episode 141
絶望の底の涙
「約束したね、ファイ。この国の人々に害をもたらすものは滅する」
過去の言葉をなぞる様にそっと紡がれるそれは、一文字も違(たが)ってはいなかった。それがファイの脳内でぐるぐると巡り、一向に離れてはくれない。それでも向き合わなければいけないと、彼は黒鋼に頭を押さえ付けられながら視線を前に向けた。そこに居るのは虚ろな瞳を携えたアシュラだけで、やはりどうしてもアシュラの思いを汲み取る事は出来なかったのだ。
「それが、何者であっても」
その言葉の真意に気付いた時には、もう全てが遅かった。
『民達は逃がしてしまったんだね、他の国に』
何時だってアシュラはファイよりも高い位置に立っていて、そこからファイを見下ろしている。それ自体に嫌悪感を抱いた事は無く、寧ろ安心感さえあった。こんな時でさえも、この位置だけは変わらないのだと安堵の感情を覚えていた。けれどファイの眉間に生まれた皺は取れない。どんどん深くなるそれは、何時まで経っても目の前の現実を受け入れられずにいた。
『私の魔力は、人を殺めれば殺める程強くなる。もうそろそろ君より強いかもね、ファイ』
『何故…』
『さぁ、何故かな。けれど、分かっていた事だ。いつかこうなるのは』
『だからオレを連れて来たんですか、いつかこうなる貴方を…』
血に塗(まみ)れた手を仰ぐと、そこからは未だ固まっていない血液がぽたり、ぽたり、と地面へ落ちて行く。生々しいその光景は、やはり到底信じられるものではなかった。その為に連れて来られたのだとしても、ただ嫌だった。――それでもただ指を向ける事しか出来ないオレは、酷く弱いのだろう。
『――殺させる為に』
ハア、ハア、と言った荒い息遣いが響く中、パラパラ、と城内の柱の瓦礫が降り注ぐ。そんな中で生きているのは、やはりファイとアシュラだけだった。そんなファイはカタカタ、と震える手を押さえながら、文字式の魔術でアシュラの身体を絡め取る。この震えは寒さなどではない、ただの怯えだ。
『それは私が教えた呪文だね、人を眠りにつかせる為の魔法。魔法は永遠ではない、暫くすれば私は目覚めてしまうだろう。約束を守ってもらうのが少し先に伸びるだけだよ』
『……出来ません』
その文字はどんどん増幅して行き、アシュラは自身の瞼がゆっくりと重くなって行くのを感じた。それでもうっすらと見えるファイは目の前の光景を見ない様に固く瞼を閉じており、相変わらず残酷な程に優しい、と改めて思う。その事に今まで気付かない事は、叱ってやらなきゃいけなかったんだろうけど。ゆっくりと瞼が閉じる。ゆっくりと眠りに落ちる私は、最後の言葉を口にした。
『いつも、君を最も傷つけるのは、君のその優しさだね。ユゥイ』
その時に落ちた涙は、一体何処へ向かうのだろうか。
水底に沈めたアシュラは穏やかな表情で眠っており、おそらく本当に魔術は効いている様だ。そんな彼は、ファイの片割れの横に並べられた。ガラスの入れ物にはセレス国の紋章が描かれており、遠目から見てもすぐに分かるだろう。そんなアシュラを治す為の魔法を使えないファイは、アシュラを救う事も出来ない。ただ眠らせて、願う事しか出来る事は無かった。――治癒魔法があれば、狂う以前の貴方に会えたのかもしれないけれど、それこそ「ないものねだり」と言うものだ。それでも何かを返したい、そう思ってしまうオレは傲慢なのだろう。そんな葛藤さえなかった事にして、オレはただ願うのだ。
『せめて、眠りの中では良い夢を』
アシュラを眠らせてから数日、ファイは血塗(まみ)れになった城内をゆっくりと眺め、歩いて行く。アシュラとの戦いのせいで汚れた上着は自室に干す事にした。来たるべき時には、綺麗に乾いていると良いのだけれど。娯楽室では、ファイの同業者の誰かが何時も居た。酒を呑みながらダーツやビリヤードなどを楽しむ事が出来る、バーみたいな場所だ。大人になってから入り浸る様になったこの場所で、ファイは楽しくて笑う事が普通の事なのだと知った。そんな幸せな思い出の場所も、今では溢れんばかりの血が広がっているだけだ。
空腹を感じたので、ファイは期待も何もせずに食堂へ向かった。やはりそこもボロボロで、食料も何もないんだろうな、と言う事が見てとれる。キッチンを覗いてみると、血を流しながら寝そべっている女給やコック長が居た。幼い頃、食べる喜びを知らなかったファイに何かと食べ物をくれた記憶がある。今思えば少ない同情心があったのだろうが、幼い自分にとって、それはとても嬉しかった。けれどそんな優しささえ、今はもう僅かにしか残っていない。もう少し早く気付いていれば取り戻す事も出来たのではないか。そこまで考えて、ふと思い出す。――ああ、オレは誰も救えないじゃないか。
