episode 108
望まない結末
蒼く変わってしまった瞳に力を入れると、ポウ、と僅かな魔力が生まれた気がした。どうやらファイはサクラの羽根を感知できるのにも関わらず、それを黙っていたらしい。その行動の真理は、やはり「魔術を使う訳にはいかない」と言う自分自身に戒めた言葉によるものなのだろう。
「…この世界にもう羽根はない……なら、この世界に留まる必要もない。次の世界で羽根を探す」
ひとり言にも聞こえるその一連の言葉は次元の違う飛王に対して投げ掛けられていたものらしく、ほくそ笑んだ彼が指先を軽く動かすと、小狼の前にはカイルの時と同じ様な次元の狭間が姿を現していた。それを視界に入れた小狼は今まで腕に抱いていたサクラから手を離し、目の前の狭間に足を踏み入れようとする。霞んで行く小狼の姿を小さな視界に入れた彼女は力の入らない腕を伸ばす。きゅ、と僅かに掴んだ小狼の腕は黒鋼によって折られた方で、感覚があるのかは分からない。
「…小狼…君…行か…ないで……」
この手を離せば、もう逢えない。そんな確信が私の中にはあった。傷付いた私の手を包み込んで下さい。貴方のせいで止まる事がない涙を拭って下さい。涙のせいで真っ赤になった私の目元を優しく撫でて下さい。貴方の温もりを、下さい。そんな事をしてくれる貴方がいない事も分かってる。だから私の手を振り払ったのでしょう。けど、分かってるけど、でも、少しだけ反応した貴方の、小狼君の目元に少しだけ、自惚れても良いのかなあ。
「しゃおら…」
それでも離れてしまったサクラと小狼の距離が縮まる事は無く、彼女はただただ苦し紛れに彼に手を伸ばした。それに触れてくれる温もりはもうここにはなくて、「消えてしまった愛しい人」と言う現実を受け入れられない彼女は大粒の涙を溢して再び意識をなくす事しか出来ないのだ。
それと同時にサクラの背後にある繭は、小狼が入れた斬撃の部分から壊れて行き、そこから眩い光が漏れ出した。そこから現れた端正な顔付きの青年は意識を失った彼女を受け止めては綺麗な顔を僅かに歪める。そんな青年はどうやら神威がずっと待っていた理由らしく、名を昴流と言った。
「ごめんね、神威。心配させて」
「良かった、目を覚まして。早く次の世界へ行こう」
「待って」
サクラの羽根がなくなったお陰で目を覚ました昴流の元には焦った様子の神威がふわ、と降り立っており、昴流はそんな神威の手に優しく手を重ねた。そうして甘える様に頭を寄せる神威に何処か懐かしさを感じるが、動く気配のない昴流の身体と言葉に思わず眉を顰めたのだ。
「奴が追いついて来る前に行かなきゃ」
「…お願い、待って」
「昴流…」
昴流は頑固なのだ。こうなってしまえば、神威がどれだけ諭しても昴流はきっとここから動かないのだろう。このお人好しの性格も考えものだな。一方、未だに煙が舞う中で会話のないレイノらの空間は困惑や戸惑い、疑惑が蔓延っていた。それらの感情を放っているのは、殆どが黒鋼なのである。しかし、それを全て受け止める中国服の少年の瞳に迷いは無い様に見えた。
「おまえの、その胸の紋は?」
「貴方の母上を、殺めた者の紋章だ」
黒鋼の瞳孔は大きく開かれており、必死に抑え込んでいるのであろう殺気も僅かに漏れていた。ピリピリ、と肌に突き刺さるそれは思わず顔を歪める程である。それをしっかりと受け止めて言葉を紡ぐ中国服の少年は何時もと変わらなくて、こうなる事を予想はしていた様だ。しかし、そんな少年の言葉に抑えていた殺気を放った黒鋼をレイノは止めようとするが、そうする前に「待ちなさい」と凛とした声がその場に響いたのである。
「魔女さん…」
『その『小狼』は貴方のお母様を殺した者に囚われていたの。それに、どこにいたかもその子には分からないわ』
情けないほど弱々しい声を出したレイノの泣きそうな顔に思わず苦笑を浮かべた侑子は酷く綺麗で、そして、酷く悲しそうだった。分かっていたのだろう結末に、一番悲しさや悔しさを感じているのは侑子なのである。そんな侑子の言葉に『小狼』の顔を見下ろすが、表情は変わらない。信じる、しかない様だ。
