episode 158
何もせずとも混じる紅

 ――嫌な気が、白鷺城を中心に集まって来ている。それは大樹に生気を与えるかの様に、じわり、じわり、と力を送り込む。それをただ見ているしか出来ない。旅が始まった当初であればそんな現状に焦りを抱いていたのだろうか。否、今でも抱いていない訳ではないのだ。ただ、きっとあの場に行っても何も出来ない。そんな確信に近い何かを、レイノとファイは抱いている。それを理解しているからこそ、黒鋼は静かに低音を響かせたのだろう。


「……追いかけねぇのか」
「オレにはもう魔力はない。それに、もし、あったとしても……待つよ。辛くても」
「…お前もか」
「うん。ちゃんとサクラちゃんを連れて戻って来るって信じてる。だから、早く来ないとお説教だもんね」

 途切れる事なく降り注ぐ桜の花びらを眺めては、レイノは緩やかなる桃色の視線を黒鋼へと注いだ。きっと、ファイも同じ様な表情を浮かべているのだろう。安堵した様に笑みを浮かべる黒鋼が、その予想が正解であると教えてくれていた。しかし、『小狼』は魔力があるのだから手こずる事は殆どない筈だ。なのに二人の姿は無い。――夢の世界に訪問者など、有り得るのだろうか。サクラが居ない今、それはもう分からない。


『小狼、大丈夫かな』
「私には、もう夢は渡れません。出来る事は信じるだけです。必ず帰って来て下さると」
『――モコナも、信じるよ』

 ――信じるだけと言うのは、どうしてこうも心を擽り、嫌な気持ちにさせるのだろうか。疑いなどは無い筈なのに、どうしてこんなにも悲しくなるのだろうか。もう一人の「わたし」を合わせたら随分と長くこの心臓と共に歩んで来たが、この感覚に慣れる時は一向に来ない。
 それでも、どれだけ不安でも、自身を勇気付けるその温もりを知っているから。それを手繰り寄せる為に出来る事がこれだけなら、わたしはいくらでも祈り続けるのだと思う。


「――酷い目にあったな」
「あわせた、の、間違いじゃないかな。最初からあの羽根は渡すつもりだったんだろう、あの子に」
「――さあ」
「困った人だなぁ、気に入ったものはすぐ苛めたがる。――だから、あの双子に逃げられるんだよ。俺もとばっちりで神威に嫌われて大変だった」
「自業自得だろう」
「さあ。――しかし、無事、帰って来られるといいけど…難しいかもしれないな」

 知世が創り上げた星史郎はレイノらから一歩下がり、封真の横に身体を落ち着かせる。『小狼』との戦いで割れてしまった眼鏡は行き場を失い、胸ポケットにしまわれる事となった。そんな星史郎は、ひとり言にしては大きい封真の言葉を耳にし、しかし口は開かず、ただ舞い落ちる桜の花びらを見上げる。――しかし、桃色のそれは何かから逃げ惑う様に、ザワザワとその身を揺らしたのである。
 世界を渡っている途中、封真は星史郎の教え子である小狼に会った事があるらしい。――強かった、星史郎からの話とは似ても似つかぬほど強かった。――そう呟く封真の声色は酷く硬く、何よりも実態を持っていたのではないだろうか。その強さは「心の痛みも体の痛みもなく、全てにおいて迷いのないもの」であるからだと星史郎は言う。それに加え、今の小狼にはファイから奪った魔力も備わっており、それは恐らく使えば使うほど強力になるものだ。


「使い続けていたなら、両目が揃っていたあの魔術師を凌ぐ――か」

 ファイだけではない、常に魔力を使っているのならば神の力を手放したレイノでさえ、凌ぐのではなかろうか。




 ただ待つだけの時間と言うのは酷く長く感じる。旅が始まったばかりの、嘘に嘘を重ねていた時ならばこんな事は思いもしなかったのだろう。しかし、旅の本当の目的、自身の本当の過去を知り、それを受け入れてくれたファイが隣に居る今、そんな思いばかりが溢れて来る。――早く、早く。気持ちを急かせば急かすほど、レイノの中には焦りが生まれた。
 そんな時、彼女の右手はとあるぬくもりに包まれる事になる。――ファイだった。目線は合わない。けれど、微かに力を込められたそれは、レイノに余裕を持たせたのである。きゅ、と目元に力を込め、再び桜の大木を仰ぎ見る。すると、その大木を両断するように亀裂が走ったのだ。


