episode 143
はじける想い
空洞となったアシュラの心臓部分から黒鋼の刀身にかけて、ポタポタ、と赤い液体が滴り落ちる。それを一瞬遅れて視界に入れたアシュラの双眸は、今まで虚ろだったものではない。そんなアシュラの目の前で荒い呼吸を繰り返す黒鋼の額からは、少しずつ印が薄れて行った。それを視認したアシュラは先程までの驚いた表情とは打って変わり、そっと笑みを浮かべたのだ。
「その印が君を守ったんだね。――剣を抜きなさい」
身体から血を垂れ流しながら、アシュラは黒鋼に言い聞かせる様にもう一度、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。すると、アシュラの身体から刀身が抜かれ、傷口からは夥しい程の血液が溢れ出したのである。その光景をただ見つめるだけのファイの右目からは涙が零れ落ちる。アシュラは、それをそっと拭ったのである。
「私などの為に泣いてはいけないよ。出来れば君に殺されて、最後の呪いは消してあげたかったのだけれど、彼女達となら、呪いを超えられる」
オレは、アシュラ王に最後の呪いの事を話した覚えは無かった。呪いの内容を覚えていないのだから言えるはずもない。それなのに、王は「最後の呪い」と言う言葉を口にした。そこでオレは、王が夢見である事を考えた。ああ、この人は本当に、オレの全てを知っていたんだと、そこで悟った。それを誰にも話さずに、たった独りでどうにかしようとしていたんだ。そんな貴方はやっぱりずるくて、やさし、すぎる。
「…お…う…!!」
大きな血飛沫を見せながら、アシュラはそのまま後ろに倒れた。そんな彼の前でファイは跪き、絞り出す様に悲しみを吐露したのである。今まで鮮やかだった瞳の色は暗がりが広がっていて、酷く虚ろだ。『小狼』の動きを禁じていた氷柱は花びらの様に宙に舞い、この世から消えてなくなった。「アシュラ」と言う命が、消えた証拠だ。そのアシュラの目元を覆い隠し、再び離れる。――その時に見た王は酷く、穏やかだった。
ふと後ろを見ると、そこにはボロボロになりながら荒い呼吸を繰り返し、座り込む黒鋼が居た。そんな彼に、ファイは何とも形容しがたい視線を向ける。それを受け止める余裕も、言葉も、今の黒鋼には持ち合わせていなかったのだが。そんな時、レイノの目の前でサクラの身体が淡い光を纏いながら浮かび上がったのである。
「…さく…ら…」
『小狼』が途切れ途切れに名を呼んだと同時に、ファイの近くの瓦礫から光の柱が天井に伸びた。そこはかつて巨大な噴水があった場所だ。そこから現れたのは朽ちたと思われた自身の片割れで、それは胸元に何かを抱えている。その「何か」には突如として亀裂が生まれ、眩いくらいの光がその場を包んだのだ。その光はサクラの羽根へと姿を変え、ファイに本当の記憶を見せたのである。
『選べ。おまえか、もう一人か』
『――ユゥイを出して』
『下にいるほうは、ファイ、おまえを出せと言っていたぞ。さて、どうする』
『ファイは死んでいい。だから、ユゥイを出して』
『自らの命を差し出すか』
『約束して。必ずユゥイをこの谷から出して』
『では、塔の下の子供を外へ』
その記憶は、ヴァレリア国の谷で行われた飛王の選択の時のものである。周りに死体は無く、外の景色を見る事が出来るボロボロな格子が見える。そこは塔の上である事は確かだった。一番最初に見た記憶では、ここまで細かいものではなかった筈だ。もしかして、ファイが落ちて来た時に記憶が入れ替わってしまったのだろうか。視線が混じり合った時のあの違和感は、これだったらしい。選択を済ませたファイは格子の隙間から降り続ける雪を眺め、ひび割れた薄い唇を開けた。
『一緒にいけなくてごめんね、ユゥイ』
――どうか、自由になって。
「…あれは…ファイの…記憶…だった……?」
呆然とした様子で言葉が紡がれると同時に、サクラの体内に羽根が取り込まれる。それが存在したお陰で朽ちる事がなかった片割れの身体は、それがなくなれば廃れるのみだ。そんな彼にファイは震える手をそっと伸ばすが、それはとある手によって阻まれる事となる。――その手の正体は黒鋼だった。彼は真っ直ぐとファイの顔を見つめ、「眠らせてやれ」と、そう告げたのである。
荒廃が進むファイの片割れを、サクラが慈しむ様に包み込んでやる。その身体の一部が消えて行く度に、ファイの右目からは細い水が地面に落ちて行くのだ。――アシュラ王は、最期の最後までオレの事を思っていた。ファイも、オレの為を思って自分の命を犠牲にした。全部全部オレの為だった。その思いを踏みにじって、願いを叶えようとしたのもオレだ。ただただ情けなかった、とファイだった「もの」を見て、そう思う。
――ごめんなさい、ファイ。
「っ…しゃお、ら」
「レイノ!」
「この、音…」
「…ああ。早く、この世界から出ないと…」
げほ、咳き込む音がこの静かな空間に響き渡る。その音を響かせたのはレイノだ。喉に溜まっていた血を吐き出し、ぐいっと口元を拭う。その直後に微かに耳に届いた轟音に、彼女は思わず眉を顰めた。どうやらその音は『小狼』の耳にも届いていたらしい。ぐぐ、と腕に力を入れて上体を起こす。その瞬間、二人の視界には驚かざるを得ない光景が広がっていた。
「――閉じ込められる」
