episode 155
いとしき距離
外に出ると、長く弧を描いた桟橋が続いている。それにゆっくりと体重を乗せて行くと、僅かながらギシ、と言った木々の音が響き渡った。その道を全て歩み終えると、ヒラ、と花びらが舞い落ちる。淡い桃色を彩ったそれは、レイノらの視界を独占し、そして、夢中にさせた。それが舞い落ちる原因とは、あまりに巨大な樹木である。それは何処からか艶やかな布を引っ提げており、それらの中心にはとある人物が横たわっていた。
『サクラだ!』
日本国独特の衣服は酷く緩やかな物で、寝苦しくはない様子である。寧ろ、手首辺りは解放感溢れており、サクラの表情も酷く優しげなものだった。『小狼』は大木に足を引っ掛け、一思いに己の身体を持ち上げる。そして着地した場所は眠る彼女の傍である。その穏やかな寝顔はまるで生きている様で。しかし、この身体が魂を失ったものである事を忘れてはいけない。
「躯の傷は手当てさせて頂きました」
『ありがとう、知世姫。でも、どうして木の上に?』
「これは日本国で一番樹命の長い神木です。この樹なら、魂がない躯に少しでも精気を送れます」
「…桜だ。同じ名前の樹だな」
絶えず空から降り続ける桃色の花びらを指先に、そのままサクラの柔らかな茶髪を撫でた。その瞬間にも手の平に溜まりゆく桜の花びらは柔らかな手触りで、それは彼女の儚い優しさを表している様でもある。そんな何処か緩やかな空間に布の擦れる音が小さく響いた。それに思わず身体を跳ねさせて、後ろを振り向く。そこに居たのは、黒鋼にとっては見覚えのある面持ちである。
「帰ったのですね、黒鋼」
「おう」
交わされた会話はたったそれだけだった。しかし、この二人にはそれだけで充分らしい。幾重もの着物を着込んだ女性の後ろには、健康的な褐色肌をした女性がこちらを見守る様に見つめていた。桜都国やピッフル国でも見かけた顔だが、それとはまた別ものらしい事はとっくの昔に把握している。――暫くの間、視線が絡み合う。表情の変化を見せたのは、目の前の女性が先だった。
「少しはマシになって戻ったようですね」
「あぁ?」
「客人達も歓迎します。この城で暫しの休息を。――まだ旅は続くのでしょうが」
何処か茶化す様に、しかし僅かに嬉しさが孕んだその表情に、レイノとファイは思わず笑みを溢した。最も、肝心の黒鋼は理解しきれていない様だったが。だが、その後に続いた女性の言葉に再びこの場に鋭い空気が漂う事になる。――そう、まだ終わりではないのだ。いくら自身の過去を清算したとしても、サクラの魂を取り戻さない限り、この旅に終わりは来ない。
「それと、もうお一方客人が」
『だぁれ?』
話を変える様に女性は言葉を紡ぎ、背後にある柱に視線を向けた。それに倣うかの様にモコナが顔を覗かせると、そこにはやはり久方振りに見る顔があったのだ。――その顔は、確かに「東京」と言う国で出会った封真だ。日本国で再会するまでは全く違う次元に居た可能性が高いと言うのに、その容姿には殆ど変化がない。
「久しぶりだね。――と言っても、俺と君達が同じ時間の流れを過ごしたかどうかは分からないけれど」
『日本国には何か探し物で来たの?』
「いや、届け物があったんだ」
そう告げた封真は持っていた袋の縄を解き、所謂「届け物」をこちらに露見させる。明らかに人の腕であるそれは、何やら特殊な液体に常時漬けてある様だ。日本国と言う場所には余りに不釣り合いなそれに、レイノは思わず目を細めた。しかし、彼女の脳内には確かな答えが存在していたのである。
「なんだそれは」
「義手だよ。表皮カバーを調達してる時間がなくて、剥き出しで申し訳ない。――必要だと思うけれど」
「――なんで、てめぇが持ってくる。いやそれ以前に、なんで、おまえが知ってやがる」
「侑子さんに聞いたから」
――これが、封真が「東京」国で言っていた侑子とのもう一つの約束らしい。また、サクラに言っていた言葉とも同位である。彼が手の平で支える義手は、こことは別の高度に機械化文明が発展した世界――ピッフル国で手に入れたものらしい。聡い黒鋼は、そこで知世と言う存在を思い出す。そして、知世と繋がる、自身の主である知世姫に視線を注いだ。ただ、何も言わない。――否、知世姫の笑みが何も言えなくさせていた。
「……対価は?」
「貰ったよ。俺は侑子さんからね」
「俺は、魔女に何も渡しちゃいねぇぞ」
そう言った瞬間、黒鋼は隣に居るレイノとファイに視線を向けた。その紅い瞳は大きく見開かれている。その視線に気付いた二人は、揃いも揃って似た様な笑みを浮かべていた。――それがどうにも勘に障る。言葉にするだけマシになったものだが、やはり秘密主義と言うのは簡単には直らないものらしい。
「オレが魔女さんに渡すって約束したんだ。君が眠ってる間に」
「お前は…」
「わたしは何も渡してないよ。約束の事だって、今知ったし」
フォン、と聞き慣れない音が微かに響く。ファイの右の手の平には彼が何時も使用する文字式の小さな魔法陣が浮かんでいた。それを軸に、彼の右目から抜き出された何かが少しずつ形になって行く。――それが一つの形になった時、ファイの瞳には既に蒼色の名残は残されていなかった。彼が取り出したのは、自身の魔力の源であるらしい。
「モコナ、これを魔女さんへ」
『でも…』
「大丈夫、ちゃんと見えてるよ。これはオレの、最後に残った魔力だ」
『だめだよ!魔力がなくなったら、ファイ…!』
「これを渡しても死なない。吸血鬼の血が、オレを生かしてるから。自分の命と引き替えにするようなものは、渡さないよ。――もう」
その言葉と共に浮かんだ笑みは、確かに本物であろう。記憶の中での幼いファイが浮かべていた崩れる様な笑みとは違う、微かに憂いを帯びたそれ。姿形は確かに違うが、それは彼の本音が孕んだ精一杯の思いだった。そんな彼は「それに」と言葉を付け加えて、背後から少しだけ体重を預けてレイノを抱き締める。
「次に死ぬような対価を渡しちゃったら、殴られるじゃ済まないでしょ。殺されそう」
「ばか!殺しません!ちょっと灸を据えるだけです」
「ほら物騒。絶対黒様のせいだもん」
「予想外の所からの飛び火は止めねェか」
ぐりぐり、とレイノの頭頂部に顎を押し付け、溜め息を吐きながら愚痴紛いの事を呟く。そんなファイに手を伸ばすも、身長差がある為に届かないのである。その状態で飛び火を受けた黒鋼は堪ったものではない。――その三人と、この光景を見てはくすくす、と笑みを溢す知世姫を理由に、モコナは漸くファイの魔力の源を思い切り吸い込んだのだ。
一方、黒鋼は封真に差し出された義手を左肩に近付けた。すると、刀で斬られた断面を隠す様に、義手からは何十本もの管が黒鋼の体内に入り込んで来る。どうやら、この管が黒鋼の神経と義手を繋いでくれているらしい。――何度か伸縮を繰り返す。特に違和感もなく、顔色も良好だ。しかし、これから起こる現象は一行にとっては願わない事だった。
床を突き破る様にして現れたのは、出会った頃と変わらぬ星四郎だったのである。
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