episode 136
幸と不幸を孕んだ手

 ふと、風を切る音が耳に届く。空を仰ぐと、そこには雪と共に降りて来るものがあった。うそだと信じたかったそれは、ゆっくりと、そして確実に近付いて来る。互いの蒼い瞳には互いの姿が映り、それが交錯した瞬間、重なる様にとある記憶が頭に流れ込んで来るのだ。
 格子が見える。どうやらこの記憶はファイのものの様だ。どうやら目の前に居る男はファイの元へも行っていたらしい。そして、同じ様な質問をファイに投げ掛ける。ぼそり、と白い息を吐き出しながら紡がれた一言は、ユゥイに絶望を与えるには充分だった。そして、その後に響いた重苦しい音が、ユゥイに現実を見せたのだ。


『…ファ…イ』
『おまえは選んだ。その結果がこれだ。おまえが選んで消した命、おまえはその責を負わなければならない。――これは、呪い』
『ファイ!!』

 恐る恐る、視線を下に向ければ、そこには夥しい程の血液を撒き散らして絶命したファイの姿があった。それを「これ」と表した目の前の男は、そっと笑みを携える。膜の向こう側で震えるユゥイに、ほくそ笑んでいるのだ。そして、畳み掛ける様に休む暇もなく言葉を紡いで行く。その言葉は、ユゥイの精神をおかしくさせるには充分だった。しかし、そんなそれを救い上げる様に、男はそっと囁く。


『やりなおしたいか、選択を。戻したいか、時間を』
『そんな事…出来な…』
『出来るとしよう。どうする、死んだ者を生き返らせる術があるとしたらどうする』
『ファイ…を…』
『その為に、おまえにはやって貰わねばならん事がある』
『何…を?』
『もうすぐ、おまえを迎えに来るものが現れる。おまえはここから出られるだろう』

 淡々と紡がれるその言葉達は、冷静に考えれば有り得ない事ばかりだった。けれど、その時のユゥイの心の状態では、その言葉は神の様な、酷く神聖なものに成り代わっていたのだ。地面に広がる血がなくなって、元気に笑顔を浮かべるファイが頭の中に現れる。そうなれば、どれだけ良いか。きっと、幸せになれるのに。
 何時の間にか縮小していた狭間からは、男の手しか見えなかった。そこから響くのは、自身が背負わなければいけない業(つみ)である。「強大な自分の魔力を凌ぐ者が目の前に現れたら、その者を殺す」と言うそれはインフィニティで既に解かれているが。しかし、その後に続いたもうひとつの呪いを言う直前にふっと画面が変化した。




 次の場面は、周りの景色が残像になる程の大きな地鳴りから始まる。絶命してしまったファイを抱え、ユゥイは再び空を仰ぎ見た。雪が止んでいるのを見たのは初めてだったと思う。その代わりに落ちて来るのは塔を形成していた石の瓦礫である。それは次第に巨大な物となり、それから守る為に、ユゥイはファイの身体を覆い隠した。ユゥイと話していた男は何時の間にか消えており、あの不思議な空間も消えてしまっている。それを境に谷はどんどん壊れて行き、周りでは痛々しい音が響き始めた。


『世界が…滅ぶのか……』

 そうして、最後まで残っていた塔までもが崩壊して行く。この国の中でも頭一つ抜きん出ていたそれは、錆になった様にゆっくりと地面に落ちて行くのである。しかし、それと入れ替わる様に宙に浮いた水が現れる。それはゆらゆら、と動きながら人の形となり、ユゥイの前に降り立った。


『迎えに来た』
『…地獄から……?』
『別の世界から。――ここにいたいのかな』
『やらなきゃ…ならないことがある…から』
『それならここにいてはいけないね。生きなければ』

 突如として現れたその男は、さらり、と胸下まである黒髪を靡かせてユゥイに近付いて行った。そんな彼に対して、ユゥイは警戒する様に長い金髪から蒼い瞳を覗かせてそれを向ける。その瞬間、ファイを抱き締める腕の力が強まった気がした。こうなってしまったのには、周りの大人の利己主義的な思考が原因なのだと思う。簡単に人を切り捨てるその姿は、酷く醜かった。けれど目の前の男は静かな瞳を向けながら、決して罵言を口にはしなかった。自分の存在を認めてくれる様な、そんな言葉にファイはピク、と僅かに反応を示す。「不幸でいるために?」と問い掛けるが、その男は静かに首を振り、「願いを叶える為に」とただ一言、そう告げたのだ。


『行こう。世界はここだけじゃないから』

 そう言った男は、その行為が当たり前だと言いたげにこちらに手を差し出した。それに、ユゥイは光を見た。大人に救われた事は、頼った事は、記憶の限りではなかった様に思う。実の親でさえ、「不幸の双子」と謳われた二人を捨てたのだ。けれどこの男は、それをする事は決してなかった。―――信じても、良いのかな。口には出さずに問い掛ける。けれど、ここに縋り付くしかない事は分かっていた。そんなユゥイはそっとその手に触れる。久し振りに感じた人肌は酷く温かかった。


『名前は?』
『……ファイ』

 これが、「ファイ」と言う存在が生まれた瞬間だった。





「そう。その子の記憶を受け取った君なら知っている筈だ」

 アシュラが差し出した手に、ファイは触れていた。これはもう、条件反射の様なものだ。心の奥底に根付いている「嫌われたくない」、「裏切ってはいけない」と言う思いがファイの身体を動かしていた。しかし、言った事のない自身の本名はアシュラには知られていたのである。また、その理由もアシュラには筒抜けなのだ。それに加え、「けれど」とアシュラは優しげな笑みでファイを追い詰めて行った。


「それでも、君の罪は消えないよ。――大丈夫。君と一緒に来た三人にも視てもらっているから、君の過去を」

 そう優しく語り掛ける様に言葉を紡いだアシュラは、昔と変わらない静かな瞳を後ろに居る筈のレイノらに向けた。そこには苦しげに頭を押さえる『小狼』と、そんな『小狼』を支えながら前を睨み付ける彼女と黒鋼が居たのだ。怒っている、と言うよりかは何が起こるか分からない、そんな不安があった様に見える。そんな同行者らを見つめるファイの傍ら、アシュラは「本当の君を視て貰おう」と、再び口を開く。


「過去に君がした約束を。君が、知っていた事を」

 その言葉を引き金とし、場面は再びヴァレリア国の谷底となった。




『…それが、もうひとつの呪い』
『……え?』
『覚えている必要はない、この呪いはな。そして、おまえには旅に出てもらう。様々な世界を渡る旅に』

 頭の中に靄(もや)が掛かった様に何も思い出せない時が、一瞬だけあった。それが何なのか、ユゥイ――基い、ファイ――は今も思い出す事が出来ない。そんな彼を置いて、目の前の男はほくそ笑みながら次々と言葉を放って行く。それをただぼうっと聞く事しか出来ないファイは、ただひたすらにこの現状を享受するしか術は無かった。それでも生きる為に、願いの為に、ファイは男の言葉を頭に入れるのである。


『砂漠の姫と、こちらが用意した写身と共に』

 ――我が一手として。


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