる我慢している様な声にも、レイノは戸惑いが孕んでいる、と感じていた。そんな中に問い掛けられた彼の言葉は彼女には絶対分からない様な事で、言葉を放つと言う行為に躊躇いが見られた。そんな彼女に思わず苦笑を漏らした彼は、彼女の首に腕を絡め、自身の胸板に彼女の顔を押し付ける。だんだん苦しくなって行く呼吸はどんどん彼女の心臓を締め付けて行き、彼女は彼の背中に腕を回した。雨はまだ、止まない。
「……そのままでいたら、良いと思いますよ」
そんな言葉、思ってもいないくせに。
鼓動が高鳴る。度々増えて行く水槽の中の泡はそこの人物が生きている事を証明していた。泡が出ると共に消えて行く紋様は彼に自由を与えて行き、彼は目の前の蝙蝠の紋様が描かれた板に手を翳す。するとそれを中心に描かれていた文字の輪は解き放たれて行き、封印が解かれた水槽にはヒビが入って行く。突如放たれる水槽内の水は辺りに散りばめられ、そこに足を着いた彼の脳内には、何が映っているのだろうか。
「…小狼…」
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