episode 166
人の道へ続け
「……『小狼』」
人間が液状化し、蒸発しては消え
行く光景を眺めながら、レイノは思う。――この崩壊は止まらない――と。そして、この者達を切り捨てなければいけない、と。何処か夢見心地な気分に苛まれながらも、レイノはぽつり、と『小狼』の名を呼んだ。鼓膜に響く水の流れる音が酷く耳障りだ。視界の端では僅かに跳ねる『小狼』の肩が捉えられ、思わずほくそ笑む。それを誤魔化す様に、頬に掛かる茶髪を耳に掛けた。
「遺跡でしょ?走ればすぐだよ。行こう」
「…ああ。そこにさくらがいるはずだ」
「それは…どのサクラちゃん?」
「おれが会ったさくらだ」
「それは、その目を通してか」
「……いや、違う。――囚われるまで、ずっと側にいたさくらだ」
まるで「冒険に行こう」と言いたげなレイノの声は、酷く高らかだ。微かに表情は硬いけれど、そんな彼女に何時も助けられていた事は確かである。朧気だった精神状態が少しだけ、元に戻った様な気がした。――前へと垂れ下がるカーキ色のローブを、おもむろに肩に掛ける。進む準備は、もう出来た。その事に勘付いたのか、レイノは何処か安心した様に桃色の瞳を細める。『小狼』の言葉に驚かない彼女はそのまま、彼の後ろに繋がる様に一歩、足を踏み出した。
「――お兄ちゃん達、どこ行くの。町を出たら危ないよ」
ふと鼓膜に響く声音は、何度も世話になった青果店の息子だった。周りの人間が蒸発して行く姿には目もくれず、少年は町の門に近付くレイノらに声を掛ける。笑顔を作り、「泊まりにおいでよ」と歓迎するその姿は、もはやプログラミングされたロボットの様にしか思えなかった。何度も何度も同じ言葉を繰り返すその姿は、バグを起こしたロボットの様だった。それでも確かに生きていた。たった数時間を繰り返す事しか出来なかったけれど、それでも確かに生きていたのだ。
『この人達、元に戻らないの!?このまま死んじゃうの!?』
「泊まりにおいでよ、お兄ちゃん達。お母さんの料理、おいしいんだよ」
――壊れたものは、もう二度と元には戻らない。――それが自然の摂理だ。モコナの望む様にはならない。けれどそれを言葉にしてしまえば止まってしまいそうで、口に出す事は憚られた。レイノは、ふと視界の端に映った液状化した人間と向き合う。こちらに手を伸ばしている様な姿を取っているが、これでさえも彼女の影響ではなかった。きっと彼女も、ただの生命体としてしか認識されていないのだろう。それが寂しくて、しかし何処か腹立たしく、思わず彼女はどろり、とした液体に触れた。後ろからファイに名を叫ばれたけれど、どうやら害は無いようである。
「……どう言う了見でこんな世界にしたんでしょうね、飛王は」
「え…?」
「繰り返す事でしか生きられない世界が出来た事が必然だと言うなら、そんな必然はいらない」
「レイノちゃん…」
「生きてる自覚はあったのかなあ、って思うんです。それってすごく、寂しい」
どろり、とした粘液の様なそれはレイノの指の間を擦り抜けて、地面と共になる。ものも、形にも残らない。きっと、今の彼女らの記憶の中でしか生きる事は無いのだろう。生きた自覚も、死んだそれもないまま消えるのはどの様な感覚なんだろうか。長い時間を生きるしかない彼女や、ファイにはきっと分からない感覚である。なのにも関わらず、悲愴な面持ちで液体を見つめる彼女はあまりに優しい。そんな彼女は、ふと「ファイさん」と声を掛け、そちらに顔を向けた。
「なあに、レイノちゃん」
「……わたしこれから、また貴方をびっくりさせる事を言うんだと思います。…でも、それでもまだ、わたしの事をすきでいてくれますか……?」
「……なに言ってるの」
小さく、砂漠で僅かにかさついた手を、己のそれで絡め取る。きゅ、と握り締めると少しだけレイノの体温が沁み込んだ気がした。そして、小さな身体を見下ろす。ゆるり、と揺らぐ桃色の双眸は何処か儚くて、また消えてしまうんじゃないかと、そう思った。――ようやく本当の意味で身体を繋げて、やっとの事できみをオレのものにしたのに、きみはまだそんな事を言うのか。まだ、人間のものになった神さまだと言う自覚がないのか。そう考え始めて、苛立ちが募る。そんなオレは、レイノちゃんの肩を掴んだ。本当に小さくて、細い。オレの力で少し跳ねたその肩は筋肉があると言っても、男からしたらまだまだだった。
