episode 105
届かない声
『…きて。お…て……起きて。君が目覚めないと、君の大切なひとが、戻れなくなる』
(大切な…ひと…)
ふわふわと、誘(いざな)われる様に漂う身体には、何故か力は入らない。しかし、それに繋がる自身の耳には、微かに人声が掛けられていた。それは自身の起床を促すもので、しかし、水の中である為に声を出す事が出来ないサクラはただ目を瞑り、ぼうっと思考を巡らせる事しか出来なかった。
(大切な…)
うつらうつら、と思考を巡らせるサクラの脳内には様々な人の顔と思い出達が横切って行く。玖楼国にいる兄様と雪兎さん、今はもう会えないお父様、ピッフル国でお友達になれた知世ちゃん、「日本」って言う場所にいる次元の魔女さん、旅をしている仲間の黒鋼さん、ファイさんとモコちゃん、レイノちゃん、みんなみんな大切だよ。けど、いつも隣にいてくれる、いつも笑いかけてくれる、いつも手を差し伸べてくれるあの人が大切なの。
小狼君が、大切なの。
「あれの主人はおまえか」
(いや)
「まさか、あの狩人のものか。昴流があんな奴に血を与えたから…」
(違う。彼は、本当に良い子なんだ。サクラちゃんを守って、羽根を探そうと一生懸命で)
神威の伸縮自在な爪によってボロボロになった小狼の黒いタートルネックは小狼の身体を所々しか隠す事しか出来ずにいた。神威の身体を纏う黒ずんだ水達は小狼によって千切られた筈の左腕を蘇生させている。そんな神威の言葉に心の中から囁く様に言葉を紡ぐファイ、そんな一連のやり取りを見届けたレイノは、再び小狼に視線をやった。そこにある「小狼」だった者は、その瞳に、何も映してはいなかった。
「あの魔女の許に『小狼』を送ったのはおまえだな、星火。おまえの素を考えると仕方のない事かもしれん。それに、所詮、おまえも失敗作だ」
透明な液体が、ことりと、お猪口の中で遊んでいる。それをただ見つめて遊ばせるだけの飛王の瞳は、酷く冷たい。その傍らには、何時もと同じく無表情を貫く星火の姿があった。全身の殆どを黒で覆われている彼女は何も変わらない様に見えた。しかし、それがただの勘違いだと言う事に、その直後に呟かれた彼の言葉で気付いたのだ。
「――もう、聞こえぬか」
星火が壁と離れる事は、もう二度と訪れない。
(…小狼君)
「おまえ達、これが人間じゃないと知ってたな。抑えてはいるが、相当の魔力の持ち主だろう。だったら、これの中身…おまえ達は心とか言うんだったな。それが、誰かから与えられたものだという事も知っていただろう」
(たとえ、それが他者のものでも、偽りでも、その心を受け取る者にとっては、真実なんだ)
水の中の人間が増えた事と平行して増える泡の量はレイノらを纏いながら水面に近付いて行く。そんな中で声が聞こえる神威は、やはり「人間」と呼べる存在ではないのだろう。そんな神威の言葉に苦しげながらも言葉を紡ぐファイは意味深なそれを放った。そんな時、小狼の見えない右目からは魔法陣が映し出されている。それに気付いたレイノはそちらから目を離さずにファイのコートを緩く引っ張った。
(右目の魔力が、消えかけてる)
小狼の眼前に浮かび上がっている魔法陣に魔力が集まり出せば、今までレイノとファイの呼吸を苦しくしていた水は魔法陣を中心に竜巻を起こしたのだ。それが現れたと同時に、水底からは懐かしくもある、別の気配を感じ取る事が出来る。何年振りかも分からないその気配に、わたしはなぜか泣きたくなったのだ。
「誰か来る、別の世界から。あの狩人じゃない」
「もう一人の小狼君が、来る」
