episode 142
塗り替わる思い出
目の前に広がるのは生々しく黒が混じった赤色だった。それらを辺りに飛び散らせながら、黒鋼の身体はゆっくりと傾いて行ったのだ。その様子を見つめる事しか出来ない桃色と琥珀、そして、蒼い双眸は大きく見開いている。そんな中、一番最初に行動に移したのはレイノだった。彼女は小さく舌打ちを響かせながら、抉られた黒鋼の傷跡に手を翳す。その瞬間、彼女は何かに気付いた様に再び大きく目を見開かせたのだ。
次に動いたのはファイだった。無意識に震えている自身の身体は、おそらく恐怖や怒りなどと言う意味合いが含まれている様に感じる。先程の呆然とした表情とは打って変わり、彼は強く歯を食い縛っては声を張り上げ、両手に翳した二つの魔術をアシュラにぶつけたのだ。それをただ受け入れるだけではないアシュラも魔術を展開させる。しかし気持ちが乗ってあるファイの魔術の威力の方が圧倒的に強く、アシュラの身体は後ろに強く吹き飛ばされたのだ。その時に見えたアシュラの瞳は相変わらず虚ろで、何を言っても駄目なんだろう、そう思った。アシュラを諦めたファイはサクラの手首を掴み、『小狼』の目の前に降り立ったのである。そして『小狼』に彼女を託す。しかしその行為も『小狼』の手によって止められたのだ。
「だめ…だ」
荒い息を吐き出しながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ『小狼』は、ゆらゆらと瞳を揺らがせながらそれらをファイに向け続けた。――ああ、この子は聡明だから、きっとオレが何をしようとしているのか気づいているんだろう。けれど聡明だからこそ、今更引き返す事が出来ない事も分かっているんだろう。全部を裏切って行く覚悟なら、もう出来てる。一瞬だけぐっと目を閉じ、自身の腕を掴む『小狼』の手をそっと退けた。しかし、それと同じ様な温もりを、ファイはすぐに感じる事になる。
「え…」
「……レイノ」
「――大丈夫、だから。『小狼』、姫さんを守ってあげて」
「けどお前、怪我が…っ」
『小狼』はそこまで声を荒げるも、息が詰まったのか激しく咳を吐き出した。その後に微かに響くひゅう、ひゅう、と喉で鳴るその音達は酷く痛々しい。そんな彼を頬と目元を緩ませながら見下ろすレイノは彼の頭をひと撫でし、ファイの方に視線を向けた。ボロボロになった白い肌や絶望を孕んだ目元は見た事がないもので、思わず苦笑を漏らす。そんな彼女はファイの手を優しく包み込んだ。
「……今度こそ、守らせて下さいね。わたしに」
ただ一言、それだけを囁いてアシュラ王と向き合ったレイノちゃんの身体は良く見ると傷だらけで、陰ながらに支えてくれていたのはこの子なのだと今更ながらに気がついた。それだけ自分しか見ていなかったんだろう、オレは。ずっとずっと逃げて来たレイノちゃんの優しさを、オレはただ見つめる事しか出来なかった。けれどその時の表情(かお)がとても優しくて、どうやらオレは無意識に強く手を握り締めていたらしい。
ガッ、地面が抉れる音が響き渡る。それを響かせたアシュラの攻撃を避け、レイノは手の平から刀を取り出した。淡い桃色の光を纏うその刀は、ファイの脳内に色濃く残る物と酷く似ている。それを一振りすると、地面に僅かに亀裂が走った様子が見えた。その光景を見てもなお笑みを浮かべ続けるアシュラは、何処か気味が悪い。そんな気持ちを押し込んで、彼女はぐ、と歯を食い縛りながら刀を思い切り振り下ろしたのである。それを軽々と受け止めてしまったアシュラは一瞬笑みを深くしたかと思えば、ゆっくりと唇を動かした。
「――力は使わないんですか?」
たったそれだけの問いが、レイノの背に悪寒を走らせたのである。
「っ…使わない」
「…あの人を殺す為ですか?」
「な…」
「……レイノさん、――夢は、繋がっているんですよ」
