episode 107
なけなしの力
(わたしの大切なひと達、わたしの大切なひと)
「わたしのいちばん、大切なひと」
時折反応するサクラの手は、彼女を夢の世界から遠ざけてくれていた。そんな中で朧気に繰り返されるのは「大切なひと」と言うワードである。少しずつはっきりとした輪郭となるそれは、彼女の意識を覚醒させるには充分だった。やっとの事で目が覚めた彼女の視界に映ったのは、対峙している同じ顔、背中に傷を負っている黒鋼、口から、目から血を流すレイノとファイである。
「みんな…!」
『サクラ!!』
おかしい。おかしいよ、こんなの。レコルトでは笑ってたよね。苦しい事もあったけど、皆笑ってたよね。なのにどうして皆傷だらけなの。どうしてレイノちゃんとファイさんは血だらけなの。どうして黒鋼さんはそんなに怖い顔をしてるの。どうして小狼君はこっちを向いてくれないの。どうして、どうして。
綺麗な琥珀色がなくなっているの。
「どういう事だ!?」
「異世界の同一人物」に出会う事はあっても、自分と同じ顔の異世界の人間には出会った事は無かった。しかし、その状況が今現実で起こっている。それに対して理解が追い付かない黒鋼は、ただただ疑問を叫ぶしか出来ないのだ。その直後、小狼に取り込まれていた陰陽魚太極図の球体は淡い光を纏いながら眼帯の少年の手元に落ち着いた。
「心の半分、おれが昔、おまえに渡したものだ。一度封印が切れたものを、レイノと、その魔術師がおまえに戻そうとしたんだな、その奪われた左目と共に」
その球体を見つめる眼帯の少年の瞳は何処か憂いを帯びていて、あの顔はあんな表情も出来たのなど、場違いな事を考える。そんな時にふと流れ込んで来た血だらけの二人の名は黒鋼に衝撃を与え、黒鋼は弾かれた様にその二人を目に映したのだ。眉を顰めたまま意識が戻らないファイの瞳には僅かに涙が、未だに嫌な呼吸音を響かせるレイノの口元には、何故か笑みが浮かんでいた。
「けれど…切れた封印は、もう、どんな方法を使っても戻らない。二人も分かっていたはずだ。それでも賭けたんだろう」
眼帯の少年の言葉は一つ一つがとても重く、そんな思いが込められている球体は酷く重く見えた。それは彼の体内に吸い込まれて行き、その後の「可能性に」と言う言葉と共にゆっくりと外された眼帯から現れたのは、歪まれた琥珀色の瞳だった。覚悟を決めたのだと、そう感じた。ならば、わたしはこの場を守らなければいけないのではないか。その瞬間、魔力が回復した気がするのは気のせいなのだろうか。
「黒鋼さん!レイノちゃん!ファイさん!モコちゃん!小狼君!!」
「おれは、おまえの右目を通してずっと見て来た。おまえが出逢った、出来事や人達を」
涙を浮かべているサクラが傷だらけの手で出す衝撃音は酷く痛々しく、しかし、それを止める「傷になります」と言った優しげな声はもう聞く事は出来ないのだ。無表情と痛々しく歪める、と言った対照的なそれらに確かに変わってしまったんだと、強く痛感する。そんな中でも紡がれる中国服の少年の言葉はだんだんと力んで来ているのが分かり、その気持ちの強さは強く握られた拳を見れば一目瞭然だ。
「あのさくらを一番大事だと思ったのは、『おれの心』じゃない!おまえだろう!!」
そんな叫びも虚しく唐突に訪れた痛覚は腹部に現れた。どうやら思いきり蹴りを入れられてしまったらしい。鋭い痛みはその身を貫き、それから逃げる様に至る所に張り巡らされているぬめる柱を使って中国服の少年は一旦レイノらの側でしゃがみ込んだのだ。その時に見えた紋章は確かに黒鋼が追っていたもので、しかし、それを止める「待って」と言う声が横から響いたのである。
「何?」
「待って、お願い……後援は?」
「駄目だ」
「どうして…」
「まだ何も話していない。だからそれまで、その魔力は使うな」
ひとまず収まった血を雑に拭ったレイノは強請る様な瞳を黒鋼に向け、しかし、言葉は確かに横に居る中国服の少年に向かって放たれていた。彼女の言葉を一刀両断した少年はただただ前を見据えていたかと思えばその視線を彼女に向け、力が籠っているのであろう彼女の手首を握り締めたのだ。その後に少しだけ掠った少年の指に思わず泣きそうになったのは、きっとわたしだけなんだろうね。
