episode 106
笑顔の理由

 弾け飛ぶ水の音が静まった頃、そんな空気に包まれた地下ではグチュ、と言った生々しい音が響き渡っていた。それが小狼から放たれているのは、耳を傾ければすぐに分かる事である。そんな音が響く度に彼の手からは血が滴り落ちており、それはファイの目から生まれた血だまりに吸い込まれて行く。その直後に黒鋼の視界に入ったのは髪の色と同じの琥珀色ではない、ファイの瞳と同じ蒼色のそれだったのだ。その後に響いたレイノの咳き込む声によって我に返った黒鋼は、ただ、事実を呟く事しか出来なかったのだ。


「目が…青い……」

 震える瞼に力を入れて何とか視界を広げれば、そこには小狼に乱暴に掴み上げられるファイの姿があった。最後の笑顔は、もう面影すらない。長い金の前髪と血で隠された顔の半分はどう頑張っても見る事が出来ない。思わず目を細めたレイノは、血だらけの小狼の手を軽く掴んだのだ。しかし、それに気付いた小狼は彼女の腹に蹴りを入れ、そのまま後ろに倒れ込んだ彼女の身体を足で押さえ付けたのである。


「レイノ!」
「や、めて、しゃおら、君…」
「…離せ」
「い、やです」

 呻き声をあげるレイノと言うのはあまり見た事がない姿で、けれど、何も出来ないのが現状だ。人質を二人、取られている様なものなのだ。そんな酷い状況の中でも彼女は小狼の足から手を離す事はせず、そんな状況に思わず眉を顰めた小狼はファイの片方の瞳に手を伸ばしたのだ。


「やめろ!!」

 小狼のその行動を見た黒鋼は思わず足を踏み出し、小狼の血だらけの手を掴み、レイノを押さえ付ける足に衝撃を与えて彼女を助け出してみせた。足元で咳き込む彼女は全身がボロボロで、もしかしたら自分が来るまでにファイを守っていたのかも知れない。そんな黒鋼に冷たい視線を向ける小狼は、既に自分の知る人物ではない様だ。


「喰ったのか、そいつの目を」

 信じたくない、そんな気持ちが僅かに入った黒鋼の問い掛けを小狼は重いひと蹴りで一蹴したのだ。一瞬心臓が止まった様な気がしたその一撃はちょうど黒鋼の鳩尾に入ってしまったらしい。隣から聞こえて来る弱々しい「黒鋼」と言う声はレイノのものだったが、それに対して少しだけ笑った事にこいつは気付いているのだろうか。


「右目も貰う」
「…そいつを寄越せ」
「…魔力の源は両の蒼い目、両方取り出せば用はない。あとはこいつを殺せれば、それで良い」
「寄越せ」

 苦しげに咳き込む黒鋼を置いて言葉を紡ぐ、そんな冷たい小狼の姿をもしあの姫が見てしまえばどうなってしまうのだろうか。そんな懸念を頭の隅に追いやった黒鋼の要求にも、小狼は冷たい視線を向けるだけである。それどころか、ファイの右の瞼に歯を立てたのだ。がり、と響くその音は聞くに堪えないものである。思わずレイノが目を瞑ったと同時に、黒鋼は小狼の首を掴み、そのまま壁に叩き付けた。その時に響いたボキ、と言った音は完璧に骨が折れている事を示しており、それは腫れ上がった腕を見ればすぐに分かる事だろう。しかし、何事もなかったかの様に立ち上がる小狼の顔には痛がる様な表情は浮かんではおらず、どうやら痛覚が失われてしまったらしい。


『小狼…黒鋼…レイノ、ファイ…』
「おまえ…小僧じゃねぇな、『気配』が違う。けど、違う奴じゃねぇ」
「羽根は取り戻す、必ず」

 微かに聞こえるモコナの震えた声はレイノの鼓膜を刺激させ、それが余計に彼女の中の悔しさを募らせた。血だらけの手で仲間を殺そうとした小狼を視界に入れる度にそんな感情は昂って行き、彼女にはただただ顔を歪める他、術は無かったのである。目の前の小狼は決まり文句となった言葉を呟けば淡い光を放つ指先を動かし始めた。それに気付いた彼女は黒鋼にファイを押し付けて、その二人の前に飛び出したのだ。そして、襲い掛かる魔術から庇ってくれた彼女を見ては、黒鋼は驚いた様に目を見開いてぼそり、と名を呟いたのである。しかし、その後の彼女の状態に再び目を見開かせる事となるのだ。一段と強く咳き込んだ彼女の口からは血が溢れ出し、ひゅう、ひゅう、と言った呼吸音を響かせたのである。


「…なぜ、魔力を使う。お前の魔力の源は心の臓、このまま使い続ければいずれ死ぬぞ」
『レイノ!』
「おい、止めろ!」
「死にません」

 口の端から垂れる血を乱暴に拭い、レイノはふらつきながら立ち上がった。わたしの魔力の源の事を教えたのは、多分飛王だろうね。いつ教えたんだか、あの人はやっぱりわたしの事は元から捨てるつもりだったんだろう。だから多分、あの人を懐に取り込んだ。ある記憶が脳内に巡っているレイノには黒鋼とモコナの制止の声は聞こえておらず、しかし、「死なない」と、何処からか湧き出て来る自信と共に力強く言葉を放った。


「何も守れていないのに、死ぬ訳がないでしょう」

 逸れないわたしの瞳に、少しだけ貴方が揺らいだ気がするのは気のせいだろうか。


 そんな微妙な表情の変化はこんな状況でなければ気付けたんだろうけど、だんだんと浅くなって行く呼吸から、わたしは自分の体力の限界に気付き始めていた。思わずしゃがみ込んで咳き込めば、手の平には再び「赤」が広がって行く。そんなわたしの後ろでは、黒鋼が強く、歯を食い縛っていた。


「こいつは、こいつらは…」

 黒鋼の顔は、見なくても分かる。きっと眉を顰めて、ただただ目の前の小狼君を睨んでいるんだろう。けれど、それは憎しみとか恨みとか、そんな感情じゃない。ただただ悔しくて、どうすれば良いか分からなくて、必死に自分の気持ちを伝えているんだ。そんな黒鋼曰く、どうやらわたしとファイさんは変わる事が出来たらしい。ただ素直に、ずっと笑顔が続けば良いなあと、幸せで在れば良いなあと、そう思っていただけなんだけれど。それが「変わった」と言う事なのかな。そう思うと、なぜか涙が止まらなかった。


「聞こえねえのか、小僧!!」

 その叫びは、もう貴方には届かないのかなあ。


 黒鋼が叫んだと同時に球体の下からは耳に優しくない耳鳴りの様な音が聞こえて来る。そこから現れた侑子の魔法陣から出て来たのは左目を眼帯で隠した小狼と瓜二つの少年だった。ああ、ああ、いつ振りだろうか。変わったのは眼帯と服装だけで、真っ直ぐ貫く様な視線は何も変わっちゃいない。ねえ、ファイさん、おかしいね。この瞬間は来ちゃいけなかったのに、避けるべき事なのに、ああ、どうして。

 嬉しい、なんて。

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