episode 109
嫌われてもいいから
『けれど、あたしがやれば対価が重すぎる』
『どうすればいいの!?』
「やっぱり地下の水が殆ど消えちまってる」
瀕死状態のファイの次に問題となったのは地下の水の減少である。この国の人々にとって、水は生きる為に必要なものなのだ。それがなくなったとなると死活問題となり、また、人々の不安も煽られるだろう。そう言った理由を考えての反応だと考えると妥当なのである。
「おれがあの場に現れたから…」
「いいえ。僕のせいです。この世界に来てすぐ、地下の水に沈んでいた力に引き寄せられて…」
目元を歪める小狼を慰める様に優しく頭を撫でてやるが、目元が真っ赤になっている状況では余り効果は無かった。寧ろ、逆に心配させてしまった様だ。切なげに、悲しげに歪む彼の顔を見るのは、酷く辛かった。そんな彼の言葉を遮ったのは昴流のそれである。そんな昴流の脳裏には数ヶ月前の記憶が映し出されていた。
数ヶ月前、僕と神威は次元移動の末、東京の地下に辿り着いた。おそらく入り口には見張りの人達がいたんだろうけれど、次元を超えて来た僕達が気付く事は無い。そこには何もない、ただ水があるだけの場所だったんだけれど、そこから微かに見えたのはキラリ、と輝く何かだった。
『水の底に何かある』
『凄く強い力だ』
何とも言えない強く、けれど、どこか優しいその力に僕の、僕達の吸血鬼の血が疼いたのは確かだった。それを自覚した瞬間、先ほど視認した輝きが一層増し、水の中から現れたものは僕の身体を包み込んだ。凄い勢いで水中に拘束されそうになる僕の名前を必死に呼びながら追い掛けて来てくれる神威は爪を伸ばし、何とか僕を助けようとしてくれていた。けれど、それは無駄な抵抗なのだと、僕はその時に、既に分かっていたんだ。だから神威の行動を制止したんだけれど、僕の全身に巻き付くそれはどんどん僕を外の世界から突き放して行った。
『昴流!』
『大丈夫。この力は、危害を加えるものじゃない。守ろうとしているだけだ、側にあるものを』
僕の身体に巻き付いていたものは球体へと形を変え、僕をその中に閉じ込めた。その中には僕や水の他に、淡い光を放つ二つの羽根がふわふわと漂っていた。おそらくそれが今回の件の元凶なんだろう。けれど、僕の力ではそれをなくす事も消す事も出来ないのだろう。神威には悪いけれど、少し待って貰う事になりそうだ。やっぱり貴女は全部知っていたんでしょう。
『昴流!!』
ねえ、侑子さん。
「眠ったままあの子を引き寄せてしまったのは僕です。だから、その後の事が起こるべくして起こったとしても、その場があの地下になったのは僕のせいです」
「…何がきっかけだとしても、無くなった水は戻りません。貴方には何か考えがあるようですが」
「はい」
昴流の視界の端には真っ赤に腫れた目元から涙を溢し、未だに意識が回復しないサクラの姿が映り込んでいた。早く目覚めてと、そうずっと伝えていた。けれど、あのタイミングで目覚めて欲しかった訳じゃない。話した事は無いけれど、きっと優しい子なのだろう。だからこそ、全てを引き起こしてしまった事に罪悪感しか湧かないし、僕はまた、自分自身に枷を付けて行く。
「お久しぶりです、侑子さん」
『そうね』
「お願いがあります。水が欲しいんです、この地下の水槽を満たす程の」
こうやって顔を見合って話すのは何時振りだろうか。顔を見合わせる侑子の顔には僅かながら笑みが浮かばれており、しかしそれは昴流の言葉により何時もの凛々しげなそれに戻ったのである。彼女に願いを言えば、必ず対価を与えなければいけない事は分かっている。分かってるからこそ、僕は貴女を頼るんです。そんな彼の気持ちを汲み取ったのか、彼女は一瞬だけ目を瞑り、レイノと黒鋼の方に視線を寄越した。
『…レイノ、黒鋼。あたしに、地下水槽をいっぱいにする水を頼みなさい』
「どう、して…?」
ふと呼ばれた自身の名にビク、と思わず肩を跳ねさせたレイノは真っ赤になった目元を擦り、モニターに映る侑子の顔を恐る恐る見上げた。その時の侑子の顔は何かを決めた様な、そんな顔をしていて。ちらり、と横を見やれば黒鋼は殺気が篭った視線で侑子を見つめていた。何も言わない彼に代わって、震える声で問いを投げ掛けると侑子は再び赤く彩られた唇を開いた。
『そして、昴流の願いをあなた達があたしに頼む代わりに、昴流に言いなさい。昴流の血、吸血鬼の血を、ファイに与えろ、と』
侑子のその言葉に、『小狼』とモコナは思わず眉を顰めた。吸血鬼の治癒能力は人間を遥かに凌ぐ。特に、神威と昴流は原種な為、その二人の血を受ければファイが死ぬ事は無い。しかし、モコナの中には色々な人の血を吸う様になるのではないか、と言う不安が過っていた。だが、それは「ただ吸血鬼の血を受ける」場合のみになるらしい。
