episode 148
いなくなった最愛
「レイノ、ちゃん…」
つう、と頬を伝うのは自身の血、これは目の前の少女によって出て来たものだ。しかしファイはそれを拭う事はせずに蒼い瞳を見開かせ、ただただ彼女を見つめる事しか出来なかった。今まで追い求めていた温かさも、恋い焦がれていた柔らかな瞳も、全てが消え失せている。触れたくて堪らないその温もりも、今はもう冷たく彼を拒んでいた。
「…私は、『レイノ』じゃない。ソールよ」
「っ…ちがう!君は今まで一緒に旅をして来た、オレの…オレ達の仲間でしょ?」
「私が旅をして来たのは父さまだけ。ふざけたこと言わないで」
「ふざけてないよ!何で、そんな目…」
「――だから申し上げたでしょう?ここに『レイノ』などはいない、と」
ファイの背後に聳(そび)え立つ壁に太刀の先端を突き立てた少女――自身ではソールと名乗っていた――は、冷徹な瞳を携えて、彼に厳しい視線を注いだ。ゆらゆら、と揺らめく気持ちに気付きながらも、彼は必死に彼女に声を掛ける。しかしその後ろに近付く男に、彼女は嬉しげに身体を委ねたのだ。その行為を静かに受け入れた男は光に反射された彼女の金髪をひと房手に取り、それにそっと口付ける。――はらわたが煮えくり返りそうだ。
「いないんじゃない…消したんでしょう、貴方が」
「消した?…いいえ、消えたんです。ねえ、ソール」
「あ…っ」
「っ…止めろ!」
ギリ、と拳に力を入れると、掴んでいた髪飾りの欠片がカラ、と音を立てた気がした。そちらに目も向けずに目の前に立つ男を睨み付けるが、その彼が笑みを崩す事は無い。それどころか、ソールの身体のラインに沿って、するり、と腕を這わせたのだ。その際に響いた彼女の嬌声はファイの羞恥心を酷く煽り、初夜の記憶を蘇らせる。――アレを「初夜」と呼んで良いのかは少しだけ疑問だけど。
「この美しい身体も、顔も髪も全て、――私の魔力の結晶です」
「何を、言って…」
「私だけのものです。それを人間風情が穢すだなんて、傲慢にも程があります。――ファイ・D・フローライト…いえ、本名はユゥイ、でしたか。呪われた運命を持った身としては、あの『レイノ』とはある意味、お似合いなのかもしれませんね」
「まさか、貴方が…」
「けれどこの身体はソールのものだ。誰にも渡さない」
微かに感じ取る事が出来る温かな太陽の魔力も今ではもう残り少ない。その代わりに増えるのは、ビリビリ、と嫌に激しさが増した太陽の魔力だ。それはきっと、レイノが使いこなす事は出来ないのだろう。後ろからソールを抱き締める男は先程の温和な笑みを隠し、顔に影を作る。その闇の深さは他人には分からない。しかし、それこそが彼の本質の様な気がしてならないのだ。
「人間風情の『レイノ』にも、絶対に」
その執着こそが、男が生きる「全て」ではないのだろうか。
その昔、とある男が国を一つ創り上げた。その名をヘリオポリス、「太陽の国」が由来だ。創立者である男――名をフレイと言う――の魔力で成り立っているその国は、彼の魔力が尽きるまで滅びる事は無い。その国は「太陽の国」と言う名に相応しく草木は生い茂り、花々は輝きを生んで行く。その恩恵を受けようと、様々な国から人が移住して来た。そのお陰でヘリオポリスには活気が生まれ、人々で酷く潤ったのだ。
しかし、フレイは満足しなかった。寂しかったのだ。寂しさのあまり、神と言う身の上でありながらも人間に何かを求めようとしたのだ。しかし、そんな事はあってはならない。そう思ったフレイは自身の分身を創る事を決めた。
『子供が、欲しい……』
しかしその途中で、その様な願いが自身の中に芽生えたのだ。適当な人間を捕まえて、神気をもって子を孕ませる事は出来る。しかし、それでは意味がない様な気がした。何時の日かに街中で見掛けた親子の様に、幸せな笑顔を浮かべるのは無理な気がした。だからこそ、フレイは自身の力で人型を創り上げるのだ。
