episode 130
ハンターの号哭
『だめ!絶対だめ!そんな事したらファイ、何も見えなくなっちゃうよ!!』
「オレが渡せる対価はそれくらいしかもうないか…」
ファイが言葉を紡ごうとするが、その場には突如、鈍い打撃音が響き渡ったのだ。それは言わずもがな黒鋼の拳で、それを見つめるファイの瞳は大きく見開かれていた。「東京」以降、黒鋼がファイの過去に踏み込む事は無くなったからか、この行動は何処か懐かしい様に感じる。黒鋼がやらなければレイノが動いていただろうと言うのは、僅かに浮かび上がった彼女の腰が証明してくれていた。
『黒鋼!!』
「ぶん殴るっつっただろうが。なんでおまえだけが対価を払う。姫の体が、そのセレス国とやらにあるなら、行くのはおまえだけじゃねぇだろ」
「でも…」
先程の打撃音に驚いたのはファイだけではなかった。余りに唐突なそれは、『小狼』とモコナも同じだったらしい。しかし黒鋼はそれには反応せず、ただ一言を告げてその紅の瞳でファイを見下ろした。そして、ファイの首輪に付いていた輪に指を引っ掛け、その身体を引き寄せたのだ。
「これまで姫とおまえの好きにさせたんだ。今度は俺の好きにする」
我慢の限界だった。何かを思っているくせに何も言わねえこいつらが、弱いくせにグチグチと何かを思うこいつらが。そんなこいつらを見る度に俺の中のイライラは溜まっていて、それを誰に言うでもなくただレイノの側にいた。そのせいで魔術師の歯止めが効かなくなっていた事には気付かなかったが。我慢、なんて俺の性(しょう)には合ってねーんだよ。
だからもう、お前の言葉は信じねえ事にする。
「おい魔女」
『失礼極まりない上にセンスの欠片もない呼び方ね』
「うるせえ。姫の魂のほうはどうなんだ」
『追うとしても今は無理。夢の中には魂しか行けないから。それに、もう一人の小狼が来るには、まだ時間がある』
『サクラ、夢の中で寂しかったり辛かったりしてない?』
『…姫は独りじゃないわ。夢の中で出逢う者が、また未来を変える切っ掛けになる』
ファイの首輪に付いている輪から指を離した黒鋼はそれ以降、ファイと視線を合わせる事はせず、それをモニターに映る侑子に移した。そこで繰り広げられるちょっとした口論は相変わらずで、レイノが思わず笑ってしまえば、黒鋼はそちらに鋭い視線を向けたのだ。離れた場所にいて良かった。ほっと安堵の息を吐いて身体の力をゆっくりと抜いている間にも話は進んで行き、レイノが次に気付いたのは侑子の言葉にはっと顔を上げた『小狼』の姿だった。
『大丈夫よ、四月一日も消えていない。そして、あの子の未来も変わって来ている』
「誰だそれは」
『今はまだ関わりのない話よ、今はね』
「魔女さんってほんとすぐ意味深な言い方しますね」
『あら、回復したの?』
「…ほんっと良い性格してますね」
『…それで?』
「やっぱり急ぐのは体か」
『モコナも行く!』
「おう。レイノ、お前は?」
「行く。まだちゃんと怒れてないし…それに、まだ、ちゃんと仲直り出来てない」
「…おまえはどうする?」
「セレスへ行く。おれを閉じ込めていた者が、姫の次元の記憶が刻まれた体を欲しているなら、何をするか分からない」
レイノと同じく『小狼』の表情の変化に気付いた侑子は優しげな笑みを携え、囁く様に声を空気に混ぜて行く。――嗚呼、優しいなあ。その優しさが心に融けて行く様で、とても心地が良かった。そう感じたと同時に、身体にあった穴も完全に塞がったらしい。相変わらず恐ろしい身体だけれど、少しずつ何かに侵食されて行く気がするけれど、まだ、大丈夫だ。ファイさんと、サクラちゃんと仲直りをするまでは死ねない。そう言えば、黒鋼がふ、と頬を緩めた気がした。