「仮に何かがレイノちゃんのせいだとしても、それがきみを嫌う理由にはならないよ」
「ファイさん…」
「…と言うかオレ、そう簡単に嫌いにならない自信しか持ってないよ。オレの気持ちばかにしてる?」
「……ふふ、してないです」
ファイは断言し、玖楼国の人々を振り捨てた。それに倣う様にレイノも再び歩を進める。微かに笑みを零すが、心が痛まない訳ではなかった。レイノはもちろん、ファイも何百年と死した片割れの命を背負っていた、あまりに優しい人間だ。何時も笑みを浮かべる事で苦痛を軽減して来たファイが、不満げな表情をあけすけに見せている。それが嬉しくて堪らなくて、レイノはファイの隣で歩幅を合わせた。
「……100年は片想いしてるんだから、嫌いになれるわけないでしょ」
「……そ、そうなんですか」
「…なにその反応。もうちょっと何かないの?」
「い、いや、ちょっと、重いなー、って…」
「殴るよ」
ぽつり、と呟かれたファイの言葉に、レイノは何度も瞬きを繰り返したのち、単調な反応を示す事しか出来なかった。彼女のそれに、思わず眉を顰めた彼はやはり随分と変わった気がする。しかし100年、などと言う気が遠くなる単位を淡々と言ってのけた彼に対し、「重い」などと
宣う人物は彼女以外は有り得ない気もした。そんな二人は門を通り抜けんとする『小狼』とモコナ、黒鋼の横に立ち並ぶ。そしてファイは、爪を喰い込ませる『小狼』の手に優しく触れ、「傷になるよ」と声を掛けた。
「確かに進まねぇ時間の中で生きるなんざ、死んでるのと同じだ。それに、おまえに罪があるなら俺も同罪だろ」
「オレもね」
『モコナもだよ!』
「もちろんわたしも。だから、大丈夫」
――昔から、レイノの言葉には言いようのない勇気をもらう。おれよりも小さいのに、おれよりも非力なのにその手は温かくて、おれよりも大きいもののように思っていた。太陽の光に反射して煌めく茶髪も、いつも眩しいその笑顔も、さくらとは少しちがってていつも元気になれた。そんなところがすきなんだろう。そんなところに隠れた弱さに惹かれたんだろう。だから、そんなレイノを周囲に晒してしまうかもしれない事を、先に謝っておこうと思う。
他人と己の願いがぶつかれば選ばなければならない、と言う局面では、願う者はみな同じだ、と飛王は言う。その二択とは己の願いを諦めるか、叶える為に
他人の願いを踏みつけるか、である。そして、『小狼』は今、確かに、己の願いの為に町の者達を振り捨てた。だから同じだと、飛王は言う。――しかし、レイノやファイ、黒鋼とモコナがそれをさせない。独りにはさせないし、必ずさくらを取り戻し、幸せな未来へと突き進む。
「…ありがとう」
仲間でさえも切り捨てて来た飛王に、そのぬくもりを抱けとは酷な話だろうが。
勢いのままに城下町を出て、幾度かの砂の山を越えた。それを踏み締める度に小さな砂埃が舞い、足元を霞ませて行く。日中、あれだけの熱気を出していたこの国は日が落ちると一気に冷え込んでしまった。恐らく、氷点下には到達してしまっているのだろう。『小狼』のマントで震えるモコナに、彼はより深くそれを被せる。仄かに感じる温かさは、確かに彼の体温だった。後方では、レイノが真っ白なローブのボタンを留め、体温を逃がさない様に防寒対策を施している。
「寒い?」
「平気です、冷たい風が顔に当たっちゃっただけ」
「…随分と夜も深まって来たし、急ごっか」
『もう少ししたらまた急に眠くなって、時間戻っちゃうのかな』
「…いや、遺跡に入れば、おそらくそれはない」
「何故、分かる」
「おれの考えが正しければ、――あの日のまま、遺跡の中の時間は、
停止まっている筈だから」