「桜が!」
「夢で何かあったかな」
『小狼!サクラ!!』

 大木に刻まれた亀裂は収まる事を知らず、寧ろ被害は広がっている気がした。それを支える様に複数の箇所から伸びる絹の布も激しく揺らいでいる。先程とは明確に異なる現状に、レイノらは夢の中の異変を感じ取る他に術は無かった。――耳元でモコナの悲痛な叫びを聞き届けながら、知世は強く、強く祈るだけ。それだけしか出来る事は無いのだ。しかし、それが収まる結末を迎え入れる事は叶わなかった。メキメキ、と嫌な音が響き渡ると、レイノらは視界に映る音の正体に目を見開いたのである。


「……桜花国と、同じ…」
「レイノちゃん?」
「現実の世界に、夢の世界が入り込んでる……」
「…羽根の力か」

 収まる事なく広がる大木の亀裂からは、何処か禍々しい気が漏れて来ている。そして、レイノはその光景に明確な既視感を覚えたのだ。また、隣に立つファイはそんなレイノにざわり、と異なる気を感じ、思わずそちらに視線を向けた。大木の亀裂から視線を逸らさぬ彼女の双眸は、微かながらも金色(こんじき)に変化していたのである。――混じり気のない、本物の太陽の力。レイノちゃんではない、あまりに幼いソールちゃんの気だ。そんな彼女は、サクラの羽根の力によって引きずり出されたのではないだろうか。
 大木の幹はメキメキ、と音を立てながら崩れて行く。この現象が一体なにを示しているのか、夢の世界へと行けないレイノらには分からない。その亀裂の先に少しでも手を出せば、震える程の均衡が崩れる予感がするのだ。そこまで考えて、なぜ気付かなかったのだろう。――現実世界だけではない、夢の世界でも同じだと言う事に。


 桜の大木がドクン、と脈を打った瞬間、それの亀裂から見えていた禍々しい気が溢れ出したのである。それは、まるで一つ一つの束が意志を持っている様に動き、レイノらの四肢を絡め取って行く。ぐい、ぐい、と腕を動かすもそれが解ける気配は無い。また、サクラには一切手を出さない事が、かえってレイノらを困惑させていた。まるで邪魔はさせない、と言われている様で気味が悪いのだ。――そんな中から突如、飛び出して来るものがある。それは二人の小狼だ。小狼の手にはサクラの羽根が握られており、それを中心に眩い光を放出させていた。
 二人の身体を支えていた黒の物体は分散し、その瞬間にサクラの羽根は小狼の手から滑り落ちる。運良く足場となってくれた木の太い枝を反動にして再び跳躍し、二人の小狼は同じ様にサクラの羽根へと手を伸ばしたのだ。


『小狼ー!!』

 黒い物体に四肢を絡め取られながらも、モコナは小狼の名を力の限り叫んだ。そちらに目を向けずとも、確かに耳には入っている筈なのだ。――無事を願う事さえ出来ない。ただ、その様子を仰ぎ見る事しか出来ない現状は、自身の無力さを痛感するのには充分だった。『小狼』の手助けをする事も、サクラの羽根を手に入れる事も、サクラを救い出す事も出来ない。ソールだった「私」が身をもって経験した、飛王に狙われるフレイに何も出来なかった事を思い出す。それでも、今この瞬間は『小狼』に全てを委ねるしかないのだ。
 二人の小狼が同じタイミングで剣を振り翳し、その切っ先を双方に向けた。――筈だった。純白の礼服が紅に塗(まみ)れる。生々しくも肉を切り裂き、貫く感触が剣を伝って小狼に伝わる事になった。まるで『小狼』を守る様に、殺しては駄目だ、と言いたげに小狼の一撃を甘受するのは、この場に居る誰もが守ろうとしていたサクラだった。そんな彼女の身体を貫く剣が震える。――どうやら、震えているのは小狼の手らしい。そんな中、『小狼』は血に塗(まみ)れるサクラの名を叫ぶ。しかし彼女は緩く首を振り、それを拒んだのである。


「――貴方のさくらは、わたしじゃない」

 だからどうか、もうわたしを守らないで良いんだよ。

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