episode 154
慈しむ思い人
黒く暗い、闇が広がっている。その空間はかつての自分が居た場所に似ていて、何処か落ち着く雰囲気がそこにはあった。けれど時折見せる微かな光は自身が求めていたもので、それは自身が――黒鋼が求めていたものだった。それに気付いた彼は、ゆっくり、そしてうっすらと深緋(こきひ)色の瞳を開けて行く。目の前に広がった白い景色は酷く懐かしく、思わずその双眸を見開いた。
「どこだここは…あいつらは…」
「ここは日本国。貴方と一緒に旅をしてきた方達も、この白鷺城にいらっしゃいます」
そう告げた声色は空気中に柔らかく溶け、黒鋼の鼓膜を優しく揺さ振った。再び見開かれた彼の双眸には自身唯一の主の姿が映っている。その名を確認する様に呼べば、「知世姫」と呼ばれた少女は微かに笑みを浮かべ、「おかえりなさい」と囁いたのだ。数十cmの隙間から見える空には綺麗に欠けた三日月が浮かんでおり、その均衡を見る事が出来るのはこの国――日本国しかない。彼はそう確信したのである。
「あの時の声は…」
「私ですわ」
黒鋼の言う「あの時」とは、次元の外側からファイの腕を掴んでいたあの瞬間だ。あの時、黒鋼の脳内には先程の声色と同じそれが響き渡っていた。それはファイの魔力と引き替えになる物を残せ、そう告げていた。そして黒鋼は自身の左腕を、今はもうなきセレス国に置き去りにする事となったのだ。
「あの時、私の『守』でも守りきれなかった傷で貴方は死の一歩手前でした。死ぬ前にも、人は夢をみます」
「夢を渡って、俺にあいつらを連れ出す方法を告げたのか」
「あの術は、それを使った術者を『核』としていました。だから、閉じていく法円の中から術者は出る事が出来ない。けれど、貴方達を逃がす為に力を使い果たしていましたから」
それに加え、戦闘の最中(さなか)にレイノは自身と黒鋼に魔術を掛けていた。それが自身にとってどれだけ負担になるか、彼女は知っていた筈だ。しかしそれを顧みず、彼女はアシュラとの戦闘で魔術を使い続けた。あまりに酷い自己犠牲である。それでも彼女を止める人物はあの時、あの場では存在していなかったのだ。
もっと力があれば、と悔やんだ事は無い、と言えばうそになる。けれど、あの時の状況でファイを助ける術があったか、と聞かれれば、――答えは否、だ。そんな追い込まれた状況が、黒鋼から強さを奪ったのだ。そんな黒鋼はどうやら血を撒き散らして息を引き取ったアシュラの姿を思い浮かべていた様である。
「…夢で視て知っていたのか、俺が奴を殺めたらこうなると」
「そうならなければ良い、と願っていました」
「それで『呪』などと言ったのか」
「――「先に告げろ」と、言わないのですか?」
「知っていて言えない苦しさは、知らない者には分からねぇ。分からんものを責めても詮無えだろ」
「…黒鋼…」
「それに、あの時腕を落とした事を悔いる気持ちはねぇ」
再び熱々しい瞳を見せた黒鋼はゆっくりと丁寧に、言葉を紡いで行く。それは、次元を渡る旅を経験する前では決して有り得なかったであろう姿だった。きっとそれが彼の本来の姿だったのだろうが、両親を惨殺された事によりナリを潜めていたのであろう。それによって黒鋼は馬鹿みたいに力を欲した。今思えば、酷く痛々しかったろう。しかし当時の黒鋼は、大事なものをもう誰にも奪われないように、と必死だったのだ。だが、次元の違う人々と出会い、黒鋼は知る。力がある事が災いを呼ぶ事もあり、力だけでは守れないものもある、と。ぎゅ、と力強く拳を作れば、無い筈の左腕に人肌の温もりを感じた気がした。
「…真の強さ、分かって下さったようですね」
置いて来てしまった黒鋼の腕を慈しむ様に、知世は彼の左袖をそっと撫でた。その瞳は慈愛に満ちており、認められた。――黒鋼はそんな事さえ思ったのだ。今まで座っていた彼女はふと立ち上がり、襖の向こう側に声を掛ける。すると、白い着流しを着こなしたファイが現れた。随分と伸びてしまった金髪と眼帯のせいで、ファイの表情は近付かれても良く見えない。それは、僅かに細められた黒鋼の瞳が示してくれていた。
「おい」
