episode 103
眠った魂
空から降り注ぐ水は肌によって弾かれるものもあれば、そのままそれに吸い込まれるものもある。それらが止む事は無いが、今のこの気持ちではこの状態が一番良いのかも知れない。そんな中、降り立った眼帯の少年の後ろには学ランを着用している眼鏡の少年が驚いた様に立ち竦んでいる。しかし、声を掛けて来たのは目の前に居る侑子だった。
「あなたに次元を渡る力はない。ここに送ったのは…星火ね。あの子は何て?」
「「夢は終わらせなければ」と」
「…そう。あの子達もかなわない夢の欠片のような存在だから」
静かに言葉を紡ぐ侑子の脳裏には久しく会っていない共に在る筈の存在である「星火」と呼ばれる女性の姿が浮かんでいた。そんな星火の言っていた言葉を復唱する眼帯の少年の真っ直ぐな瞳には光が宿り、しかし、何を見据えているかは分からない。それが分かっているのはおそらく侑子だけで、そんな侑子は悲しげに目を伏せたのだ。
「ここに来たからには願いがあるのね。あなたの願いは?」
「右目の許へ」
「対価は…もう貰ったわね。『関係性』」
迷う事もなく自身の願いを告げた眼帯の少年の容姿は小狼にそっくりで、それを裏付ける様に侑子が言った対価は小狼と同じ「関係性」だった。しかし、それに付け加えられた「『自由』と『時間』」は旅が始まる時、小狼には言われていない対価である。彼女がそっと手を翳すと、眼帯の少年の足元には彼女の魔法陣が現れ、それを囲う様に風が巻き起こり始めた。
「あなたを右目の許へ送ることは、許される干渉範囲内。あたしは願いを叶えるだけだから。けれど、その先は…」
「取り返さなきゃならない、必ず」
「では、行きなさい」
侑子のその言葉と共にばらけて行く身体はもう止まらない。もう、後には引けない。引くつもりもないけれど。そう心の中でごちる眼帯の少年の唇から紡がれた言葉は、温もりがなくなった小狼が言っていたそれと全く同じだった。そうして魔法陣と共に消えて行った眼帯の少年を見送った彼女は、「夢は終わらせなくては」と、曇天の空を仰ぎ見て、懐かしむ様にゆっくりと声を発したのである。
「…クロウ」
「医者に!いや、医者でいいのか!?」
「治療で治せるものではありません」
「日本」と同じ様に雨にまみれる国がある。それが、一行が滞在している「東京」である。そこの都庁と呼ばれる場所では人知れず、とある事件が起こっていた。この旅が始まってから自身の常識が通じない事ばかりである。魔術と言う不思議な力や記憶が羽根となってしまった、などと言う事が良い例だ。後者の持ち主であるサクラが人知れず息を引き取った、と言う案件もそれに含まれる。僅かに焦る中、唐突に聞こえて来た声に、俺は思わず側にある刀を手に取った。
「…貴方達は異世界、別の次元から来たんですね」
「何故、そう思う」
「夢で視たんです、貴方達が来るのを」
先程の声の主は牙暁だったらしい。食料調達に行かなかった牙暁は薄汚れたマントを羽織り、黒鋼とサクラが居る部屋に足を踏み入れた。話してもいないのに事情を理解している牙暁に殺気を向ける彼の態度は当然だ。着々と距離を縮めて来る牙暁に思わず刀を抜けば、牙暁は再び息を吸い直した。
「未来が視えるんです。いつもじゃありません。ただ、時折、何か、この東京に大きな変化が起こる時に。神威が来た時も視ました」
「…おまえ、夢見か」
「貴方の国ではそう呼ばれているんですか?」
「ああ。結界を張る姫巫女の中に、夢で先を見るものが希にいる」
瞳を曇らせて淡々と言葉をなぞる牙暁に敵意は感じられなくて、黒鋼は刀身を鞘に納め始め、けれど眉間の皺は消さずに確信に近い問いを投げ掛けた。それに乗って来る牙暁はどうやら本当に話をしに来ただけらしい。思わずサクラを抱く力を弱めた彼は、脳裏にとある人物を浮かべた。
「その巫女を、夢見と呼んでいた」
それは自身の唯一の主である、知世姫の姿だった。
「その子は眠っています」
「寝てるだけで息が止まるかよ」
「体ではありません」
再び柄に力を込めた黒鋼は、淡々とした言葉の応酬を受け入れる。久し振りに感じるピリピリ、としたこの空間は「守る」と言う意味を履き違えていた頃の自身を思い出させた。現に息が止まっているサクラをただ抱き締めて、目の前の得体の知れない者に向かって殺気を投げ掛ける事しか出来ない。しかし、その後に続いた目の前の奴の言葉に俺は目を見開く事となった。
一方、地下に居る神威は風の通らぬ空間にある水面(みなも)が揺れた事に眉を顰めた。そして、唐突に光が漏れ始めたそれに思わず目を見開いたのだ。茶色の瞳が金へと輝き、そうして彼は一目散に水へと飛び込んだ。
「体じゃねぇ?」
「眠っているのは、魂です」
やはりこの旅は、俺の常識を超えているようだ。
prev next