声が通る様になった水の竜巻の中で微かに見える魔法陣は確かに侑子の物だ。そこからは未だに「もう一人の小狼」が現れる事は無いが、だんだんと鮮明になって行く魔力の気配がもう戻れない事を理解させてくれている。その間にも小狼の右目の魔法陣はどんどんと形を形成して行っており、レイノは思わず眉を顰めて右手に魔力を込めた。
「あの心は『小狼』じゃない、小狼君とサクラちゃんと、小狼君の事が大好きな人達で作った大切なもの、なのに」
細々とそう呟くレイノちゃんの声は震えていて、泣きそうで、けれど流れ込んで来るあったかいレイノちゃんの魔力は目の前の小狼君を助けたくて仕方ないんだと、すぐに分かった。でも、あの子に会いたい気持ちもあるレイノちゃんは多分一番複雑な位置に立っていると思う。それでもやっぱり、オレもレイノちゃんも小狼君、君を失いたくないんだ。
「…そうだ」
(だから、無くしちゃいけない)
ファイの指先から出た光は彼の指が描く文字を彩って行き、それは小狼の身体をらせん状に包み込んで行った。その中にはレイノの魔力である桃色の光も混じっており、それは繋がれたファイの右手から流れ出ている様だ。パリパリ、と力同士が拮抗し合っている今の状況は、彼女とファイにとっては良くないそれである。そんな現状を見兼ねた彼女の右手からは新しい桃色の光が放たれており、それは僅かながらファイの抵抗を手助けしている様に見えた。
「あれからさっきまで感じてたのと、同じ気が近付いてる」
先ほど見たよりも近付いて来て鮮明に目に映る侑子の魔法陣からは唐突に風が巻き起こる。それは、一行が次元移動する際に毎回見ているものだ。それが起こった瞬間、何とか封印が解かれるのを止めようとしていたレイノとファイの魔術が弾け飛んだのだ。その中から現れた陰陽魚太極図を象った球は、しっかりと小狼の手で掴まれる事となった。しかし小狼が不要と感じたのか、それは僅かに飛躍してファイの足元を通って行く。それをそっと拾い上げたファイは「心」と呼ばれるそれを視界に入れて、それを握る手に力を込めたのだ。
「小狼…君」
何時の間にか目の前まで近付いて来ていた小狼はファイの顔を見上げている。旅の間で随分と見慣れたその身長差も、心が消えてしまった小狼が相手ではただただ虚しいだけだ。そんな小狼は唐突に痛々しい音を響かせてファイの顔を蹴り上げたのである。「ファイさん!」と悲痛な叫び声をあげるレイノの声を耳に入れながら、ファイは地面を舐める事となる。
悲痛な声をあげていたレイノも小狼の肘打ちによって鳩尾を攻撃され、蹲っては感じた嘔吐感に思わず咳き込む事になった。荒くなって行く呼吸に思わず眉を顰めるが、彼女は少しずつ上体を起こし、再び彼に近付いて行く。しかし、首を小狼の足で押さえ付けられた事により、その行動は中断される事になったのだ。
「レイノちゃん!」
「この世界に羽根はあれだけか?」
「っ…やめて、しゃおらん、君…」
「魔術を使うな……心臓が魔力の源か。お前を殺せば、もっと羽根を集めやすくなるか」
「っだめ、やめて、おねが…」
痛む身体に鞭打って上体を起こしたファイの視界に映ったのは、レイノの心臓があるだろう場所に手を翳している小狼の姿だった。震える声で拒否の言葉を紡ぐ彼女は必死に小狼の肩を押している様だが、恐怖から来る全身の震えはなかなか収まってはくれないみたいである。そんな状況にギリ、と思わず歯を食い縛ったファイは、彼女と小狼の間に魔術を放ったのだ。
「……止めろ」
「…ならば、その目を貰う」
「やめて、だめ、やだ……」
「羽根を取り戻す為に、これも必要か」
「おねがい、やだ、きいてよ、ねえ、しゃおらん君…っ」
