episode 151
ただ会いたいだけだった
フレイが消えてから、どのくらいの時間(とき)が経っただろう。ただ言われるがままにヘリオポリスを後にし、ソールはとある男に出会った。その男が言ったのだ。フレイは自身の元にいる。助けたくば我が願いを叶える為の駒となれ、と。その願いも、その言葉の真偽さえも彼女には分からなかった。しかし、それよりも、もう一度フレイに会いたい、そう願ってしまったのだ。その瞬間に歪んだ男の顔を、彼女は未だ、知らずにいる。
「駒」として生きる様になったソールは、既に感情を失っていた。楽しさや嬉しさ、と言った感情は今ではもう、遠い遠い彼方に追いやられている。自身の手の平は赤く赤く汚(けが)れており、もうあの温かな手に抱き締められる資格は無いのだろう。それでもフレイの為、と言い聞かせて彼女は再び歩を進める。それがどれだけ独り善がりでも、進まない訳にはいかなかった。――進むしか、道は無かった。
『あの娘は素晴らしい。あの健気さは、さすがは『神の娘』だろう。この調子だと、無用な次元を全て消してくれるやもしれぬな。――のう、フレイ』
そう言った飛王の視線の先には、鎖で雁字搦めにされた傷だらけのフレイの姿があった。そのフレイの瞳には憎悪の情が多く含まれており、それを飛王に飛ばし続ける。しかし飛王はただそれを嘲笑うだけで、何も手出しはしなかった。それが余計に気に障り、フレイは枷を着けられた両手首を力いっぱい動かしてみる。しかしそれが外れる事は無く、痛々しい金属音を響かせるだけに終わった。そんなフレイの視界には、血だらけになって地を彷徨うソールの姿が映っていた。
『あの子を…っ、どうするつもりだ……!』
『言っただろう。我が願いを叶える為の駒になって貰う、と』
『なぜあの子が!』
『…貴様、自分の力の強さを理解していないようだな』
『なに……?』
『お前の力は人間の救いになるが、その人間を滅ぼす事も出来るだろう。お前の人間に対する熱すぎる愛情が、その身を滅ぼすんだ。――もちろん、あの娘もな』
大きく見開かれた金色(こんじき)の瞳には、私欲に塗(まみ)れた飛王の笑みが映し出されている。――こいつは、何を言っている?守ろうと決めた者を、自身の手で壊すと、そう言いたいのか?ふざけるな。そんな事、する訳がない。否定の言葉を紡げば良いだけの話なのに、どうしてこの口は動いてくれない。どうして、この口は震えてばかりなんだ。
『貴方…何がしたいんだ……?』
『会いたい人がいる』
『会いたい、ひと…?』
『――そう言えば、あの娘は進んで人の命を摘んでくれたぞ』
『貴様…っ』
衝動的に身体を動かせば、フレイの耳は再び金属音を聞く事になった。出会ったばかりだが、この男は何度神経を逆撫でれば気が済むのだろう。ギリ、と歯を食い縛れば、飛王の笑みは深まるばかりだった。先程の言葉の真偽は分からない。しかし、どうしたってこの男を好ましくは思えなかったのだ。そして、微かに澱んだ心に気付いてしまった。
それを無視した事が、私の悪夢(ゆめ)の始まりだった。
暫くして映し出されたのは一面銀世界の、極寒の国だ。サク、サク、と静かな音を響かせながらもソールの足の裏は真っ赤で、どうやら霜焼けを起こしているらしい。それも気にならない程、彼女は感情を失ってしまったのだろうか。多くの年月を掛けて人間の様に育てて来たつもりだったが、どうやらそれも無駄になるらしい。彼女はぼうっと灰色の空を眺めている。ヘリオポリスに居たままでは見る事がなかった澱んだ空だ。それを幸せだと喜べば良いのか不幸だと嘆けば良いのか、今ではもう分からない。
そんな中で、ソールはとある少年と出逢った。金髪碧眼の、薄幸気味な美しい少年だ。そんな人間に何かを感じたのだろうか、彼女はぎこちないながらも笑みを見せたのだ。その瞬間、フレイの中に諦めに似た感情が芽生えたのを覚えている。そして悪の感情が増えた事により、フレイは善でも悪でもない、ただの人間になれたのだ。
