episode 159
謝罪さえ届かぬまま
「わたしも、同じだから」
血に塗(まみ)れ、桜の花びらを象りながらサクラは言う。その翡翠の瞳が喜色を彩ったのは何時の話だっただろうか。たった一言、――その言葉を耳にしたレイノとファイは目元に影を作り、黒鋼は紅の瞳を大きく見開かせた。そして、それを見守る『小狼』もきっと前者と同じ心境なのだろう。だからあの時、目の前のサクラに言った。――『あのさくらを一番大事だと思ったのは、『おれの心』じゃない。おまえだろう』――と。
後ろにいる彼が、下にいる金髪の彼が全てを薙ぎ払っても守りたいのは、わたしじゃない。きっと、わたしを待ってはいない。――ずっと、自由になって欲しかった。ただ、笑っていて欲しかった。その為に、わたしが枷になってはいけない。こちらに手を伸ばす彼女を、振り払わなくてはいけない。ようやく真っ直ぐ見れる貴女に触れられないのはとても悔しい、けれど、今度はファイさん、貴方が守る番だから。
「…レイノちゃん、ごめんね。ずっと苦しい思いを、させてた。ファイさんを独り占め、しちゃってた」
「ひめ、さ…」
「…ずっと、羨ましかったの。強くて、可愛くて、なんでも知ってて、わたしにないもの、ぜんぶ持ってる。ほんとに、お姉さんみたいで」
「ちがう、わたしは、なにも言わない貴女が、さみしくて。言って欲しかった。きっと、できる事があったよ」
ぽそり、ぽそりとサクラが呟く。距離が近付く事がなくとも、こうして面と向かって言葉を交わすのは随分と前の事だった様に思う。――でも、まだサクラの名は呼べなかった。桜都国で「お姉さんみたい」と言ってくれた彼女の名は、呼べなかった。意地を張ってる訳でも、嫌いな訳でもない。それでも、彼女の名を呼ぼうと口を開ける度に唇が震えるのだ。両隣では、ファイと黒鋼の視線が注がれる。――きっと、もう間に合わない。この一瞬で、あの子の躯を形成する方法は無い。それでも、この動かない身体はどうする事も出来なかった。
「っ…ちゃんと!怒って、仲直り、したかった……」
「…レイノちゃんはもう、自由、だから、絶対大丈夫、だから」
ヘリオポリス国で魔力の源であるフレイが消滅してから、喜怒哀楽に歯止めが効かない。――もしかしたら、関係ないのかもしれないけれど。押し留める事もなく、涙は粒となって黒い物体に染み込んで行く。もう戻らないんだと思うと、どうしたって止まる事は無かった。そんな時に鼓膜を震わせる「絶対大丈夫」と言う言葉は、レイノの心を酷く締め付ける。ふとサクラを仰ぎ見ると、――もう限界なのだろう――サクラは大半が桜の花びらとなった躯を小狼に預けていた。
「ごめんね。――レイノちゃん、ありがとう」
ふと風が吹き、桜の花びらによって視界が遮られる。繋ぎがなくなって行く様に、いとも容易く舞うそれは酷く儚いものの様に思えた。サクラの躯に、力なんてものは既に残されていない。小狼が居なければ次第に落ちて行くのだろう。呆然としながらもそんな彼女を受け止めたのには、きっと躯の記憶が関係しているに違いない。――血に塗(まみ)れて傷だらけ、身体と言う躯は残されておらず、それでも終わりじゃないとサクラは言う。それはきっと、この二文字を伝える為だった。
「…貴方が……す…」
泣いて、泣いて、傷付いて。必死に追い掛けて、それでも届かなくて。やっと届いたかと思えば儚く消え、この手に残るのはぬくもりでも残り香でもなく、何も見えぬ真っ暗闇だった。――少女の名を象る花びらが一枚、淡く輝く。まるでそれがサクラの核であるかの様に、血で濡れた小狼の手の平に収まった。――もういない――そう実感するには充分な一瞬だったろう。それを握り締めた小狼が咆哮した瞬間、ただレイノらの動きを止めていた黒い物体が一斉に勢い良く動き始めたのである。
それはサクラの羽根に群がり、纏わり付き始めた。そしてその瞬間、耳障りな耳鳴りがレイノに襲い掛かる。見た事のある、次元の狭間だ。――まさか、と思った。うそだと思った。それでも現実は変わらない。幾度と目にしたその姿はジェイド国、ピッフル国と一行のゆく手を阻んだ男だったのだ。
「あいつは!!」
「――カイル!」
――名をカイル、サクラの羽根を狙う飛王の一味だ。肩には蝙蝠のマークが描かれたアーマーが装備されている。彼は手の届く距離に寝そべるサクラの毛先を遊び、そのままその身体を引き寄せた。まるで彼女は飛王のものだと言われている様で、腸(はらわた)が煮えくり返りそうだ。しかし、身体は未だ動かない。寧ろ、レイノらの身体を拘束する力は次第に強まっている様な気がした。少しでも手を出そうとすれば黒い物体が纏わり付き、全てを絡め取ろうとして来るのである。
『――サクラ!!』
「風華…!」
カイルがサクラを自身の身体に凭れ掛けさせる姿を見ては、自身の身体がかっと熱くなるのを感じた。でも動かない。――なんで、なんで、どうして!今、動かなきゃ意味がない。今、動かなきゃまた一つ、飛王に力が増える。きっと、羽根の防衛反応だ。サクラを守るため、こんなにも力を増大させている。それを逆手に取り、カイルが守られている事も気に喰わない。――『小狼』がカイルに向かって魔力を放つが、それも全てサクラの羽根によって弾き返されていた。カイルは、そんな現状を利用しない人間ではないのだ。
「今度こそ頂いていく」
「待て!!」
そう言って、カイルは片手でサクラの身体を支えながら空いた手で彼女の羽根を手にした。――もう、我慢がならなかった。右腕を動かせば、その動きに合わせて黒い物体が纏わり付く。それさえ気にせず、レイノは右手に魔力を集めた。それをカイルへと向け、黒い物体が群がる手元に狙いを定めては自身の魔力を勢い良く放ってみせたのだ。――確かに当たった。それなのに、黒い物体の手助けを借りたカイルはサクラの羽根を手中に、再び次元の狭間へと身を投げ入れたのである。それと同時にレイノらの身体に纏わり付いていたものは消え去り、浮力を失った『小狼』の身体は真っ直ぐ床へと落ちたのだ。
『小狼!サクラ、連れてかれちゃったよ!』
「…もう一人の小狼君も、いない」
モコナと共に『小狼』の元へ駆け寄ったレイノは、彼の身体に手を添えた。傷だらけになった白い衣服は見た通り、とっくの昔に疲弊しきっている。そんな状況にも関わらず決して離さぬ剣は微かな希望を抱く様に、艶やかにも輝いていた。――ファイの言う通り、周りを見渡せど当初の人々しか確認できない。己から次元を移動したのか、飛王に回収されたのかも分からない状況だ。そんな中、『小狼』の双眸は熱く燃え、それはまるで新たな決断を促すようであったのだ。
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