episode 144
孤独な目覚め

 今まで宙に浮いていた一行の身体は唐突に、地面に打ち付けられる事になる。ゴツゴツとした小石が敷き詰められているそこは、傷だらけな身体には酷く毒である。ズキズキ、と響く痛みを必死に抑え付けながら、レイノは一番重傷であろう黒鋼の元へ身体を引き摺った。――呼吸が、浅い。治癒魔法を使える程度の魔力は残っているけど、これを使えばわたしの身体はどうなるか分からない。いや、違うでしょう。何の為に、この異常な治癒能力を上回る程の傷を負ったの。全部全部、皆を死なせない為でしょう。


「く、ろがね、の、容体は…?」
「血が、止まらない……」
「くろ、がね。くろが…っく、ろさま…!」

 震える声で問い掛ければ、隣に居る『小狼』は同じ様に震えた声で言葉を紡ぐ。ファイに至っては、レイノの声など聞こえていない様だ。唇を震わせながらうわ言の様に呟く黒鋼の名は、懐かしい響きである。――いや、懐かしんでる場合じゃない。このままだと、黒鋼はきっと死んでしまう。そしてわたしは、そんな黒鋼のなくなってしまった左腕に手の平を翳した。けれど、その瞬間に込み上げて来た違和感に、わたしは口を覆う。その直後に訪れた解放感と共にわたしの手を汚したのは、紛れもない「赤」だった。


「レイノちゃん!」
『レイノ!それ、血……!?』
「お前、まさか…!」

 ボタボタ、と音を立てて地面に落ちたレイノの血に、ファイと『小狼』、そしてモコナは驚愕した表情を浮かべた。ゴホゴホ、と嫌な咳をすると、その度に何処からか血が溢れ出し、手だけでは押さえ切れなくなって来る。肩にはモコナが、背にはファイと『小狼』の手がある。感覚で分かる。けれど、目の前はぼうっと霞んでいるのだ。息を荒げて咳き込みながら、彼女は口から血を垂らす。それが止まらないのだからどうする事も出来なかった。


「っ…は、んどう……?」
「レイノまさか、セレスでずっと魔力を使ってたのか!?」
「…みんな、が、死んじゃったら、いや、だから…」
「っ…レイノの魔力の源は心臓だろ!休まなきゃ、戻らない……!何の為にけ…っ」

 『小狼』がそこまで叫んだ所で、血で塗(まみ)れたレイノの人差し指が彼の発言を制止した。ぐ、っと歯を喰い縛ると、彼女は安心した様にふと笑みを溢す。その笑みが何を示しているかなんて、昔から彼女の事を知ってる彼が知らない筈もなかった。口端(こうたん)から血を垂れ流しながらも、彼女は再び黒鋼の傷口に手を翳す。しかしそこに魔力を集めた瞬間、彼女は何かに耐える様に突然蹲ったのだ。


『レイノ!もう止めて!』
「い"…った、い……!」
「痛い……?」

 泣き叫ぶ様なモコナを慰める余裕もなく、レイノは震える身体を折り曲げる。その際に微かに聞こえた懇願に、『小狼』は眉を顰めた。しかし、その前に居たファイは何かに気が付いた様に目を見開かせ、突然彼女のタイツを破き始めたのである。ビリビリ、と響く異様な音に『小狼』は目を丸くするも、その後に現れたとあるものに大きく目を見開かせたのだ。


「これは…」
『な、何これ……』
「飛王の、蝙蝠のマーク……」

 仄かに赤く光を放っているその紋様は、確かに飛王を表していた。見間違いだと思いたかった。けれど、苦しげに顔を歪めるレイノやギリギリ、と肩を掴む手を見てしまえばそんな事、言える筈もなかろう。時折聞こえるくぐもった呻き声にモコナは目尻に涙を浮かべている。そんなモコナに笑い掛ける事も出来ない程、今の彼女には余裕がないのだ。
 「東京」を過ぎてからは特に影響がなかったその紋様には、気が狂いそうな程の熱と痛みが孕んでいる。それから逃れようと爪を立てる傍ら、レイノやファイらの耳にはこちらに近付く物音が届いていた。「担架」やら「急いで」やらと声が聞こえるが、今のレイノはそれを気にする気力を持ち合わせてはいなかったのだ。そのままゆっくりと意識を飛ばすレイノには、そんな自身の名を呼ぶ声など、きっと届いていない。


「レイノちゃん!」

 その声の主がどんな顔をしていたかも、何も分からないのだ。




 レイノが再び目を覚まして一番に目に入れたのは高い天井だった。ちらり、と視線を横にずらせば、僅かに透けている布(カーテンだろうか)が見える。そしてその外には、姿勢良く座る人影があった。目を凝らして見ても、レイノには見覚えがない。好奇心から上体を起こすと、その人影も布の擦れる音を聞いたのか、こちらに顔を覗かせた。