再び小狼と向かい合った中国服の少年は素早い蹴りを何回も繰り返して行く。その反撃が全く同じと言うのも、やはり二人が同じ存在だと証明していた。そして、再び繰り出される力強い小狼の蹴りを腕で食い止め、小狼の腹部に向かって同じ様に蹴りをお見舞いしてやったのである。
「刀!」
『え!?』
「くろ、がね…?」
「刀、出せ!!」
『は…はい!』
唐突に叫ばれた黒鋼の言葉は酷く焦りを孕んでおり、なかなか見る事が出来ないそんな彼にレイノは理解不能、と言いたげに何度も瞬きを繰り返した。明らかに劣勢な中国服の少年を見て、どうやら後援に回ろうとしてくれているらしい。しかし、モコナの口から放たれた緋炎は黒鋼の手元には届かず、ファイの魔術によって持ち主の手元に収まってしまったのである。ゆっくりと姿を現す刀身には異国の文字がらせん状に絡み合い、それによって力が倍増された炎は地下全体を覆い尽くしたのだ。
「きゃあ!」
「崩れるぞ!」
「黒鋼!ファイさんから手を離さないで!」
「分かってる!」
遠くではモコナの悲痛な叫び声が聞こえる。必死にわたし達の名前を呼んでる。けれど、この状況ではそれに応える事もままならないみたい。炎によって崩れて行く地下の柱は大きな音を立てて地面へと落ちて行く。そんな中で何とか足場を見つけたわたしは、焦った様子で黒鋼に声を掛けた。そして、しっかりとファイさんの身体を抱きかかえている様子を確認したわたしは、なけなしの力を振り絞って結界を張ったんだ。
その数瞬後(あと)だっただろうか。唐突に聞こえた「雷帝招来」と言う叫び声と共に、頭上では巨大な雷鳴が轟いていた。自身の結界を解いて地面を見下ろせば、剣を持った少年が小狼に向かってそれを振り翳そうとしている。しかしそれもサクラの制止の声によって止まってしまったのだ。
「小狼君を殺さないで!!」
小狼の首元に剣の切っ先を向けながら中国服の少年の視界に入ったのは、真っ赤になった瞳からボロボロと涙を溢すサクラの姿だった。そこで思い出したのは、昔から「サクラ」と言う存在のあの顔には弱いと言う、自身の情けない弱点である。そこですぐ飛び退かったのが悪いのだろう。何時の間にか貫かれていた右足からは自分でも驚く程の血液が噴き出しており、遠くからは彼女の息を呑む声が聞こえる。だんだんと遠ざかる足音に思わず手を伸ばす。駄目だ、小狼。行っては駄目だ。本当に、本当にもう。
戻れなくなるぞ。
「…小狼…君…」
震える声に返って来たのは会えた喜びの笑みでも、サクラの無事を確かめる焦った声でもない、冷たく鋭い血にまみれた刀の切っ先だった。振り翳されたそれは彼女の身体を切り裂いたのではなく、どうやら彼女を包み込んでいる球体の膜を切り裂いたらしい。けれど、それが彼女を助ける為ではない事は小狼の視線の先を見ればすぐに分かるだろう。
「駄目!!」
サクラの後ろにある繭に刀を向けた小狼に声を張り上げた彼女は思わずそれに手を伸ばすが、どうやら遅かった様である。しかし、斬撃を繭の表面までに抑えた小狼は、その中から出て来たサクラの羽根を手に入れた。その瞳は酷く冷たく、彼女を救いたい一心で行動していた今までとは決定的に違っている。涙を流す彼女の腕を引っ張ると、彼は彼女を腕に抱える。それと共鳴する様に、彼女の真横では羽根が淡い光を放っていた。
「いや…待って……小狼君…」
駄目だと、これを受け取ってはいけないと、本能がそう叫んでいる様に感じた。ここで眠っては駄目だと、受け入れては駄目だと、そんな気持ちしか湧き起らなかった。ここで貴方の手を離せば、もう二度と、この温もりを感じる事は出来ないのだと、分かっていたのかもしれない。けれど、どれだけ止めても目の前の貴方は聞き入れてはくれなくて、どんどんと入り込んで来るあまりにも現実離れした記憶が私の脳内に刻まれて行く。
「羽根は取り戻す、必ず」
もう、羽根は良いのよ。小狼君。
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