episode 131
覚えていたい

「ん…」

 今日は夢を見なかった。真っ暗な水底にずっと落ちていた様な、そんな感覚だ。その中に仄かな光が現れ、それに身を委ねればゆっくりと桃色の瞳が姿を現したのだ。しかし、何時もならば見える筈の仄暗い光が見えない。それどころか、何処か温かいのだ。人の温もりの様な、そんな感じだ。ふと、視界の端に金色が見えた。その瞬間、レイノの脳内は完全に覚醒したのだ。


(ファイさん、だ……)

 男にしては真っ白な肌に降り掛かる金髪は細く儚くて、まるで絹糸の様だ。小さな顔にバランス良く配置されているそれぞれのパーツはとても美しくて、こんなに綺麗な人間が居るのだろうか、と考える。完璧なものを見ると儚さを感じてしまうのは必然であろう。そっと頬に手を伸ばすと、指先に冷たさを感じる。嗚呼、全て温もりを奪ってしまったんだ。ぎゅう、と先程よりも力を込めるとファイの身体が身じろいだ気がした。


「ん、ん…」
(あ、やば…)
「おはよう、レイノちゃん」
「っ…お、はよう、ございます」
「何で驚いてるの?」
「い、いや、あの…昨日、ほんとに何もしなかったんだなあ、って」

 ファイのくぐもった声に気付いたレイノは僅かに焦り、手を離そうとする。しかし彼の手はその動きを上手に止め、その顔に笑みを浮かべたのだ。昨日は気持ちが昂っていたから良く分からなかったが、その笑みは自身が求めていたものだった。そんな事を思っているとは露知らず、彼は苦笑を浮かべてベッドから腰を上げる。しかし、その背に掛けられた言葉に思わず目を丸くしたのだ。


「……誘ってる?」
「何言ってるんですか!純粋な疑問です!」
「…何もしてないよ。抱き締めてただけ」
「…わたし、朝食のお手伝いに行って来ます。出来上がったら呼びに来ますので、それまでゆっくりしていて下さいね。ファイさん」
「うん……」

 少しふざけて問いかければ、レイノちゃんは顔を真っ赤に染め上げて朝だと言うのに少しだけ声を荒げてみせた。自分で言うのもなんだけど、結構色々と酷い事をして来たはずなのにどうしてこの子はこんなにも純粋なんだろう。オレに向かって笑みを浮かべて、挙げ句の果てにはオレの身体を気遣ってくれる。こう言う馬鹿みたいにお人好しな所は彼に良く似ているし、こう言う所にフェンリー君も惹かれたんだろうなあ。




 朝食を済ませた一行は、イーグルが用意してくれた衣服に身を包む事になった。黒鋼と『小狼』の服は似た様な類だが、黒鋼はきっちりと前を閉め、腰にポシェットを吊り下げている。そして、前方には二本の白いラインが連なっていた。『小狼』は胸元だけをベルトで留め、踝(くるぶし)辺りまであるコートを風に揺らしている。そこの隙間からは太めのベルトが見え隠れしていた。レイノとモコナは(どうか分からないが)上半身を包み込む程度の黒いコートを羽織っている。彼女は中に黒いワンピースを着用し、足は黒いタイツで冷たい風を遮断した。足は黒いショートブーツを履き、動きやすい仕様となっている。


『お洋服、貰っていいの?』
「ええ。次に行かれる国はかなり寒い所だと聞きましたから。貴方達の事情を知っていて黙っていたお詫びです」
「監視してた件もな」
「やっぱり気づいていましたか」
「おまえ達以外にもいたようだがな」

 コツ、とヒール音を響かせれば、所々から小さな瓦礫が砂になって行く。そんな中を通るレイノの顔付きは昨日気持ちを爆発させたお陰か、何処かすっきりとしていた。そっと砂を拾い上げるが、それは指の間からするり、とすり抜けて行く。その儚さが少し嬉しかった。黒鋼が意味深な言葉を残すと、ファイが姿を現す。そのファイは「セレス国」の服を身に纏っており、懐かしい感覚に襲われた。違う所と言えば、片目がない、と言う点くらいだろうか。


『大丈夫?』
「大丈夫だよ」

 神妙な顔付きで問い掛けるモコナに、ファイは儚げながらも笑みを返した。元気がなさそうにも見えるが、その瞳は柔らかく、本来の優しさが垣間見えた気がした。「東京」以降に失われた余裕をきちんと取り戻しているのだ。その証拠に、彼の様子を案じているレイノの頭を優しく撫でていた。ふと、モコナの額の石が光を放つ。そこから広がるモニターには侑子が映っていた。


