episode 102
近付く限界
「羽根の気配、どこから感じた?」
那托の隣から、突然変異種を飛び越えてレイノとモコナの元へ降り立った小狼は彼女とモコナに早急に問い掛けた。その言葉を聞いて、再び神経を集中させてみるが、先程の様なそれに引っ掛かる気配は感じて来ないのである。この国に来てから不安定な気配ばかりを感じ取っているが、そもそもの原因が何なのかは分からない。
『だめ。一瞬、凄く強くなったんだけどまた分からなくなった』
「…レイノさんも?」
「ん……すみません」
「羽根?」
「サクラちゃんって、あの眠ってる女の子だよね」
モコナと殆ど同じ答えを紡ぎながら申し訳なさげに眉を下げるレイノに、小狼は慌てた様に「大丈夫」だと答えた。そんな場に口を挟む者達が居る。草薙と遊人だ。どうやら国全体でこの「強い気配」を認知している訳ではない様だ。答えるのを躊躇う小狼の眉間には濃く、皺が寄っていた。
「……探してるものがあるんです」
「水じゃ…」
「違います。でも、大切なものなんです」
那托の言葉を遮ってまでも言葉を紡ぎ、自身の刀を握り締める小狼に、都庁の集団は何も言えなくなってしまったのである。その様子を心配げに見つめるレイノが、そこには居た。力があるのにその事実が逆に辛くなるのは久し振りである。ふと、昔から一緒に居た友達を思い出した。静寂に包まれたこの空間に、一番最初に響き渡った音は草薙が出した、小狼の肩を軽く叩くそれだったのである。
「まぁ何にしても、うちの地下には手ぇ出すなよ」
「神威君だっけ。怖いもんねー」
「あの人はずっと水を守って来たんですか?」
「ずっとではないね。神威も君達と同じなんだよ」
「と言うと、どこか別の場所から来たんですか?」
「三年ほど前にね。僕達が居る建物…都庁って言われてたんだけどね。その地下にある水槽に、いつの間にか立ってたんだ。見張りがいて、誰にも気付かれずに入るなんて不可能なのに。最初、水泥棒だと思ったんだけど、まああの強さだ。捕まえようにも誰も敵わない」
「見張りが何人でかかっても歯が立たなかったしなぁ」
「殺されなかっただけましだ」
「まったくだな。とりあえずこりゃまずいって僕らが呼ばれて」
「あの時の神威はちょっと混乱状態だったみたいでな」
「混乱って?」
「なんていうか…」
「霞月が言ってたでしょ。あの時の神威、迷子になった子供みたいだったって」
そう説明する都庁の集団の脳裏には、三年前の神威の心の拠り所がなくなった様な、そんな何処か寂しげな表情が浮かんでいた。子供の言葉と言うものは時に人間の本質を見抜くものである。そんな霞月が言った言葉はどうやら的を得ていたらしい。戦意がなくなったらしい後も、神威はずっと黙ったままだったが、背後にある水を見て、こう呟いたらしい。
『ここに居る……守る』
それは何かを決めた様な、そんな芯が込められた声だったと言う。
「で、そのまま神威君は都庁だっけ?にいることになったんだー」
「ああ……」
「色々あった」とまとめられれば話はすぐだが、言葉にするとなかなか面倒臭い事情があったらしい。それは締まりの悪い草薙の相槌が証明してくれている。昔は敵対者として対応していた人物を、今は仲間として敬っているのだから不思議なものだ。話す者が誰も居なくなったところで、小狼はある一つの視線に気付いた。それは那托だった。
「牙暁が言ってた。神威とおまえは、似てると。どちらも求めるものがあるからだと」
意を決した様に言葉を紡ぐ那托の顔に、小狼はひたすら視線を集めていた。目の前の人物が言っているのは強さなどと言う外側の問題ではない。内側に秘めた、自分だけの思いの事である。それを聞いた彼は、顔を俯かせて無言を貫いている。目の前の人物の「それが羽根か」と言う問いにもしばらく答えなかったのだ。
「取り返したいんです」
