episode 110
全てを請け負う

 レイノと黒鋼、神威の血が混ざり合った赤黒い液体がファイの体内に取り込まれた瞬間、ファイの細くも長い身体は弓形に反る事になった。優しく肌を包み込んでくれる指先は痙攣を始め、唯一残った右の蒼い瞳の瞳孔は開ききり、金色(こんじき)の猫目と変化を遂げていた。声にならない声を荒げるファイの状態はかなり異常で、何かに助けを求める様に必死に手を伸ばしていた。


「押さえろ。体の造りが変わるんだ、痛むのは当たり前だ」
「少しの間、出ていてあげてもらえますか」

 状況が一向に良くならない事に痺れを切らした神威は、ただただその状況を見つめるだけのレイノに言葉を吐き捨てた。その時の瞳は酷く冷たさを孕んでいた様に思う。ギリギリ、とシーツを握るファイの手は、力を入れすぎて震えている様に見えた。その手を包み込む様に優しく触れては上から黒鋼の手がファイの身体を押し付ける。しかしどうやらそれはタイミングが悪かった様で、痛みから逃れる為に身体を起こしたファイは彼女の腕に爪を突き立てたのだ。


「出ましょう。このひと達は逃げたりしません」

 肉に加えられる力に思わず顔を歪めるが、レイノはファイの両腕を掴んでその痛みから耐えた。逃げちゃ駄目だと思った。――わたし達が、わたしが決めた事だ。こうなる事は分かってたじゃないか。きっと目の前の彼は痛くて、辛くて、情けなくて仕方がないはずだ。わたしが、これを受け止めなくてどうするんだ。泣きそうになる意識の中で、颯姫の悲しげで、悔しくて仕方がない、と言った様な謝罪の言葉が密かに聞こえた気がする。
 それをただ見てるだけしか出来ない黒鋼と『小狼』、侑子とモコナはただただ顔を歪めていた。モコナの細目の瞳からはボロボロと大粒の涙が零れ落ちて行き、うわ言の様にファイの名を呼んでいる。そんな時、レイノの腕の肉がギリ、と音を立てて抉られたのだ。


「う"、あ…っ」
「レイノ!」

 思わず漏れてしまった声は、どうやら黒鋼に心配をかけさせてしまったようだ。脂汗が額に乗る中笑みを浮かべれば、彼と『小狼』は先程よりも顔を歪めていた。おかしいなあ、安心させたかったんだけど。嗚呼、痛い。すっごく痛い。わたし、痛い事は嫌いなはずなんだけどなあ。けど、ファイさんはきっとわたしよりも痛くて、辛い。そう思ったら守りたいって、守らなきゃって、覚悟を決めるしかないんだよ。


「っ…この人の左目は、どうなるんですか…っ」
「吸血鬼になる前の傷は治癒しない。抉られたなら、空ろなままだ」
『吸血鬼は不老不死ではないわ。それは伝説上だけの話よ。太陽も、聖水も弱点ではない』

 側に居る神威と昴流は原種らしく、驚異的な治癒能力を持っているらしい。その証拠に、先ほど傷付けた筈の神威の腕は綺麗な新しい皮膚で覆われていた。侑子曰く、後天的な吸血鬼は少し人間より丈夫で、老化スピードが遅いだけなのだ。しかし、ファイは元来強大な魔力な為に長命なのでそれはあまり変わりは無い。現に、既に黒鋼の何倍も生きているのだ。それはレイノも同じ事だ。


『今までと違うのは、生きていく為に血を、餌の血を必要とするという事』
「そんな事も知らずに餌になる事を承知したのか、魔女の取引がおまえらに有利かも分からないのに」
「あと数瞬、遅れてたらこいつは死んでただろう。それに、魔女が何を考えていようが、あれが信用してあの女に助けを求めたんだ。俺は、あれを信じる」
「…わたしも、一緒」
『…レイノ、黒鋼』

 侑子と神威の瞳は冷たいけれど、もう変わってしまった現実はどうにもならないのだから受け入れるしかないだろう。目の前で蹲るファイは未だに呻き声をあげていて、その細身からは想像出来ないほど力は強い。それを出している腕を強く掴んで、レイノはモコナに苦し紛れに笑みを向けた。どうやら今回は安心させる事が出来た様だ。
 その直後、レイノの身体の殆どはファイの身体で占められていた。どうやら痛みの余り、思いきり引き寄せられて掻き抱かれたらしい。相変わらず何処からそんな力が出ているのか分からない男だ。そんな時に割り込んで来たのは「もうひとつ」と言う凛とした侑子の声だった。


