episode 167
隣国の近衛兵

 元々、小狼は玖楼国の出身ではない。6歳の時、父親からの命で玖楼国に訪れたのだそうだ。玖楼国の滞在が許されているのは七日間、その初日に、小狼はさくらに出逢った。そして彼女に誘われるまま、玖楼国の城に滞在する事になったのである。その間、王である藤隆から考古学を学んだり、王妃である撫子には城に住み着く生き物を紹介して貰った。町を案内できないさくらの代わりに桃矢と雪兎に案内され、国民に愛される王族を目の当たりにしたのだ。
 異変を感じ始めたのは6日目の夜だった。さくらに誘われ、星見台へと訪れた。その時、ふと彼女の身体が浮き上がったのだ。そんな彼女は「鈴の音が聞こえる」と朧気ながらに呟いたと言う。しかし、小狼の耳には何も届かない。何かがぶつかる様な音も、呼んでいる様なそれも何も聞こえなかった。そして彼女が見たらしい断片的な場面の数々も、彼は何も分からない。「小狼」と叫んで気絶してしまった彼女を抱きかかえる事も出来ない。それでも守ると決めた。ただ居るだけだとしても、彼女を愛するものが許してくれるのならあやかりたかった。


 潔斎最終日、これが終わればさくらは安心して7歳を迎える事が出来る。しかし、幼いながらも彼女の夢見が外れる事は無かった。遺跡全体が揺れ始め、一度だけ、激しい地鳴りが起こったのだ。そこからは、内部の崩壊が進むのみ。それに加えて、昨夜の様に身体が浮かんだ彼女の目の前にこの世界とは異なる、澱んだ亀裂が現れる。――蝙蝠の紋様を携えた、さくらを狙う男。その男は不気味な笑みを携えながら彼女を標的に定めた。しかし、その攻撃から彼女を守る様に水が盾となる。だが、儚い透明とおぞましい黒では、後者が圧倒的な力を持つのだ。
 小狼は手を伸ばす。しかし、さくらの指先に触れるその直前、小狼は「不触の誓い」を思い出してしまう。――あれだけ毎日努力して来たこと。毎日必死に、水を慈しんで来たさくら。大きな瞳を瞬かせて、本当はふれたかったはずなのに、だめだと拒絶して、必死に誓いを守って。――その迷いがいけなかった。さくらの小さな身体は瞬く間に黒に呑み込まれ、「死の刻印」を刻まれる。それに激昂した小狼は男に噛み付くが、魔力量とその質には圧倒的な差があった。それに加えて侑子の次元移動に逆らった事もあり、日本へと戻った小狼は「生きてはいる」と言う状態に陥ったのである。


 日本に戻った小狼は「玖楼国に戻して欲しい」と侑子に願う。「願いがあるなら自分で叶える」と啖呵を切った相手に、彼はそう願った。――死ぬつもりは無い。けれど、さくらを死なせるつもりもない。――それがどれだけ難しく、果てしなく遠い未来である事も知らないで小狼は懇願した。元居た世界にも戻れず、両親にも二度と会えないとしてもさくらの、あの笑顔を守りたかった。どれだけ辛くても、もう、戻れないとしても。

 ――そしておれは、もう一度玖楼国を訪れる事になる。





『…侑子と話した後、お父さんとお母さんに会えなかったの?』
「…ああ。あの店で傷が癒えた後、そのまま玖楼国へ戻った」

 淡々と過去を告げる『小狼』は水面に映る己の表情を見下ろしながら、擦り寄って来るモコナを撫でる。そして、泣き止んでくれ、と言いたげに目を瞑った。――恐らく、今話した事はレイノも知らなかったはずだ。ちらり、と様子を窺えば、桃色のがゆらゆら、と揺れている。後ろの二人がいなければ思いきり抱き締められて、髪の毛を乱されていただろうな。ああ見えて、レイノの言動はいちいち激しいから。


「おまえが過去を話すのは、これからの戦いに必要だからか」
「それもある」
「他は?」
「おれは三人の過去を知っている。見せられた幻で。そして、もうひとりのおれの目と耳を通して」
「おまえが望んだわけじゃねぇだろ」
「旅をする中で、必要な事だったんじゃないかな」

 レイノが諭す様にそう告げると、『小狼』はぐ、と言葉を詰まらせる。――いつだって、レイノは優しい。長い、あまりに長すぎる生の中で、色んな事に折り合いをつけて来たからだと思うが。旅の途中で過去を知られた時も、そう思って諦めて来ていたんだろう。柔らかく緩んだ桃色には、少しだけ寂しさがあった。ずっとずっと言えなくてごめん、と頭を下げて謝りたくなった。それでもきっと、レイノは頭を上げて、と優しく笑うんだ。