少し違和感を感じる様な、そんな小狼の様子をレイノとファイはしばらくの間見つめていた。しかし何かに気付いたのか、唐突に僅かに目を見開いたのである。ピッフル国から少しずつその片鱗を見る事があった。しかし、もう少し先だと、無意識で安堵していたのだ。その瞳は、酷く、冷たかった。
「…取り返さなきゃならない、必ず」
何処を見ているか分からないその小狼の瞳に何時もの温かさは宿ってはいなくて、こんな彼を見てしまったらサクラは一体どうなってしまうのだろう。きっと悲しむだろう。優しい貴方が見たいと、泣いて喚くだろう。けれど、わたしはそれを見ている事しか出来ない。ただ、彼女を守って、願う事しか出来ないのだ。嗚呼、何と無力な事だろうか。
「…大丈夫」
「え…」
落ち込む様に、諦めた様に顔に影を作るレイノの頭に、優しい声色と温かな掌が振り掛かって来た。ちらり、と視線を動かして正体を確認すれば、それはファイだったのである。思わず瞬きを繰り返してしまった彼女に、彼は思わず笑みを溢した。けれどそれはすぐに消えて、彼は再び口を開いたのである。
「大丈夫だから。レイノちゃん」
「ファイさん…貴方、やっぱり…」
その後に続いた、先程よりも硬くなったそれを聞いて、レイノは思わず目を見開いた。そして、その時のファイの瞳を見て悟ってしまったのだ。嗚呼、そうか。この人はいつまで経っても優しすぎるのだと、ふと思い出したのだ。今はもう古い、馬鹿げた記憶の中だけれど。
「モコナー。今度、おでかけすることがあったらオレとレイノちゃんと小狼君で行ってくるねー」
『なんで?』
「サクラちゃん寝てるでしょ?黒様さびしがるからー」
「寂しいと死んじゃう兎さんだからね」
先ほど捕らえた突然変異種を都庁へ持って帰る為にロープを持たされたファイは、今日はずっと自身の肩に乗っているモコナに声を掛けた。その後に続くふざけた様な言葉に便乗したレイノの顔には先程の暗い表情の面影すらない、何時もの笑みが浮かんでいた。そして、その笑みのままモコナに笑いかけたのである。しかしそれは一瞬の事で、ちらり、と心配げに小狼を見つめた。それに気付いたファイは仕方ない、と言いたげにフードで覆われた彼女の頭を珍しく、雑に撫でたのだ。
「やはり、封印しておくことは出来なかったわね」
床はバラバラに砕け散ったガラス達と身体から滴り落ちる水によって覆われている。久し振りに感じる外界の空気は新鮮だ。それでも他の世界とは少し違うここに居る限り閉じ込められていると言う感覚は消えないのだろうと、そう思う。前に進もうと上体を起こした時、後ろから響く靴音と聞き慣れた声はどうやら自分に向けられているらしい。
「行くんでしょう?その右目を持った者の許へ」
ゆっくりと振り返ったそこにはあの男の側に居る女が居る。自分を捕まえに来た、と言う訳ではない様だ。それは「邪魔はしないわ」と言う彼女の言葉がきちんと証明してくれている。けれど、その後に続いた「力はない」と言う発言に、思わず目を細めてしまう感覚に陥った。そこで、今のおれの魔力はほぼないに等しいと言う事を思い出したのだ。
「出来るわ、私なら。一度きりだけれど」
何も答えていないのにも関わらず指先を動かした女の周りには、唐突に風が巻き起こる。その瞬間、自身の足元には見慣れた太陽の魔法陣が浮かび上がっていた。こんな事、あの男に対する謀反にしかならない。なのに、何故。その問いに答えてくれたのかは分からない。けれどこの世界から消える瞬間、彼女は苦しげにこう呟いた気がする。
「夢は、終わらせなければ」
そんな言葉を、昔、どこかで聞いた気がする。
始まりの日と同じく、「日本」の空からは静かに雨が降り注いでいる。そんな空には、ふと歪みが生まれていた。そして鳴り響く耳が痛くなるその音はあの日を思い出す。計画通りに現れてしまった、あの旅の一行の事だ。しかし、今回は違う。自身の願いの為、他者の願いを止める為、おれは再び舞い降りた。
「来たわね」
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