白い手袋に纏われた人差し指をきゅ、と掴む。少し細く、滑らかな手触りをしているそれはファイの手に余る。温もりも冷たさも分からないが、恐らくはかなり冷え切っているのだろう。――すべてが終わればその身体、思いきり抱き締めてやろう。――そう心に決めて、レイノの短くなった茶色い髪を柔く撫でた。――漸く目の前に鎮座した巨大な遺跡の入り口には、サクラの羽根に刻まれた紋様に酷似したそれが刻まれている。『小狼』がそれに触れる前に重苦しい音が響き渡り、レイノらに進む道を提示したのだ。
『勝手に開いたよ……!』
「歓迎されてるみたいだねぇ」
「進め、って事かな」
「上等だ」
普段ならば建築の技術者で溢れ返っている筈の遺跡も、今では禍々しい気に覆われている。尻込みする様なそれも、レイノらにとっては朗報だ。――ここにさくらと、恐らく飛王が居る。――そう確信付けるには充分だったからである。覚悟を胸の内に、レイノらは足を踏み出す。先程までの砂漠とは違い、地面には砂を固めたコンクリートが広がっている。コツ、コツ、と靴音が響く度に禍々しいそれが身体に纏わり付いて来ている気がした。
『誰も、いないの?』
「潔斎の時、遺跡に入れるのは神官と、儀式を受ける王族の者だけだ」
「その王族は…君が昔一緒にいた、サクラちゃん?」
「……ああ」
先が見えぬ程に連なった階段を一つ一つ踏み抜き、頂上へと上がって行く。その間、目を
瞠る物は何もなかった。――階段を何段上がったかも数えなくなった頃、レイノらの視界に漸く光が宿る。そこに到達し、視界が開けた瞬間、彼女らの視界を独占したのは幾重にも重なる円形の石。そして、そこには溢れる程の水が溜まっており、地面に水場を作り上げていた。しかし、水の流れる音は聞こえない。水が溜まる音も、小さな水飛沫も、全てが止まっていた。
『本当に時間、動いてないんだね』
「この砂漠の地でこれだけの水を、それも建物の上に維持してるって事は、建築技術も勿論だけど、余程の魔力でこの場を支えてるって事かな」
「ああ。それがこの国の神官の大切な
任のひとつだ。そしてさくらは、現王族の中で最も魔力が強くて…次の神官候補だった」
『小狼はいつまでそのサクラと一緒にいたの?』
「……ずっと」
『――え?』
水に触れると、手が濡れる。それは酷く冷たいし、水場へと滴り落ちる。しかし、それの軽快な音が響き渡る事は無かった。そんなファイの姿を視界の端に収めながら、『小狼』は淡々と言葉を紡ぐ。その横には、決まってレイノが居た。――それがどれだけ安心できる事なのか、レイノは知らないかもしれないけれども。そんなレイノは、おれの言葉には驚かない。それはきっと知っているから。そして、当事者でもあるからだ。
「ずっと一緒だった。初めて出逢った、7歳の誕生日の7日前から、おれがこの姿の年になるまで、ずっと。――友達で相方で相棒だった、レイノも」
『っ、レイノの故郷はミッドガルドでしょ……?あの時に教えてくれたし、玖楼国に来たなんて一度も…!――そ、それに、小狼も小さい時から捕まってたって!』
「時間を巻き戻したんだ。対価を払って」
「……あの魔女にか」
「ああ」
『侑子に』
「理由を聞いてもいいのかな?……オレらが知らない、レイノちゃんの過去の事も」
「……どちらも、理由は変わらない」
『小狼』とさくらの二人だけだった話に、突如として現れたレイノの名にモコナは声を発し、驚きを露わにした。声に出さずとも、ファイと黒鋼も大きく目を見開いている。しかし当人であるレイノは弁明も何もせず、『小狼』に説明の全てを委ねていた。きっと、そこに全てがある、と言いたげに一度だけ笑みを浮かべ、地面に出来た水場に手の平を通す。
――すべての始まりは『小狼』とさくらだった。そこに巻きこまれたのはわたしの意思。失った事で手に入ったものもある。「東京」で再会してからずっと言っているはずなのに、『小狼』はまだ泣いてくれない。ねえ、『小狼』。
「――あの日のさくらを、取り戻す為に」
わたし、生まれ変わってしあわせ、ってやっと思えるようになったんだよ。
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