episode 150
染まりゆく光
『さあ。着いたよ、ソール』
とっ、足が地に着くそんな音が軽やかに響く。直前にまで感じていた吐きたくなる程の浮遊感はもうない。次元移動の度に繰り返されるその感覚は何度体験しても慣れるものではなかった。その感覚を我慢した後に広がるのは美しく、しかし懐かしい景色だ。太陽の光が注がれるこの地は酷く暖かく、そして酷く優しい。そんなここは、ソールが愛してやまない故郷(ふるさと)だ。
周りには緑の木々が生い茂り、それらを包み込む様に暖かな風が吹き込んでいる。それを一身に受ければ、ソールの顔には朗らかな笑みが浮かぶ事になった。――思えばこの旅の間に、ソールの感情は酷く増えただろう。キラキラとした瞳がその発端だ。
『ソール、商店街へ行こうか』
『何か買うの?』
『お前の食べ物だよ。今日は好きな物を食べよう』
『嬉しい……!父さまも一緒に食べよ、ね!』
『ああ、もちろんさ』
幾分か近付いたソールの頭をそっと撫でて、フレイは目の前に広がる賑やかそうな商店街を視界に映した。そうして紡いだ言葉を聞けば、彼女はわくわく、と言いたげに身体を跳ねさせる。その様子がどうにも可愛くて、綻んだ頬にはどうか気付かないで欲しい。そんな願いさえ無視して、彼は下に居る娘の小さな手をそっと包み込んだ。
温かな子供の体温を感じながら、二人は商店街をゆっくりと歩いて行く。時折聞こえる喧騒の声や鼻腔を擽る様々な匂いは、ソールの中に多くの感情を生み出してくれる。そう言う意味では、フレイはこの場を酷く好んでいた。そんな場所を進んで行くと、道中で声を掛けられる。
『フレイ様!お帰りになられたのですね!』
『――ええ、つい先刻に。ただいま帰りました』
『お帰りなさいませ!旅路はどうでした?』
『良かったですよ。変わりはありませんでしたか?』
『それが…』
『…何か?』
二人に声を掛けて来たのは、とある飲食店を営んでいる女だった。その女は最初、弾ける様な笑顔を浮かべていたと言うのにフレイが問い掛けると、言いづらそうに口先を動かした。その女曰く、このヘリオポリス周辺で変異事件が多発しているらしい。その事件現場が、この国を避ける様に起こっている事から国民らも警戒していると言うのだ。その話を聞いたフレイは考え込むも、次の瞬間には何時もの笑みを浮かべた。
『一度調べてみます。安心してください』
『そうですか……』
『父さま。これ、美味しそう』
『ふふ、食べてみるかい?』
『良いの……?』
『ああ、もちろん』
柔らかなその声色は、何時もどんな時だって人々の不安を取り除いて来た。もちろん神の力も要因の一つだが、フレイが纏うその優しげで温かな空気が人々を安心させるのだ。その空気が移っているのか、ソールへの態度も酷く優しい。神に愛された娘、――否、「神の娘」と崇められるまで、そう時間は掛からなかった。
しかしそう呼ばれた時間は、あまりに短かったのだ。
とある国民に言われた事もあって旅の続行を断念したフレイは、今日も今日とて神殿でソールを愛でる日々を過ごしていた。さらり、と指の間を通る金髪は艶やかで、自然と頬が緩んで行く。その様子を見るのが、最近の彼の楽しみなのだ。その時に、時折見る柔らかな笑みは今はまだ、自身のものだろう。それがいずれは別の人間のものになるとしても、今だけは、このぬるま湯に浸っていたかった。
自身のシンボルである太陽が天高く昇りきった時間帯、だったと思う。突如、窓に差し込む日差しが消えたのです。太陽神である自身がいる以上、そんな事はあり得ないはずなのに。長机に置いていた魔術具をソールに託し、窓際に近づく。その時に見た空は、禍々しい程に闇を孕んでいた。
『これは…』
『……父さま?』
『…ソール、今すぐこの国を――』
自身がこの国に居る限り、今まで晴れ渡っていた空が消える事は無い筈なのだ。しかし今、目の前に広がるのは恨みや嫉みが孕んだどす黒い雲々だ。――嫌な予感がする。そう感じたフレイは後ろに居るソールに呼び掛けた。その後に飛び込んで来た光景に、彼は大きく目を見開かせたのだ。
その黄金(こがね)色の双眸に映し出されたのは、ソールの背後を狙う蝙蝠の連中だった。彼らの手には太い剣が握られており、それの切っ先は真っ直ぐに彼女へと向けられている。それに気付いた時には、フレイは既に手を伸ばしていた。
『っきゃ…!』
『ソール、逃げなさい!』
『で、でも…!』
『早く!』
次の瞬間にソールの身体は壁に打ち付けられた。そんな彼女が居た場所には複数の剣が振り下ろされており、フレイはそれをひとりでに受け止めたのだ。そして、彼女の戸惑いを隠す様に声を張り上げると、彼女はビクリ、と身体を震わせる。その直後に、勢い良く窓から飛び降りたのである。
げほ、ごほ、と咳き込む音が聞こえる。円を模(かたど)っている壁は、衝撃波によって既にボロボロに崩れていた。ペタペタ、と響く足音は酷く幼く、そして、ファイの闘争心をじんわりと削り取って行く。彼の白い肌には至る所に切り傷や掠り傷があり、それを付けたのは目の前でこちらを見下ろすソールだ。――否、ソールだと認めているのはフレイだけなのかもしれないけど。
「貴方は、この子を守る為に庇ったんじゃないんですか」
「おや、そう見えませんでしたか?」
「ならなぜ、この子の今の顔を見ようとしないんですか」
「何を――」
「っ…貴方は、感情をなくしたこの子が見たかったんですか!?」
意を決した様に声を荒げたファイの言葉に、フレイは僅かに目を見開いた。その時に初めて、フレイの人間臭さを垣間見た気がする。髪と瞳の色が違うと言っても、力の威圧感が強くなったとしても、ファイにとって、目の前の少女はレイノ以外の何者でもなかった。ファイにとっての彼女は何時も笑顔で、周りを明るくしてくれる子で、馬鹿みたいに明るくて、――人に攻撃する際に眉一つ動かさない、そんな子じゃなかった。この男はレイノに、やってはいけない事をしたのだ。
「――殺しなさい」
「っ…レイノちゃん!」
ファイの叫びは届かなかったのだろうか。底を擦る様な声色は、ソールの身に降り掛かった。彼女の動きを制止する彼の声は、もう既に聞こえてはいない様だ。それどころか、彼女は再び表情のないまま武器を振り下ろす。彼は入口付近に突き刺さっていた剣を手に取り、彼女の一撃をそれで受け止めた。ギリギリ、と響く耳に痛い金属音と共に、彼も無意識に歯を食い縛っていたらしい。
一方では、フレイが何気なく腕を軽く振る。すると、ファイの脳内には再びじくじく、と蝕む様な記憶が流れ込んで来た。――その記憶は、フレイの優しさを証明する痛々しいものだったのだ。
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