『みんな、用意出来たよ』
『では、五つの対価を。チェスの優勝賞金を寄越しなさい。チェスは姫だけじゃない、貴方達、みんなで参加したもの。己の力で勝ち取ったものだから対価になるわ』
『…モコナは参加してないよ』
「いや、ちゃんと一緒だった。待ってくれてると分かっていたから、帰る為に頑張れたから」
『『小狼』…』

 そして告げられた対価に、一行は目を見開く。正直な所、何を対価にされるのか予想出来なかった、のが本音だ。それに、レイノは何処か引っ掛かる部分がある事を否めない。あの「次元の魔女」が、情けなどを寄越すだろうか。しかし、その違和感は次の侑子の「条件がある」と言う言葉で解決される事となるのだ。


『モコナが移動する時、レイノ、ファイ、あなた達も一緒に移動魔法を使いなさい』
「…はい」
「…どうしてわたしも?」
『貴女、最後に寝返ったじゃない』
「その言い方ほんっと悪いんで止めません?」

 その「条件」を告げた侑子を真っ直ぐ見つめる二人を、正確にはファイを、『小狼』はじっと見つめていた。諦めた様に蒼い瞳を隠したファイとは対照的に、レイノは首を傾げたが強ち間違いでもない一言に苦笑を浮かべたのだ。ぐさり、と心を貫く一言だが、勝手に行動してしまった手前、何も言えないのである。そんな中、『小狼』の脳内にはもう一人の自身の瞳を通した記憶が映されていた。


「ごめん。これも、嘘ついてたね」
「いや…」
「モコナ。蒼氷、出してくれるかな」
『え?』

 そんな『小狼』の様子に気付いたのか、ファイは何とも言えない笑みを浮かべる。しかし、そこにはちゃんとした微笑は存在していなかった。これはレイノも気付いていた事だ。気付いて、言及しようとして、そして何も出来なかった事だった。力がある者は同じ力に惹かれやすい。だからこそレイノが気付けた、と言う事もあるのだが。
 唐突に掛けられたファイの言葉にモコナは思わず持ち主である黒鋼を見上げるが、反応は無い。寧ろ、それを容認するかの様な佇まいだ。それを見届けたモコナは戸惑いながらも口を大きく開ける。すると、そこからは光を放ちながら蒼氷が現れたのである。そしてそれは、ファイの手に収まった。


「手を」

 ファイのその声に眉を顰めながらも、黒鋼はそっと左手を差し出した。その上で、ファイは指で何かをなぞる様にそっと滑らせる。それは複雑な文字となり、小さな円を作っては仄かに光を放った。そしてその円に向かって蒼氷を近付けると、それは次々と円に引き込まれ、最終的に黒鋼の手中に収まったのである。


「モコナが側にいない時、剣がないと困るから。彼が手から剣を出すのと同じ方法だよ」
「…いいのか」
「もうたくさん使ったからね、魔力」

 そう言って顔に浮かんだ笑みは先程とは違い、爽やかだった。あれだけ頑なに使いたがらなかった魔力だが、暴走した後ではその誓いも無意味なものである。何処か吹っ切れた様子のファイを見ては、ギュ、と力強く拳を作る。無駄にはしないと、そう伝えられている気がした。


『レイノ…時間は、無いわよ』
「…はい、分かってますよ。すぐに済ませます」
『モコナ』
『はい』

 侑子の言葉は何時も端的だから困る。けれど、今回ほどそんな彼女に感謝した事は無かった。違和感や疑惑を感じる事はあっても、それが何かは分からないだろう。これは自身だけの問題だから、どれだけ顔を歪められても、心配そうにこちらを見られても言う事は無いのだろう。必ず戻ると、そう決めているから。きっと大丈夫だと、そう信じている。
 侑子の声と共にモコナの背からは羽根が生え、ファイの細やかな指先で円状に文字が描かれる。それを見兼ねたレイノは両の手の平に魔力を集め、それを円状に膨らませて自身を含む一行を包み込んだ。それさえも覆い隠す様な柔らかな風は一行の姿を隠して行き、その姿らを次の国へと運ぶのだ。


『行きなさい、セレス国へ』

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