冷蔵庫の端の方に保存されていた果実を口の中に放り込み、ファイは再び長い長い廊下に足を踏み入れる。暫く歩いていると、仄かな明かりが視界の端に映り込んだ。書庫、だろうか。成長した自分の何倍もの高さがある本棚は、その高さで自身を圧迫している様だ。そんな本棚を一つずつゆっくり眺めていると、真っ白な背表紙のとある本が目に付いた。それを取り出し、ぱら、と捲って行くとイラストと文章が連なったページに目が惹かれたのである。
『――は、はは』
それは見た事のあるイラストだった。風に靡いているであろう金の髪は人工的なものだと言うのに酷く美しい。僅かにぼやける刀身は、きっと描かれる少女のものだ。冷たい金色(こんじき)の瞳も、寒そうなワンピースも、太陽を知らない白い素足も、全て見覚えのあるもの達ばかりだ。そして、その横に綴られるのは「Убийственные импульсы」と言う単語である。意味は、――殺戮衝動。その上に太字で書かれている文字に、ファイは乾いた笑い声を漏らし、膝を折ったのだ。
『オレは、――誰かといる事も許されないのか』
そこに書かれていた文字は「ソール」、ファイの初めての友人の名だった。
「……出来ない」
映像が途切れた後、ファイは苦々しく顔を歪めながらそう呟いた。――オレにとって貴方は、あの谷から助け出してくれた恩人なんだ。たとえ、貴方にどんな思惑があったとしても、貴方はオレ達に初めて、優しくしてくれた人だった。だから、どう足掻いたってオレに貴方を殺せるはずもなかった。ファイが思いを吐露しても、アシュラの朧げな瞳に変化は無かった。そんなアシュラはコツコツ、と靴音を響かせて「では、続けよう」と言葉を紡ぐ。その言葉と共に現れたものに、レイノらは大きく目を見開かせたのだ。――それは、サクラだった。
「サクラちゃん!」
「さくら…」
「不思議だね。この躯に魂はないのに、まだ生きてる。君が人の姿に変えた羽根とやらの力か。あの子は既にこの躯に戻ってしまったようだけれど」
水中から現れたサクラは全身が水塗(まみ)れで、しかしファイに貫かれた傷はそのまま残っている状態だった。肌の色も変わらない、今にも動き出しそうなのに彼女の中身は空っぽらしい。けれど、死んではいないのだ。そんな彼女と同化したチィは、彼が自身の母親に似せて創ったものだと言う。
ただの入れ物でしかないサクラにアシュラが手を翳すと、彼女の周りには氷が現れ始める。それを見たレイノとファイ、そして黒鋼はすぐさま攻撃態勢に入った。レイノと黒鋼はそれぞれ魔術と刀を携えて駆け出し、その後ろでファイは鋭い攻撃魔法を展開したのだ。しかしその攻撃はアシュラの防御壁により防がれるが、一撃だけそれらを貫き、アシュラに傷を与えた。
「……君にとってこの少女は、とても大切な存在なんだね」
「…王…?」
そんな意味深な言葉の真意を理解する暇もなく、アシュラは再びレイノらに対して指先を向けた。その方向には多くの氷が携えられている。それに気付いたファイは素早く文字を描き、彼女らの前に防御壁を張った。それらでアシュラの攻撃を防ぐも、僅かに動いたアシュラの指先に彼女は思わず目を細める。そしてすぐさま『小狼』とモコナの前に移動したのだ。その後、何故か消え失せた一つの防御壁の代わりに彼女が壁となったのである。
「レイノちゃん!小狼君!モコナ!」
ファイは仲間達の名を叫びながら思わず後ろを振り向くが、あまりに多い氷のせいで無事を確認する事が出来ない。その間にも消え失せてしまっていたもう一つの防御壁のお陰で、黒鋼の身体には縄状の氷が纏わりついていた。それと同じ瞬間、サクラの顔には鋭利な氷が突き付けられている。それを発見したファイは「やめろ!」と、そう叫びながらアシュラに対して魔術を暴発させたのである。
思えばセレス国に戻って来てから、こんな至近距離でアシュラの顔を見るのは初めてである。そんな考えを巡らせた所で気付いたのだ。朧げだった双眸ではない、幼い頃に見慣れた静かなそれに変わっている事を。しかしそれは一瞬の事で、鋭い音を響かせながら現れた氷にファイは少量の血を飛び散らせたのである。それを見兼ねた『小狼』は、未だに自身を庇ってくれるレイノの身体を支えては「雷帝」と呟き、指先をアシュラに向けたのだ。
「招来!!」
その雷撃のお陰で自由の身となった黒鋼は歯を食い縛り、刀の柄を再び強く握り返した。先程の『小狼』の攻撃の後(のち)にバラバラとなった氷から飛び出して来た黒鋼は、刀の切っ先をアシュラに向けている。けれど、それはあくまで威嚇行為でしかなかった。レイノとファイも、そしてアシュラでさえもそれに気付いているのだろう。だからこそアシュラは静かな笑みを浮かべながら指先を黒鋼に向けたのだ。
「だめ、黒鋼!」
レイノの叫びも空しく、黒鋼の横腹は太やかな氷によって貫かれたのである。
prev next