そっと腕を前にやると、足元には橙色の魔法陣が広がる。大きな四角形が二つ連なっては星を作り、その中心には三日月が描かれていた。そこから外側に広がっている模様は何やら複雑で、遠目からは何が描かれているかは分からないだろう。そしてその四隅には、小さな三角が円を描いている。そこに立ったまま、フレイは空中に何かを書き始めた。そして、それが書き終わる頃には彼の目の前に、人型が姿を現していたのである。
『目を開けなさい』
フレイがそう命じれば、目の前の人型はそっと瞼を上げて行く。そして現れた瞳は輝かしい程に黄金(こがね)色を示していた。そっと肌に触れれば感触は滑らかで、この世の汚れなどは知らない様である。その肌を纏う様に伸びている金の髪は酷く柔らかい。きょろきょろ、と周りを見渡す少女は何処からどう見ても「神の娘」だ。
『私が貴女の父親です』
『ち、ち…おや』
『何でも頼って下さいね、ソール』
『そー、る…?』
『貴女の名前です。貴女が貴女である証として、名を送ります』
フレイは、何処か不安げに目を伏せる少女と目線を合わせる為に跪き、そっと笑みを浮かべた。そして何気なくひと房の髪を手に取り、それに指を通らせる。初めての感覚に肩を竦める彼女がどうも愛らしくて、彼は目の前の幼子に対して「ソール」と、名を付けた。嬉しそうに目を輝かせる彼女を見て、自身も感じた事のない思いを抱いたのだ。
『これからよろしくお願いしますね、ソール』
『……側にいる、ね。とうさま』
人間の言う「慈しむ心」が、初めて分かった気がしたのだ。
「ぐ…っ」
短い呻き声を上げながらも、ファイが視界に映すのは誰も知らないソールの記憶だ。おそらく、今の彼女に「感情」と言う全てを教えたのはフレイなのだろう。――オレにとっての王だったように、ソールにとってのフレイもかけがえのないものだ。けど、その人格を出す為に、レイノちゃんを犠牲にするのは間違ってる。あの子だって今まで何度も挫折して、その度に助けられて、でも泣いて。それでも前に進む事を諦めなかった強い子だ。そんな子を「いらない」と言う資格は、貴方にはない。
その言葉を伝えて何かが変わるのかと問われれば、答えは否だ。変わるかも知れないし、変わらないかも知れない。けれど、前者の方が圧倒的に可能性は高いだろう。それでも、どうしても諦めきれなくて、ファイは端に転がった鉄パイプでソールの一撃を受け止める。しかしその行動のせいで隙が出来た腹部に足技を喰らい、彼は思わず咳き込む事になった。その瞬間、ファイの脳内には再び記憶が流れ込んで来る。その際に訪れる頭痛はどうにかして欲しいが、それさえもフレイの楽しみなのだろう。
悔しさから歯を食い縛ると言う行為でさえ、今では億劫に思えた。
『ねえソール、お出かけしようか』
『お出かけ?』
ぱたん、と重厚な本を閉じては提案された言葉を、ソールは拙く繰り返す。彼女が創られてからどれだけの時が流れたのかは不明だが、少しだけ背も伸びた。少しだけ、フレイと近付いた気もする。きょとん、と首を傾げる彼女に思わず笑みを溢し、優しく抱き上げて腕の中に収めた。仄かに香る甘い香りが、彼は好きなのだ。
『どこに行くの?』
『色んな所だよ、きっと楽しい』
『父さまと、ずっと一緒?』
『ああ、ずっと一緒さ』
『……うれしい』
ぽそり、と呟いたソールの頬は僅かに緩んでいた気がする。創ったばかりの頃は無表情ばかりで何も欲しない、見た目だけが幼い子供だった。しかし最近は慣れたのか、雰囲気が柔らかくなった様に感じる。また、フレイに関しても国を維持する魔力が足りなくなって来ているのである。その為に一度、この国を出よう、と言う訳だ。
しかしそれがいけなかった。何よりも大切なソールを連れて行っては駄目だった。ここで捨て置けば、そうすれば良かった。
そうすれば、飛王に目を付けられずに済んだのに。prev next