『レイノ、黒鋼。ファイを死なせたくないのはあなた達の願い、ファイはそれを望んでいない。なら、あなた達も彼を生かした責を負わねばならない』
「何をすりゃあいい」
熱を持っているのだろうファイの左目からはとめどなく汗が垂れている。そこに覆い被さっている彼の長い金髪をさっと退けてやると、微かに空洞を感じ取る事が出来た。嗚呼、もう戻らないのだと。自分も被害者だとは思っていないけれど、わたしに力があれば何か変わったのだろうか、なんて事を何回思っただろうか。そんなレイノの頭を、黒鋼は雑に掻き撫でてみせた。ぱっと上を向けば、鋭い視線を侑子に向ける黒鋼がそこには居た。
『あなた達が『餌』になりなさい』
侑子のその言葉はレイノと黒鋼を人間扱いしていない事と同義の様に感じた。昴流の血を飲ませる時に二人の血を一緒に飲ませれば、そうすれば、ファイは二人の血しか飲めなくなるそうだ。本来なら簡単に決めて良い事ではないのだろう。けれど、迷っている暇などない事は重々承知だ。思わず生唾を呑み込めば、より真実味が増した様に感じた。
『それって、もし、レイノと黒鋼に何かあったら、ファイは…』
『死ぬわね』
「…分かりました、水の対価はわたし達が払います」
「だから血を寄越せ」
「…や…めろ」
「うるせえ!そんなに死にたきゃ、俺が、俺らが殺してやる。だから、それまで生きてろ」
震えるモコナの言葉に肯定の意を示した侑子の声色は冷たく、それが限りなく事実だと言う事を伝えてくれている。一瞬だけ目を瞑ったレイノは侑子の要求を呑み、神威と昴流に視線を向けた。金色に変化しているその瞳は僅かに警戒の色を表している。レイノと黒鋼の決心に途切れ途切れに言葉を挟んだファイだったが、それは黒鋼の激昂によって意味のないものとなる。そしてファイは、隣に居るレイノに目を向けた。
「レイノ、ちゃ…」
「…きっと、ここで死んだ方がファイさんは楽なんだと思います。けど、わたし、まだ、何も伝えてない。何も、返せて、ないです」
『レイノ…』
微かに泣きそうなモコナの声が聞こえる。きっと、今のわたしの顔は酷いんだろうなあ。さっき泣いちゃったから目元は真っ赤だろうし、きっと目も充血してる。こんな顔、晒したくなかったなんて言ったら貴方は「今更でしょー?」とか言って笑ってそうですね。血を与えてしまったらそんな笑顔も見れなくなるのかな。それはちょっと、寂しいかな。きっと、嫌われちゃいますね。余計な事するなって、心の中で思われてそうですね。けど、それでも、嫌われても良いから、「レイノちゃん」って優しく呼んでくれなくても良いから、ただ、生きていてくれるだけで、それだけで良いんです。
「だから、お願い。生きて、ください」
こんな時に気付きたくなかったんだけど、どうやらオレは君に馬鹿みたいに想われているらしい。力が入らないオレの手を震えを抑える様にぎゅう、っと握り締めるこの子はさっきからずっと泣きっぱなしで、守ると言ったオレが、どうしてこの子を泣かせる事しか出来ないのか分からなかった。この子の笑顔が好きで、温もりが好きで、それを守る為なら何だってしようって、そう決めていたはずなのに。なのにオレはどうしたって、君を傷付ける事しか出来ないんだ。そんな罪悪感が山ほどあるはずなのに、オレを想って泣く君の顔がとても綺麗だと、そう思ってしまっていると知ったら、君は何て言うのかな。
「…魔女、さん」
『何?』
「わたしは、大丈夫なんですよね……?」
『…ええ。大丈夫よ』
「…神威、さん。わたしの腕、少し深めに切ってくれませんか?」
「…何言ってんだ」
「お前、もしかして…」
再び雑に涙を拭い取ったレイノは服の袖を捲り、それを神威に差し出した。その直前に交わされた侑子との会話の意図を汲む事は二人以外には出来ず、黒鋼はただただ眉を顰めている。しかし、神威は違った様だ。思い当たる節があるのかレイノに視線を向けると、レイノは困った様に眉を下げて笑みを浮かべていた。――こいつも、俺達と一緒なのか。
黒鋼の手首に爪先を這わせ、レイノのそれに強く爪を突き立てた。ピリ、と感じる痛みは自分が一番嫌う感覚で、しかし、ファイはそれ以上の痛みを感じる事になるのである。そう思うと、我慢は出来た。神威の血が黒鋼の血と混ざり合い、それを受け入れたレイノの血は静かにゆっくりと、ファイの口元に落ちたのだ。
ごめんなさい、ファイさん。
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