episode 122
久方振りの温もり
レイノは『小狼』と同時に着地するが、痛みからか、体幹が良くならない。そんなふらつく彼女を、彼は支えてみせたのだ。そんな二人の様子を見てほっと安堵の息を吐いたサクラには、「東京」以前のサクラの面影があった様に感じた。一方の敵の白(ホワイト)は大きく目を見開かせ、現状を受け止められない様である。
「チェックメイト!黒、WIN!」
再び兎のアナウンスがその場に響き渡る。その瞬間、騒然としていたその場は静まり返った。レイノと『小狼』の周りには身動きが取れない三人の男が横たわっている。そして、ステージを囲む茨には一人の男がぶらさがっていた。どうやら彼女の蹴りの威力があまりに強かったらしく、あの背の傷は暫く治らないのだろう。
「あれは俺が小僧に教えた…」
「小狼君が教わった事は、彼にとってもそうなんだね。彼は、小狼君と同じ日々を生きて来たんだ…あの目を通じて」
(それにレイノ、あいつ…)
「殺す気だった、とか?」
「な…」
「……なんてね」
先程の『小狼』の戦い方は、ファイや黒鋼にとっては目を瞠(みは)るものだった。もう一人の小狼に教えた筈のそれを、『小狼』は自然とやってのけた。『小狼』にとって、小狼が経験して来た事は確かに自分の糧となっているのだ。一方、レイノの戦い方には今までにはない、思い切りの良さがあった。あの一瞬、キラリ、と輝いた彼女の眼光には確かに殺気が孕んでいた様に思う。その事を言い当てられた黒鋼の肩は僅かに跳ね、思わず言葉にならない声を発していた。しかし、視界に入ったファイの表情は酷く穏やかだった。
それはまるで、「汚(けが)れなくて良かった」と言いたげだ。
「勝ったのに、ちっとも嬉しそうじゃありませんね」
レイノの様子をずっとモニターから眺めていたイーグルは、まるで答えが分かっているかの様に言葉を紡いだ。毎回、バトルが終わる度に彼女らの様子を眺めていたが、互いに勝利を分かち合う、と言った様子は見られない。それは、彼女らが借りているアパートに戻る際も同じだった。何処か距離を感じるその視線に、彼は酷く興味を持ったのだ。
「まあ、それも仕方ないか」
「ジェオには、言っておかなくていいのか」
「言ったらもっと怒りそうですから」
ぼそり、と呟かれた意味深なその言葉に、ランティスはただ眉を顰めるのみである。イーグルのやりたい事、と言うか、イーグルが頼まれた事には理解があるつもりだ。しかし如何せん自由なやり方を好む為、端から見れば酷く人道に反しているのだろう。「マフィア」と言う時点で人道もクソもないのだが。そんな非道な組織の中でも比較的常識的なジェオにとって、イーグルのこの思考回路は天敵なのである。
「さて、このまま行けば、最終戦に残るのはあの子達でしょうね」
嗚呼、早く解放されたい。
アパートに戻って来たレイノらは顔を合わせる事は無く、それぞれ、各々の行動を起こし始めた。彼女と『小狼』は茨によって傷付いた上半身の治療をし、サクラは再び自室に閉じ籠ってしまっている。そんなサクラに、ファイは付いて行ったらしい。物音が一切しないサクラの部屋の扉を見つめては顔を歪ませる事を繰り返す『小狼』は、見ていてただただ辛いものだ。
『黒鋼…』
先程までリビングに居なかった黒鋼はモコナの声を通り過ぎ、『小狼』に唐突に透明な液体が入ったグラスを差し出した。その行動を理解出来ない『小狼』はただただ瞬きを繰り返すしかない。時折とくり、と揺れるとろみのある液体はとても綺麗で、思わず手が伸びそうになる。しかしそれを我慢し、『小狼』は黒鋼の顔を見上げた。
「酒、飲めるのか」
