episode 13
報われない努力
「…あなた、だあれ?」
小狼が手に入れたサクラの羽根は、彼女が目を覚ますには必要なものだったらしい。しかし、大切な姫君の口から出された言葉は彼の心を打ち砕くには容易いものだった。彼は目を見開き、先程まで強く握っていた彼女の小さな手をゆっくりと離す。彼女はまだ記憶が足りないのか、虚ろな瞳をしていて焦点が定まってはいなかった。こうなる事は分かってたじゃないか。それでも、傷付く心は確かにあった。嗚呼、本当の意味でおれは覚悟してなかったんだと、初めて悟った。
「おれは小狼。あなたは桜姫です。どうか落ち着いて聞いて下さい。あなたは他の世界のお姫様です」
「他の…世界?」
「今、あなたは記憶を失っていて、その記憶をあつめるために異世界を旅しているんです」
「…一人で?」
「いいえ、一緒に旅している人がいます」
「…あなたも…一緒なの?」
「はい」
大きい瞳はゆっくりと揺らめいていて、本当に誰だか分からない様だ。外で降っている雨は、小狼の想いを表している様だった。もう、笑顔は見る事が出来ない。あの元気な声も、おれを見かける度に大きく跳ねる身体も、何もかもが酷く昔の事の様に思えた。きっとそれは、おれの意識がここにはないからで。
「……知らない人なのに…?」
嗚呼、痛い、なあ。
「サクラ姫、はじめましてー。ファイ・D・フローライトと申します」
知らない人、と確かにサクラはそう言った。確かに彼女は記憶を失い、小狼との記憶は二度と戻らない、けれど、彼の心にはしっかりと残っているのだ。しかし、その言葉によってそれまで築いて来た二人の絆は一瞬にして砕け散ったのだ。ファイはどんな意図を持ち出て来たのかは分からないが、浅くお辞儀をし、小狼の気持ちを優先する様に軽く肩を叩く。
「で、こっちはー」
「黒鋼だ」
「で、こっちがー」
「レイノ・アン・クォーツです。レイノで良いよ」
「で、このふわふわ可愛いのがー」
『モコナ=モドキ!モコナって呼んでっ』
モコナは短い手を挙げ、レイノらと初めて会った時と同じ様にサクラと握手を交わした。小狼は涙は決して見せず、どんよりとした雰囲気を身に纏い、下宿屋の外へと歩を進める。多くの雨が降る中、小狼はずぶぬれになりながらも立ち竦む。その心は、やはり愛しい姫君を想っていた。
「泣くかと思った、あの時。サクラちゃんは小狼君の本当に大切な人みたいだから、だからこそ「だれ?」って聞かれた時、泣くかと思った。今は…泣いてるのかな」
「さぁな。けど泣きたくなきゃ強くなるしかねぇ。何があっても泣かずにすむようにな」
「これからも続くんですかね。こう言う、報われないこと」
「羽根を集める限り、そうだろうね。けど、泣きたい時に泣ける強さも、あると思うよ」
びしょびしょになって行く熱き少年の身体だった。濡れそぼっている小狼の服は肌に貼り付き、しかし、そんな息苦しさも今の彼には必要だった。そんな姿をレイノとファイ、そして、黒鋼はそっと見つめていた。三人の視界には淡い緑と透き通る蒼の羽が入る。炎の巧断と木の葉の巧断はそっと小狼に寄り添い、風の巧断と水の巧断は激しい雨から小狼を守る様に羽を広げていた。きっと今は、泣いているのだろう。
今だけ、今だけだからどうか神様、想い出に浸らせて下さい。
「眠っている間、誰かがにぎっててくれてたのかな。手…すごく…あたたかかった」
その温もりの正体をサクラが知る事は、きっと、ない。
「記憶がひとつ、戻ってしまったようですね」
「ああ。しかし、これからの旅も今回のような幸運に恵まれるとは限らん。次空を超える力は、必ず手に入れる。どれだけ血が流れようとな」
巧断達に見守られる小狼を巨大な鏡に映し、見つめる男の名は飛王と言う。その男に話し掛ける女性と視線が絡み合う事は無い。飛王は意味深な言葉を紡ぎながら笑みを浮かべた。脳裏に思い浮かべているのはきっと、悲願し続けた自身の夢の果てだろう。最初は純粋だったその想いも、今はもう歪んでしまっている。けれど、今更引き返せる事ではない。出来る事はただ会いたいと、そう願う事だけだ。
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