「起きましたか」
「えっと、あ…はい。ここは…」
「日本国です」
「日本国、って…黒鋼の…?」

 その顔は、見た事があるそれだった。けれどその中身があまりにも違いすぎて、現在のレイノの脳内は疑問符だらけである。しかし少しずつ与えられる情報に僅かながら冷静さを取り戻しつつあった。その最中(さなか)に耳に届いた「日本国」と言う言葉に、彼女は我に返った様に掛けられていた布団を蹴飛ばした。しかしそんな彼女の手を、目の前の女はそっと包み込んでくれる。


「大丈夫です。皆さん、眠っています」
「そ…ですか……」
「――私は知世と言います」
「……あ、黒鋼の主…?」
「黒鋼から聞いているんですね」
「は、はい。愚痴ばっかりですけど、でも、本当に大切なんだなあって、思います」
「…何だか照れくさいですね」

 そうしてじんわり、と広がって行く温もりは確かに現実で、レイノはこわばっていた頬が緩んで行くのを感じた。目の前の女――知世――は何処か照れた様に頬を掻きながら、表情筋を緩めている。その様子を見て、レイノは黒鋼が守りたいと思う気持ちが分かった気がするのだ。――きっと、それだけじゃないんだろうけど。けれどそれも少しの時間の事で、気づいた時には知世姫は既に凛々しい表情に戻っていた。


「……貴女には、聞きたい事があって来ました」
「聞きたい事、ですか……?」
「――行くおつもりですか?」

 たった一言、そう問い掛けられたレイノは大きく目を見開いた。――なぜ、知っているのだろう。わたしの本当の記憶は誰にも言っていないはずだし、きっと『小狼』も知らない。なのになぜ、今出会ったばかりの知世姫が知っているんだろうか。そこまで考えて、レイノははた、と気付く。――ああ、もしかして。


「…夢見なんですね」
「はい。何度か話した事があるんです。夢の中の事ですし、かなり昔の事になるんですが」
「元気でしたか?」
「ええ、とても。貴女の事もお話していましたよ」
「それは…」

 どくん、と波打つ様な心臓の鼓動を隠しながら、レイノは言葉を詰まらせる。そんな様子の彼女に、知世も思わず苦笑を浮かべた。――ああ、この人はずるい。全部全部分かってるくせに、試すようにこうやって聞くんだ。わたしが何者かも分かってるくせに、あの人が話す「わたし」が「わたし」であって、わたしじゃない事も知ってるくせに。本当に、ずるい。


「…すみません。少し意地悪をしてしまいました」
「……止めるんですか?」
「いいえ。それが、貴女の願いなのでしょう。それならば、私に止める権利はありません」
「なら…良かった」
「ですが、貴女と一緒に旅をして来た方達はどうでしょうか」
「え……?」
「貴女がいないと分かると、きっと後を追うと思いますよ」

 そう言われて、確かになあ、と頷き掛ける。しかし、それは予測済みだ。だからこうやって知世と世間話を繰り広げているのだ。そうでもなけりゃ、わたしはきっと知世姫の言葉を振り切ってあの国に移動している。――なんて、出来ないくせに何を考えているんだろう。そこまで考えを巡らせて、わたしはふと口角を緩めた。


「――ずるいですね、貴女は」
「知ってます」
「…けど、行きます」
「分かっています」
「けど、魔女さん…いや、侑子とミッドガルド国にいるエジリンには、この事を伝えて下さい」
「はい」
「あと…わたしの次に起きて来た人に伝えて下さい」
「…何と?」

 普通の笑顔を浮かべたつもりだったレイノだが、それは気の抜けた苦笑となっていた。そんな彼女を見ては目を瞑り、知世は諦めた様に肩の力を抜いた。その様子を見届けたレイノはつらつら、と言葉を紡いで行く。その言葉達は、こうなる事を予測して用意していたもの達だ。知世の問いを一区切りにふう、と息を吐くと、レイノは再び口角を緩める。――今度はきっと、大丈夫だ。


「『必ず戻って来るので、待ってて』と」

 ちゃんと泣かずに、笑えたはずだ。


「――分かりました」
「ごめんなさい。ご迷惑を、おかけして」
「それは、帰って来てから仰って下さいな」
「……そう、ですね」
「レイノさん」
「はい?」
「……お気をつけて」

 何か言いたげだった知世だったが、唇を噤んだ後に出て来た言葉は素直なものだった。それには気付いていた。けれど、それを問い質す権利は、レイノにはなかった。そんなレイノは夜魔ノ国でファイに買って貰った簪をこめかみ辺りの髪に差し、少しだけ笑む。――何の力もないのに、こんなにも力が湧いて来るのはどうしてかな。もう少し、ちゃんと顔を見ておけば良かった。そんな後悔をしてももう遅いのは分かってる。わたしはわたしの為に、もう一度戻って来る為に前に進むんだ。


「――行って来ます」

 待ってて下さい、父さま。

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