『――お前でなくてもよいのだ、フレイよ』
『……何の事ですか』
『あの娘の心を開くのは、お前でなくともよいのだ』
『ちがう……』
『見ただろう、あの笑みを。――そう言う事だ』
ぶつり、と映像が途切れ、静寂で包まれた空間に飛王の声が響き渡る。あまりに唐突な彼のそれはフレイに戸惑いを与えたが、今思えば無意識に理解していたのかも知れない。――ソールは私に依存などはしていない。依存をして、執着ばかりしているのは私なのだ。そう結論付けた時、目の前には次元移動を終えたばかりのソールが居た。
『父さま…?』
『ソール…』
『父さま…身体、ぼろぼろ…』
そう言ってこちらに手を伸ばすソールの優しさを、フレイは力いっぱい払い除けたのだ。この場に響くぱちん、と言った乾いた音は、彼女の大きな瞳を見開かせるには充分だった。しいん、としたこの空間は、どうやら飛王の夢見通りに進んでしまっているらしい。――それならば、その「夢見」に沿うのも一興ではないか。一瞬でもそう思ってしまったフレイの周りには、轟々たる風が舞い上がったのである。
『父さま!?』
『我に従うか、太陽の神よ』
『ぐ…っう、あ"…っ』
『父さま!』
何度も何度も「父さま」と呼ぶソールの声も、フレイには聞こえていない。その身を蝕む負の感情が、今は苦しくて仕方がないのだ。何時もキラキラ、と煌めいている筈の彼の空気は、今はもう黒く澱んでいた。――こんなものを見れば、いくら私と言えど悪いものだって分かった。けど、それをどうにかするなんて、力はあっても力の使い方が分からない私にはどうにも出来なかったのよ。父さまは苦しいはずなのに、そんな状態でも震える手を私に伸ばした。
『う"…っ、ソー、ル…逃げなさい』
『っ…逃げるなんて、馬鹿なこと――』
『…最後まで言う事を、聞いてくれない、んだね』
『だって…!』
『君にもっと、色んな事を、教えて、やりたい。だから、生きて、――行ってくれ』
最後にその言葉を残し、フレイはソールの身体を思いきり突き飛ばした。その際に、彼女の力の大半を封印したのは彼の中の秘密である。それも直(じき)に忘れてしまうのだから、やれる事はやっておきたい。暗い空間に落ちる透明な涙は良く映え、それが僅かながら、彼に後悔の念を与えた。――もう会えないかもしれない。けど、それでも、君には生きて欲しい。生きて、色んな感情を知ってくれ。「神の娘」を忘れて、人の子として生きて下さい。それが一番、君の為になるだろう。
短く舌打ちを響かせた飛王がこちらに手を伸ばす様(さま)が見える。しかし、もう遅い。フレイがソールの方向へ手を伸ばすと、彼女の足元にはフレイの魔法陣が展開された。そして、彼女の身体を包み込む様に風が巻き起こる。それは彼女に纏わり付き、この場から逃がす助けとなったのだ。
『――父さん!』
そうして、ソールは「レイノ」として生きる事になる。
記憶が途切れた瞬間、ファイは持っていた剣でソールの刀を薙ぎ払った。その重みで重心を崩した隙に、彼は真っ直ぐフレイの元へ駆け出して行く。指先から放たれる攻撃にも怯まず、ファイは歯を食い縛って剣を振り翳した。そしてギリギリ、と鳴り響く金属音を耳にしながら、ファイはフレイを見下ろした。
「貴方の望みは何ですか、フレイさん」
「…私は――もう、言わなくても良いでしょう」
「は…」
後ろに居る筈のソールが動く気配は無い。それを感じ取ったファイはなるべく感情を抑え込んで静かに問い掛けた。それに何かを言い掛けたフレイだったが、一瞬、何かに気付いた様に目を見張る。そして諦めた様に、はたまた安堵した様に、優しげな笑みを浮かべたのだ。初めて見る表情にファイは目を見開くが、その詳細を聞く前に目の前は真っ赤に染まる事となったのである。
「――レイノ、ちゃん」
初めて見た神の血は、やはり酷く、優美に見えた。
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