『小狼』の腕の中からファイの身体に飛び移ったモコナは、ただ一言だけ「一緒に行こう」と、そう告げた。その時のファイの表情はやはり驚いていて、ここに来て初めて見せる表情ばかり見る事になろうとは、何とも皮肉だろうか。
『ファイと黒鋼とレイノと『小狼』とモコナ、みんなで5分の1ずつ対価を払って一緒に行こう。サクラを助けに』
「けれど…」
「…おれが知っていたのに何も言わなかったのは、さくら…姫が、貴方を信じていたからだ。嘘をついていたとしても、その嘘ごと姫は貴方を信じてた。あの時、貴方を頼む、と姫は言った。だから、おれも貴方を信じる」
『ファイが独りだったら、サクラ、きっと悲しいよ。みんなと一緒だったら、サクラ、きっとすごくすごく喜ぶよ』
「けど、オレは…」
今まで真っ直ぐに気持ちを向けられた事がなかったのだろう。無垢な優しさを受けた事がないのだろう。それがかわいそう、だとは到底思えないが。無条件に愛される筈がない、とまだそんな事を思っているのだろうか。もしかして、何かが気がかりなのだろうか。そう考えた瞬間、レイノの身体には何処か申し訳なさげなファイの視線が突き刺さった。その瞬間、今まで我慢していたものが爆発した様に彼女の身体は大きく動いていた。嗚呼、その時に黒鋼の事を言えないほどわたしはキレやすいのだと改めて感じたのだ。その場に再び響いた打撃音は、ファイらの度肝を抜くには充分な威力を持っていた。
「…レイノ…」
「……何なんですか、その目。同情でもしてるつもりなんですか」
「ちが…っだって、オレのせい、じゃん、その怪我」
「何の為に身体張ったと思ってるんですか、全部貴方を守る為ですよ!怪我を負う事くらい覚悟の上です!」
「け、ど」
「わたしが同情で身体張ると思ってるんですか?情けで身体許すとでも思ってるんですか……?わたし、そんなに器用じゃないです」
「レイノ、ちゃん」
「嫌いな人に身体を許す程、わたしは器用じゃないです!」
隣では『小狼』がひくひく、と口角を引き攣らせている。視界には入っていないけれど、多分黒鋼と侑子は楽しげににやにや、と笑みを浮かべているんだろう。けれどそんな事を気にする暇がないわたしは、自身が飛び蹴りを喰らわせたファイさんを見下ろしていた。少しだけ腫れている左の頬はわたしのせいだ。肌が白いからか、良く映える。
そんなファイさんが眉を下げる姿を視界に入れて、わたしは言葉を次々と吐き出した。色々と墓穴を掘っている気もするけれど、明らかに赤面しているモコナを見てしまったけど、この際気にする事じゃない。
暫くの間、この空間は静寂に包まれる。誰か喋れば良いものを。――誰か、と言うかファイさんしかいないけれども。この静寂が長引けば長引く程、わたしの顔には熱が集まっていた。怒るだけ怒ってしゃがみ込むなんて馬鹿丸出しな所なんて見せたくない。だから我慢して必死にファイさんの顔を見てたのに。
「……えっ」
そんな真っ赤な顔されたら、わたしはどうすれば良いんですか。
「……っ…もうやだ、知らない、ばか!」
「えっ、は、ちょ、待ってレイノちゃん!」
「やだ来ないで下さい!」
「そんな真っ赤な顔して来ないでとか何言ってんの!」
なぜか一気にぶわあ、と恥ずかしさが込み上げて来て、わたしは捨てゼリフと呼ばれるものを吐いてこの空間から逃げる事を選んだ。後ろからはファイさんの必死な声と心底おかしい、と言いたそうな魔女さんの笑い声が聞こえる。自動ドアが閉じられて、空間が二つに区切られてからはファイさんの声しか聞こえなくて。追いつかれる事なんて分かってるはずなのに、わたしはなけなしの意地でどこかの部屋に逃げ込んだ。
(気付かれた!絶対気付かれた!何で言っちゃったんだろう馬鹿かな!?)