そう一言、声を掛けても目の前の男は一言も声を発しない。側に座る知世も口を開く気配は無く、どうやら首を突っ込むつもりは無いらしい。顔を向かい合わせていた時間はおそらく数秒だ。多く見積もっても十数秒である。しかし、黒鋼にはその時間が数時間の様に、酷く長く感じられた。だが、そんな時間は唐突に終焉を迎える事となる。静寂を守って来たこの空間には耳を塞ぎたくなる様な鈍い衝撃音が響き渡り、それはファイの拳と黒鋼の額から生まれている様だった。予想以上に強い衝撃に黒鋼は目を丸くし、身体は布団から弾き飛ばされている。そんな様子を見て、ファイはやっと薄い唇を動かしたのだ。
「――お返しだよ、『黒様』」
「…ぶっ飛ばすぞ、てめぇ」
久方振りに聞いたそのふざけた渾名を紡ぐ声色は柔らかく、黒鋼を見下ろす蒼い瞳にかつての冷たさは宿っていなかった。それを見届けた黒鋼は口角を歪ませ、ファイに言葉を返す。喧嘩が始まりそうなやり取りも、この二人にとってはこれが普通なのだ。――長く求めていた時間がやっと戻って来た、そんな気がした。そんな時、廊下の床が軋むギシ、と言った音が響き渡る。その直後にひょこ、と顔を覗かせた人物に、黒鋼は再び目を見開いたのだ。
「仲直り、出来た?」
「うん。一発殴れたし」
「解決方法が限りなくゴリラ……」
「誰のこと?」
「――お、まえ、かみ…」
そこには風に靡くロング丈の茶髪は存在しておらず、そこにあるのは綿の様にふわふわと跳ねるそれだけだった。――その事実に、黒鋼は酷く驚愕したのだ。しかし、そんな彼を放って目の前の二人は何時の間にか距離を縮めている。だが、黒鋼はどうしても目の前に広がる現実を言及したくて堪らない衝動に駆られたのだ。そんな黒鋼の言葉にレイノはふわり、と笑みを溢し、暫くの間、聞く事がなかった柔らかな声色を響かせる。
「イメチェンしちゃった。変かな?」
「そう言う事を言ってるんじゃなくてだな…」
「――有り難う、黒鋼」
「だから何がだ」
「『東京』からずっと、守ってくれて」
「俺がしたくてした事だ」
「…それでもお礼、言いたくて」
未だに座り込んだままの黒鋼と目線を合わせる為にしゃがみ込んだレイノは、随分と短くなった自身の髪に触れる。そして唐突に、感謝の言葉を口にした。それはファイが居なくなってから、「代わり」だと言いたげにずっと隣で守ってくれていた黒鋼を酷く労わるものだ。それを黒鋼が望んでいない事は知っているが、黒鋼がもっと別のものを密かに欲していた事も知っているが、今の彼女が出来る事と言えばこのくらいの事なのだ。そんな彼女の思いを察したのか、諦めた黒鋼は熱い紅の双眸をこちらに向ける。
「……『仲直り』っつうのは、出来たのか」
「うん。出来たよ」
「なら、良い」
その強い視線と相まって、黒鋼の声には芯がある。それを信じる事が出来る様になるまで随分と長い刻(とき)を要したが、それが今は酷く心地が良(よ)い。安心した様にふと笑みを溢した彼は、目の前の小さな存在の茶髪をわしゃわしゃ、と撫で回した。その大きくて温かな手は、大切で大好きな物だ。例え互いのおもいが違うものでも、これを手放す事は出来ないのだろう。その温もりを堪能していた時、レイノの両肩にはどっしりとした重さと愛しい温もりが圧し掛かる事となった。
「いつの間にそんなアイコンタクト交わせるようになってるのー?」
「べ、別にアイコンタクトなんて…!」
「お前が別の女に夢中になってるうちにだよ」
「サクラちゃんはそんなんじゃないし」
「どうだか。寝食を共にしてただろ」
「く、黒鋼!」
むす、とした様子でレイノの背に圧し掛かったファイは、そのまま彼女の肩にぐりぐり、と顎を押し付ける。その途中で紡がれた言葉に思わず否定を示すが、その後に述べられた黒鋼の言葉に思わず顔を赤らめたのだ。そんな光景を見ている知世姫は、くすくす、と笑みを隠さずに優しげな視線をこちらに向けている。知世姫はふと重い着物を動かし、襖へと歩を進めた。そして、外へ出る事を促したのだ。
それは、もう一人の「姫」に会う為だった。
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