にやり、そんな効果音が付きそうな、そんなアシュラの笑みを一瞬視界に入れるも、レイノは彼に首を掴まれた。そしてそのまま、近くにあった柱に力任せにぶつけられたのである。それでも彼女の中にはまだ闘争心は残っていて、それを示す様に彼女は持っていた刀をアシュラの首筋に這わせた。それでも息苦しさに変化は無く、ゆっくりと締め付けられる気管に彼女の顔色はどんどん白さを増して行ったのだ。
「レイノちゃん!」
「……小さい頃の君は、『新しい友達が出来た』と言っていたね。けれど、分かっているんだろう。この子があの時の友人だ、と。よほど大切な子のようだ。そんな子を消せば、君はどうなるのかな」
「や、めろ……」
「串刺しにして見せしめにでもすれば、君は私を殺してくれるかい?」
「やめろ……」
「レイノさんも、ずっと守りたかったあの子の為に死ねるんだ。光栄だろう?」
「ぐ、あ…っ」
ゆっくりと晴れて行く煙の中から見えたのは互いに爪を立てる二人の姿だった。しかし、レイノが劣勢である事は見て明らかである。そんな彼女を見下ろしながら淡々と言葉を紡ぐアシュラは、もう既に戻れない所まで来ているんじゃないか。虚ろにぼやけるその双眸は、そんな事を思わせた。震える声を絞り出す様に出すファイは歯を食い縛る。そんな彼の目元は伸びかけの金髪で隠れてしまっていた。しかしレイノが絞り出した苦しげな呻き声を聞いた途端、ギリ、と歯を食い縛る音を響かせて両手に魔術を展開させたのだ。
「止めろ!」
そう叫び、ファイは展開させた魔術達を再びアシュラに振り翳す。それがアシュラの魔術と交錯し合い、二人の周りには濃い煙と巨大な爆発音が纏わり付いた。それが起こる前に、レイノの身体は近くの瓦礫に投げ飛ばされ、そのまま『小狼』の側に転がっている。あまりの衝撃で舞う風からサクラとレイノを庇いながら見えたものは、先程のレイノと同様に首を絞められるファイの姿だった。
じわじわと迫り来る様に強められるアシュラの指の力は、ゆっくりとファイの命を蝕んで行った。そんな時でさえも笑みを絶やさないアシュラは、自身が過去に綴った言葉を再び繰り返す。そして、眼帯をしているファイの左目をそっと撫でたのだ。
「雷帝…」
震える身体からひっそりと放たれる『小狼』の声と魔術も、アシュラの数本の氷柱によって封じられる事となった。それらは『小狼』の腕やコートを押さえ付け、抉り、一瞬にして動きを止めたのだ。その横では、レイノが震える腕で上体を起こそうとしていた。そんな光景を瞳に映すファイに対して、アシュラは再び言葉を紡ぎ出す。――私と一緒に死のうとするなんて、君は本当に優しすぎる。君がいつも死にたがっていた事には気づいていたけれど、それを許す訳にはいかなかった。そんな本音を隠して、私は「ファイを生き返らせなければならないから、君は死ねない」と紡いでファイの首の骨を折った。
「それなのに、私と共に自ら終わりを迎えようとしたのは、彼女達の為かな。ならば、彼女達を殺せば、その怒りで私に勝てるかも知れないね」
そう言ったアシュラの視線に倣う様に見た先には、両腕から血を流して顔を歪める『小狼』、震える上体を起こそうして口端から血を垂れ流すレイノの姿があった。脇腹を抉られた黒鋼の身体は先程からぴくり、とも動かない。そんな前者の二人の前に、アシュラの魔術である氷柱が現れる。それから二人を守ろうとファイが指を動かすも、それが間に合う筈もなかった。アシュラの魔術が、二人の命を蝕んで行くのだ。
しかしそれを破ったのは、瀕死の怪我を負ったとされる黒鋼だったのである。
「守護印か」
冷や汗を掻きながらも荒い呼吸を繰り返す黒鋼の周りには、彼を護る様に薄い膜が張られている。その間にもアシュラの攻撃が止む事は無かったが、それらを全て跳ね返して黒鋼は全身して行く。そんな黒鋼の額には見た事もない印が浮かび上がっていた。それを携えて、黒鋼は刀身でアシュラの身体を貫いたのだ。
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