『黒鋼!ファイが!レイノもサクラも『小狼』も怪我してるよ!』
「…後で聞かせろ、魔女。全部な」
涙をボロボロと溢しながらモニターに映る侑子に声を張り上げるモコナは先程からずっと涙を流しており、恐らく今回の件で一番自身の無力を感じていたのはモコナだ。何も出来なかった。ただ叫んで、泣いて、そうする事しか出来なかった。魔力があっても、それを使う事が出来なければ意味がないのだ。
黒鋼の一言で区切りが付いた空間で、『小狼』は涙を溢したまま意識を失ってしまったサクラを見つめていた。その顔は、酷く悲痛である。そんな『小狼』を見兼ねたレイノは痛む身体に鞭打って『小狼』の肩を軽く叩いた。そして「行こう」と、何時もの笑みを浮かべて言ったのだ。
「…無理だわ」
『どういう事!?』
「眼球をえぐり取られてる。普通ならショック死しててもおかしくないような状態よ」
「そんな…」
「それに、ここには薬も足りない」
「医者もいないんだ。颯姫ちゃんは医大生だけど、外科手術となると難しい」
『ファイ、どうなっちゃうの?』
緊迫した空気の中で響き渡るのは、何とか生を繋げようと奮闘する颯姫の声と彼女が持つピンセットの金属音である。そんな彼女の顔付きは絶望的な状況を表していて、否定を表す言葉に、レイノと黒鋼は思わず眉を顰めた。そして、「ファイが死んでしまう」と言う状況に直面したこの場は、再び静寂に包まれたのである。
『侑子!侑子!!お願い!ファイが死んじゃうよ!侑子!』
「…だ、だめ…だ。オレが生きたままなら…小狼君の…魔力も生きる。半分の魔力でも、大きすぎる……彼を、止められなく…なる」
『ファイ!!』
再び現れた侑子は眉を顰め、ファイが居るだろう場所に視線を落とす。その時、荒い息を交えながら彼は途切れ途切れに言葉を紡いだのだ。思わず握ってしまった彼の手は冷たくて、けれど、一瞬浮かべてくれた笑みは酷く温かかった。それを潰してしまったのは自分なのだと、泣きそうになった。
そんな時に響いた鈍い打撃音は、モコナの悲痛な叫び声を掻き消している。その音を出したのは黒鋼だった。石で出来ている筈の柱にはヒビが入っており、そこにどれだけの思いが入っているのか、想像する事は難くないだろう。歯を食い縛りながら前へと進む彼は、レイノやモコナの声では止まらず、衝動的にファイの胸倉を掴み上げた。
「……お前が、何でこいつを残して逝くんだ。守るんじゃ、ねぇのかよ」
「く、ろがね…」
「こいつは、お前じゃなきゃ…っ」
「っ…わたし、は、貴方に、こんなになってまで、守られたくなかった、のに、なのに、な、んで」
「…ごめんね」
殴るかと、思った。殺すくらいに憎いんだと、そう思ってた。けど、黒鋼の口から出たのは普段の黒鋼からは想像できない程の繊細な言葉で、その言葉は全部わたしを気遣っているもので、思わず呆気に取られてしまう。ああ、駄目だ。泣きそう。わたしが付いて行ったせいなのに。離れないで、って言われてたのに。本当だったらわたしがやられていたはずなのに。何で、謝るんですか。何で笑ってるんですか。何であの時と同じ言葉を、今、ここで言うんですか。
「魔女、こいつを死なせねぇ方法はあるのか」
『…あるわ』
泣くだろうと、思った。その予想は当たっていたらしい。力が入ってない魔術師の手を強く握って、額に擦り付ける。そんなレイノは、多分こいつの母国で幼馴染みとやらが死んだ時でも見なかっただろう。――何で、今だったんだろう。魔術師の為に流れるその涙がすごく綺麗で、場違いにも程がある感情を、俺は今、この場で初めて自覚した。確かに俺は魔術師を死なせない方法を魔女に聞いた。だが、本音はきっと「レイノを泣かせない方法」なんだろう。そして、目の前に映る魔女もきっとその事に気付いているんだろう。それでも俺は、この気持ちを誰かに打ち明ける訳にはいかなかった。だが、どこかで気付いて欲しいと思ったのもうそじゃない。
本能に忠実な自分を、俺は初めて憎く思った。
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