ファイを中心として広がる紫の蔦が、レイノらを包み込んでいたのである。ファイの視界に一直線に入って来るその光は強さを増し、そこから溢れ出る紫色の蔦の紋様は素早くレイノらを取り込んだ。それは地面に張り付くだけでなく、勢い良く空中にも上って行き、レイノらの逃げ場をしっかりと消してしまっていた。それを見上げては思わず舌打ちを響かせた黒鋼は、ファイの肩を強く掴み上げる。
「おい!!」
「世界が…」
「…これが…もうひとつの…」
「おい!何があった!!」
「世界が…閉じる…オレの魔法で……」
「どういう事だ!?」
「ここから出られなくなる……」
蔦の紋様が全てを包み込んだかと思えば、それらからはみ出た物は音を立てて崩れて行く。それが分かるのはファイと、事情を知っているレイノと『小狼』のみで現状を把握できていない黒鋼は続けて声を荒げた。この時、ファイはやっと「もうひとつの呪い」の事を思い出したのだ。しかしその飛王の思惑は知らせる事ではなく、あくまで呪いを発動させる事だったのである。ファイの性格を考慮した、実に巧妙な手段だ。
また、飛王はファイが旅立ってからセレス国に罠を張ってあった。それは、ファイとアシュラ以外にこの国で魔力を使ったものにも害を成す、と言うものである。それの目的はやはり、二つ目の呪いの成就を妨げぬ為だった。――例外は居る様だが。
「出るぞ、ここから!!」
「無理だ…みんなは………オレの魔力は、使えば使う程強くなるものじゃなかったみたいだ。おそらく、魔力を使う程オレは…死に近づいてる」
「な…に…」
「けれど…まだ魔力は残ってる。――小狼君、レイノちゃんとサクラちゃんとモコナを離さないで」
「何をするつもりだ!」
轟音が激しくなり、黒鋼は倒れ込んでいるファイの腕を掴み上げる。しかしファイは大きく息を吐き出すだけで、立つ事はしなかった。いや、出来なかったのかも知れない。その後に吐き出された血の塊は、ファイの言葉が真実である事を表していた。それでも諦め切れないファイは、消えて行く世界の中で再び蒼い双眸に光を宿す。
「ここから……出る」
指先に灯る光で文字を描き、それらを『小狼』とサクラとモコナ、レイノ、黒鋼とそれぞれの身体に纏わせる。けれどここから姿を消したのは最初の者達だけで、レイノと黒鋼は何かに弾き出されたのだ。その直後、ファイの口から漏れ出した大量の血液に、レイノは思わず顔を青ざめて身体の痛みをどうにか押し込んで、二人の元に駆け出した。
「ファイさん…!」
「どうした!?」
「足りない…魔力が……」
ファイの左手には黒い手袋とは違う、何処かどす黒い色が広がっていた。それを見て、レイノは思わずぞっとする。――この人がどこかに消えてしまうんじゃないかと、そう感じた。おそらく、小狼君が持ってる魔力があれば出る事が出来たと思うけど、運良くここに小狼君が来る訳もないし。飛王は多分、このタイミングでわたし達を始末するつもりなんでしょう。けど、絶対に思惑には乗りたくない。
セレス国があった場所、そこに『小狼』とサクラ、そして、モコナは投げ出された。そこからは蔦の紋様で出来た球体に閉じ込められているレイノらの姿が見える。息も絶え絶えに息を詰まらせながら、『小狼』は細々とした声を出すモコナに視線を下げた。そして、モコナの要望通りに耳飾りに触れ、それを取ってみせたのだ。
その耳飾りからは眩い程の光が漏れ、それはレイノらを閉じ込めている球体に穴を開けた。微かに見える光の向こう側には『小狼』の姿が見える。それを確認した彼女と黒鋼は一瞬だけ視線を合わせ、立ち上がり、黒鋼は再びファイの腕を掴み上げた。しかし、どうしても全員が抜ける事が出来ない。
そんなの、いやだ。
「行け!レイノちゃんも、早く…!」
「いやです!」
「な、何で…」
「っ…わたし!貴方の事が好きだって言いました!何で大切な人を置いてかなきゃなんないんですか!」
ここは意地でも、動かないつもりだった。この人は絶対にわたし達を助ける為に自分を犠牲にするだろうし、絶対にわたしをここから出すだろう。出なきゃいけない、分かってる。ここから出なきゃわたしの願いは叶わないし、やるべき事も出来ない。分かってるけど、それは、ファイさんと黒鋼、『小狼』達がいないんじゃ意味がない。帰って来たい、そう思わなきゃ意味がなかった。そんなわたしの気持ちも知らずに、ファイさんはわたしの腕を思い切り掴み上げる。
「何で君はいっつもいっつも、オレの言う事は聞いてくれないの……?」
「貴方の言う事を聞いたら、絶対に後悔するって分かってるからですよ。だから死なせないし、こんな所にも置いて行かない。――絶対に、離しませんから」
レイノがそう言った直後、彼女とファイの耳には何かを切り裂く鋭い音が届いていた。思わずそちらを見ると、そこには自身の左手を斬り落とす黒鋼の姿がある。そこから溢れ出る夥しい程の血液は二人の頬や服に飛び散り、地面に広がって行く。斬り落とされた腕と蒼氷を球体の中に落とし、黒鋼は残った腕でファイの胸倉を掴み上げた。そして、「レイノを抱えてろ」と声を荒げた。
「――絶対、離すなよ」
その言葉と共に、一行は今はもうなきセレス国を後にしたのである。
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