「もう一人のおれが飲めたんだったら…」
「おまえは飲めるのかと聞いてるんだ」
黒鋼が差し出して来たのは酒だったらしく、彼の左手には酒瓶と二つのグラスが持たれていた。仕事終わりの一杯と言いたげなそのコミュニケーションの取り方は如何にも彼らしい、と言えるだろう。そんな彼の一言に、『小狼』は琥珀色の瞳を大きく開く事になる。この人はあくまでおれともう一人のおれを別の人間で考えてくれているのだ。そんな考えが思い浮かんだ瞬間、隣ではレイノが嬉しそうに笑みを溢していた。
「……分からない」
今の『小狼』には16歳までの記憶しかない。そこまでしか生きた事がないのだから仕方がないのだが。酒の味と言うのを嗜んだ事がない故にこう言った言葉しか出せないのだが、黒鋼はそんな『小狼』に右手のグラスを押し付けた。そして、レイノの隣に座り、唯一の楽しみな時間を開始させたのだ。
『うん!小狼飲んだらどうなるか、モコナ知りたいな!飲もう!』
「酒瓶ごと飲むつもりかよ」
『そんなー。勿論、そのつもりだよ!』
「黒鋼、わたしも飲みたい。お猪口ない?」
「あいにく、このぼろっちい部屋にはお猪口なんぞ、趣のある物はねーよ」
「黒鋼が趣ないもんね」
「何か言ったか自己中女」
「いふぁいってばあ!」
モコナが酒瓶に飛び付いた後、レイノは黒鋼からそれを奪い取った。そして彼に強請り始めたが、その彼から頬を引っ張られる、と言う反撃を喰らったのだ。その後に続いた「自己中じゃないし!」と言う反論はもはや聞き流されているのだろう。そして繰り出される彼とモコナの攻防を見つめては、彼女は『小狼』の頬に手を伸ばし、それを優しく撫でた。何時もの笑顔を浮かべて「大丈夫」と言う言葉を送った彼女は昔と何も変わっていなかった。嗚呼、いつもいつもこうだ。どれだけ悪態を付いても、最後にはこの少女に救われるのだ。
「…ありがとう」
擦り寄った先にあったお前の温もりは、ただただ優しかった。
「……分かってるんです。あのひとは……小狼君じゃないって」
自室に閉じ籠り、ベッドに俯いたままのサクラは唐突に、静かに言葉を紡ぎ始めた。「小狼」、たった二文字のその言葉を紡ぐのにここまで躊躇ったのは初めてだ。それはあの『小狼』が居るからだった。――たとえ、あのひとを素に創られたとしても、今まで色んな世界で会ったように、姿は同じでも違うひとだって、思っていたはずだった。なのに、駄目なのだ。顔だけじゃない、声も、仕草も、あの真っ直ぐな瞳も、同じ所を、似てる所を、見つける度に、その思いは儚く崩れて行ってしまうのだ。
「どうして…今、目の前にいるのが、小狼君じゃないんだろうって…」
「サクラちゃん…」
溢れた本音は、幾ら目の前にファイが居ても我慢できるものではなかった。一度も溢した事のないそれはただただ切実で、そして、痛々しい。思わずサクラの手に自身の手を重ねるも、彼女に向いていた意識はとある感覚で一瞬にして消滅したのである。それは何時か来ると思っていた。しかし、来て欲しくなかった感覚だ。
『ファイ』
(チィ)
『ファイ』
久々に聞く鈴が鳴る様なソプラノの声色は紛れもない、ずっとオレ達を守ってくれていたチィのものだ。しかし、それが聞こえたと言う事は、もう後戻りは出来ないと言う事を示していた。重ねて呼ばれる自身の名前に思わず眉間に皺が寄る。それ程までに、オレは目の前のサクラちゃんが見えていなかった。そしてその後に紡がれたチィの言葉に、オレは更に追い詰められる事になるんだ。
『王様、起きたよ』
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