『奪われた左目を取り戻せばファイの魔力も戻る。そうすれば、吸血鬼の血も打ち消せる。ファイの左目が戻れば、あなた達の餌としての役目も終わるわ』
『ファイ、目が戻ったら血はいらなくなるんだね!!』
「…俺達を試したな」

 後に続いた言葉は侑子にとっては駆け引きを意味するもので、またわたし達は彼女の手の平で踊らされてしまったのだろう。それは、黒鋼の険しい表情が証明してくれていた。その瞬間、ズル、と重力に従順に落ちて行くファイの腕がある。目の前のファイは荒い息を吸っては吐いて、を繰り返し、汗を拭わず、解けてしまった包帯やボサボサになった髪を直しもせずに視線をレイノに向けた。僅かに絡みあったそれらは酷く気まずさを自覚させ、胸中でただただごめんなさいと、レイノは謝る事しか出来なかったのである。
 しかしそれは一瞬の事で、ファイは電池が切れた様にシーツの上に、レイノと共に崩れ落ちたのだ。思わずモコナは彼の名を呼ぶが、後ろから降り掛かる昴流の優しい笑みと言葉にそれ以上近付きはしなかった。そして、礼の言葉と共に神威の身体に抱き付いたのだ。


「…別に」
『ごめんね、ファイ。ファイ、優しいから、きっと、これからもっと辛い。でもね、やっぱり死んじゃったらやだよ』

 サラ、とファイの金髪に指を通せば、パラパラ、と僅かながら乾いた血がシーツの上に落ちた。きっと、すごく辛かった。分かっていたとしても、きっと悔しかった。分かっていたからこそ、何も変えられなかった事に悔しさとか、情けなさを感じていたんだと思う。それはわたしも同じなのだけれど、こうなってしまっては、きっと貴方はそんな気持ちでさえも共有させてはくれないんでしょうね。
 一方、サクラを抱えたままの『小狼』は、黒鋼に自身が身に着けていた眼帯を差し出した。それを抉られた左目に身に着ければ、凄惨なその姿も、少しはマシになると言うものだろう。痛みも和らいだその寝顔は、僅かながらレイノに安堵感を感じさせた。


『けれど左目が戻らなくても、ファイにはあなた達の血を飲まないという選択だって出来るのよ、どんな方法を使ってでもね。これからも笑っているからといって、その子が納得したとは限らないわ』
「…分かってる」
「取り敢えずは、地下の水、ですかね」
『ええ。モコナ、レイノと黒鋼と一緒に』
『うん』
「おまえも来い、姫もだ」

 気絶したファイを抱えた黒鋼は、僅かに抉られているレイノの両腕を見ては「大丈夫か」と優しげに問い掛けた。どうやらこの忍びはかなりの心配性らしい。大丈夫だと、その意思を伝えようと笑みを浮かべるが、黒鋼の顔の歪みは取れない。こんな傷、すぐに治ってしまうと伝えたら殴られちゃうのかな。
 そう自嘲気味に口角を緩めていれば、黒鋼は後ろに居る『小狼』とサクラに視線を向けていた。そして『小狼』もまた、未だに眠ったままのサクラが流す涙を拭い、レイノらの後ろに付いたのである。そして、場所は地上へと変わる事になる。




「何だかすごく揺れたみたいだけど」
「地下からだったみたいだが」
「水は大丈夫なのかな」

 未だに酸性雨は降り続いている。それは地上の建物をどんどん朽ちさせて行き、そう言った自然現象は我々の手ではどうする事も出来ないのだ。そんな中、こちらに群がって来る人々は先程の騒動によって響いていたらしい音を酷く心配している様だ。言うべきなのかは、分からなかった。けれど、見てしまった黒鋼の「言うな」と伝えて来るその鋭い瞳に、草薙は心を決めたのだ。


「ああ、大丈夫だ」

 何時もの柔らかな笑みを浮かべて人々を安心させる草薙は流石、と言うべきだろうか。実力的なリーダーは神威なのかも知れないが、精神的主柱と言ったリーダーは草薙に該当するのだろう。再び歩き出したのにも束の間、神威は表情を変えないまま、何かを感じ取ったのだ。その直後、近付いて来る音がある。自身らも良く使う、あのモーターバイクだ。それらは都庁の前で停止し、そこからは数名の人間が姿を現したのだ。


「何だか増えてるな、人数が」

 そう言った封真の手にあるのは、一行が探し求めていたものだったのである。

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