荒い息を吐きながらもレイノを守ってみせたファイはふっと笑みを溢してみせた。それを見たレイノちゃんが涙を浮かべたのは、見間違いだったら良いな。標的をオレに変えたらしい小狼君はこちらに近付いて来て、オレの首を乱暴に掴んでみせた。そして、一瞬で見抜いたオレの魔力の源の目に指を触れさせる。ゆっくりと込められる力に、オレは思わず目を見開いたけれど逃げようとはしなかった。でも、多分泣いてるんだろうレイノちゃんの声に、オレは初めて逃げてばかりの人生に後悔したんだ。
「小狼!!」
一度でも「好き」だと伝えていれば、今も変わらず君の隣にいれたんだろうか。
牙暁ってやつに連れられて、俺は姫を抱えて水があるらしい地下へと急いでいた。もちろん何かあった時の為に左手には蒼氷がある。息をしていない姫に柄にもなく焦っている俺は、普通なら掻かない汗を額に張り付けていた。レイノか魔術師がいればまだ気持ち的にも落ち着くのだろうが、未だに部屋に帰って来ていない事からまた変な事に首を突っ込んでるんだろうな。
「都庁を守っている結界が消えました。地下の貯水槽に何かあったようです」
「何かってなんだ」
「分かりません、すべてを夢で視られるわけではありませんから。けれど、みんなそこにいます。貴方と一緒に来た人達も…」
地下の水がある場所に続いて行く階段を足早に駆け下りて行く間に牙暁って奴と交わす会話はさっきまでいた部屋で交わされたものと、そう大差は無かった。だが、どこか曖昧に終わるその会話は俺の大嫌いなもので、思わず舌打ちしそうになるのを何とか堪える。その時に感じたぞくり、とした悪寒は、今考えると俺の本能が警告音を鳴らしていたのかもしれない。
「ここだな」
「許可なく武器を持ってこの中には入れません」
地下の一番奥にある太陽の様な紋章が描かれた巨大な扉は何処か威圧感を発している様に感じた。それはきっとこの中で起こっている事を示唆しているのだろう。重苦しいその扉を開けて足を踏み入れようとした瞬間に投げ掛けられた淡々とした言葉に、黒鋼は思わず先ほど我慢した舌打ちを響かせた。ここで反抗しても時間の無駄だ。そう結論付けた彼は苛立ちを乗せた刀を巨大な扉に投げ付けたのだ。
都庁の集団が居る場所に駆けて行くと、その途中で唐突に、今まで抱えていたサクラの身体が水の様に溶けて消えてしまったのである。先程まで確かに感じていた温もりは、今この手には残っていない。どうやら水の中にある魂の元へ移動したらしい。目尻に皺を寄せて階段を降り切った黒鋼は激しく回転運動をする水の竜巻を視界に入れた。
『黒鋼!小狼とレイノとファイが水から出て来ないの!!』
「どけ!」
モコナの言葉に目を見開いた黒鋼は那托の身体を押し退けて水の竜巻に一番近い場所に足を踏み出した。その瞬間、弾け飛ぶ様に音を鳴らした目の前のそれの中には見慣れない球体と見慣れた旅の仲間が居たらしい。けれど、黒鋼の視界に映ったのは、どう思考を巡らせても意味を理解出来ない光景だった。そこにあったのは、血だらけの小狼に引き摺られる脱力しきったファイの姿とその後ろで頭から血を流すレイノのそれだった。
どれだけ守って来たと思ってやがる。どれだけの時間を、関わりを持ってあいつらの心を開いて来たと思ってやがる。目の前に広がる「赤」はそんな俺の努力を全て無駄にするもので、そのはずなのに、なぜか俺の心の中はただただ戸惑いでいっぱいだった。
誰か、うそだと言ってくれ。
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