『……レイノちゃん』
「っ…」
『開けてくれない?』
「っ…い、やです」
『…どうして?』
「……かお」
『え?』
「かお、へん、だから」
自動ドアではない、ドアノブが付いた扉を背にレイノは現在進行形で自己嫌悪に陥っている。きっと顔は羞恥心で真っ赤だ。こんな顔、扉を隔てた向こうに居る人に見せる訳にはいかない。そう、思ってた筈なのに、どうしてだろう。どうして目の前に、彼がいるのだろう。
『顔、見たいんだ』
その理由が、わたしが甘える様な貴方の声に弱いからだと言う事は知ってるけれど。
「…ほんとだ、真っ赤」
「さ、わらないでください」
「嫌だよ」
「なっ…」
「その顔、自惚れても良いんでしょ?」
僅かに腰を折ったファイは、「東京」以降には見せなくなった優しげな、柔らかな笑みを浮かべてその大きな手でレイノの顔を包み込んだ。温かなそのぬくもりは久し振りに感じるもので、気持ちが向かい合っていないと感じれないものなのだと、今やっと気付いた。けれどそれを認める事は難しくて、その手を払い除けようとする。しかし、その後に続いた彼の言葉に彼女は何時だって折れてしまうのだ。
「…自惚れたら、何するつもりですか」
「何もしないよ」
「……散々襲って来たくせに」
「…ごめんね」
自身の顔を包み込んで来るファイの手に自身の手を重ね合わせ、拗ねた様に唇を尖らせては視線を逸らす。そんなレイノの様子に苦笑しながらも謝罪の言葉を連ね、彼はそっと彼女の額に唇を落とした。抵抗されない事が、彼女から恐る恐るながらも愛情を注がれている様で、心が優しく、温かい。レコルト国から増幅し続けていた黒い感情は何処かに消え失せていた。――ああ、何て単純なんだろう。
「…本当に何もしませんか?」
「うん」
「今、キスしたくせに」
「…キスも駄目?」
「口は、だめ」
「…じゃあ、抱き締めさせて。オレの隣にいて、一緒に寝て」
舌を絡める、だなんてするつもりは無かった。けれど、舌っ足らずな「だめ」と言うその言葉は可愛げと色気を同時に孕んでいて、ずくん、と悪寒が走るのは仕方ないだろう。それを抑える様にレイノちゃんの華奢な身体を抱き締めて、備え付けられていたベッドに腰を下ろす。ギシ、と響くスプリング音は酷く甘美だった。するとふと、オレの背中に温もりが増えた。この状況ではレイノちゃんしか有り得ない。
「……レイノちゃん?」
「はずかしい、ので、あまり、みないで……」
「うん」
「ちょっと!話聞いてます!?」
抱き締め返して、そのままベッドにオレを押し倒したレイノちゃんは耳まで真っ赤だった。驚いた。恥ずかしそうに途切れ途切れに話すレイノちゃんは甘える事を知った無垢な少女の様で、オレは宥める様にレイノちゃんの首筋に口付けた。そうすると自然とレイノちゃんの顔は見えてしまう訳で怒られてしまったけど、こんな時間も久し振りだ。その事実が嬉しくて堪らなかった。ぎゃいぎゃいと騒ぐレイノちゃんの声を頭に残しながら、オレは久し振りにゆっくりと眠る事が出来たのだ。
『…良いのか?』
『別に俺はあいつとどうこうなりたかった訳じゃねーよ』
『おっとこらしいわねえ』
『茶化すなクソ魔女』
『『小狼』は気付いてたの?』
『伊達にレイノの幼馴染みをしている訳じゃない。他人に感情を曝け出せるレイノを見る機会はあまりなかったから、何となく。それに…』
『それに?』
『あれだけの感情を向けるあの人なら、絶対大丈夫だと、そう思っただけだ』
こんな会話がなされていた事を、レイノらが知る事はきっとないのだろう。
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