「それでも話したいと思った、一緒に旅をして来た人達に。――知った後、三人が何を思い、選んだとしても」
『小狼…?』
「――続けろ」

 黒鋼の一声で、『小狼』は再び琥珀色の双眸を隠した。そして、現在いまに向かって言葉を紡ぐ事となる。




 日本で傷を癒し、再び玖楼国を訪れた小狼は遺跡の中でさくらと再会した。しかし、そんな彼女の胸元には死の刻印が刻まれており、一週間前の戦いを如実に表している。やっと触れられる手も、嬉しい筈なのに何処か切なかった。――その後、さくらに連れられて城内を歩いていると王妃である撫子と邂逅する。そして、わざとさくらに席を外させて会話を進めると、やはりその話題は「死の刻印」の事となるのだ。
 あの刻印が見えるのは、玖楼国では撫子と小狼のみ。そして、彼女は一度だけ遺跡に現れた男を夢で視たと言う。――叶えたい夢がある。――それだけしか分からないが、それだけの為にさくらを狙ったのだ。その執念深さにおののくも、小狼は思う。――さくらが死んでしまう前に、死の刻印を消す方法を探す。何も分からない男の為にさくらは死なせない。――と。そんな小狼がレイノと出会ったのもこの日だった。


『あの刻印が見えるのは、この国では私と貴方だけですが、隣の国にも一人、いたのです』
『本当ですか!?』
『ええ。――レイノさん』
『ここですよ王妃さま!』

 先程までの緊迫した空気とは異なる、良い意味でも悪い意味でもその場の空気を和らげてしまう様な少女だった。撫子の背後からひょこっ、と顔を覗かせる少女――レイノ・アン・クォーツ――は見た目から、同年代である事が窺える。胸下辺りまで伸びた線の細い茶髪を靡かせて、しかしそれを隠す様に真っ白なローブを纏っている。だが、ぴょんぴょん、と跳ねるものだからあまり意味は成していない。そんなレイノを見て、撫子は楽しげに苦笑を漏らした。


『また貴女はそんなところに…』
『お久し振りです、王妃さま!』
『はい、お久し振りですね。――紹介します。レイノ・アン・クォーツ、隣国の中つ国なかつのくにの近衛兵をしているんですよ』
『近衛兵…強い、んですか』
『やだなあ、見習いだよ見習い!実践はまだまだだから修業して、交友関係を広めなさい、って言われてるの』

 薄い水色のワンピースは足首まで垂れ、腰のベルトが動きやすさを強調していた。また、このベルトには磨かれた樹で作られている魔法杖が差されている。少しでも日焼けから身を守れる様に、肩から二の腕に掛けて、厚めの黒いレースが覆っていた。足元の黒いブーツは厚底に作られており、国を囲む砂漠でも過ごせる様な作りになっているらしい。玖楼国の民族衣装に少し似ている気がした、隣国だからだろうか。そんなレイノは、ふと思い付いた様に小狼との距離を縮めた。ふわり、と柔らかな茶髪が跳ねる。


『――て言うかわたし達、歳近いよね?敬語もなくて良いよ、仲良くしよ!』
『いや、でも』
『レイノで良いよ。君は?』
『…小狼だ』
『小狼、姫さまのところに行こ!』

 優しい印象を受けるのに、押しはどうして激しい。しかし、決して押し付けがましい訳ではないレイノの態度は、あまり感情を表に出さない小狼にとっては有り難かった。ぎゅう、と握り締めて来る手の平は温かい。少し、さくらと似ている気がした。そんなレイノは彼の手を引き、ふわり、と真っ白なローブを靡かせる。その動きを止める彼の声音は、何処か焦燥を帯びていた。


『――『死の刻印』のこと、少し聞きたい』
『……わたしも、見えるだけ。知識は無いよ』
『…そうか』
『それにしても死の刻印なんて禁術、良く見つけて来たよね。そこまでして、姫さまの力が欲しいのかな……』
『力?』
『姫さまの魔力はすごいと思う。でも、それ以外にも何か、強い力がある気がして…』

 「死の刻印」と言葉に出した瞬間、レイノの双眸にはひやり、とした冷たさが宿る。そして、薄い茶色の瞳に影を落とした。――母国でのレイノは魔術師として名を通している。後で聞いた話だが、数ある魔導書をかなり読み漁ったらしい。習得できたものと出来なかったそれ、と違いはあれど、知識だけは折り紙つきだった。そんな彼女はさくらが駆けて行った方角に視線を向け、僅かに鋭いそれで空間を刺す。レイノの言う「別の強い力」が何なのか、分かってはいない。恐らくさくらでさえも分からず、自覚すらしていないのだろう。
 意味深な言葉を告げたレイノは、先程とは180度変わった雰囲気をころっと戻し、再び小狼へ笑みを浮かべた。浮かべたそれは何ら違和感のない、歳相応のものである。


『小狼、お腹空いてない?』
『は?』
『わたし、朝から何も食べてないんだよね。城下町に買いに行こ!』
『いや、ちょっと待て』
『そうよ、レイノさん。果物ならありますので食べて行きませんか?』
『えっ、良いんですか?王妃さま大好き!』
『ちょっ、待てレイノ!』

 しかし、その話題がいけなかった。先程のそれとは打って変わり、世間話を繰り返すレイノは、小狼とは真逆の人種なのである。彼が幾つもの思考を並行して繰り返す人間だとすれば、目の前の少女はそれが出来ないのだ。それに気付いた時には既に遅く、彼はそんな彼女の空気に振り回される運命にあるらしい。その空気を助長させた撫子は、目の前で広がる光景にくすくす、と笑みを浮かべていた。――途中で合流した藤隆との会話が聞こえる。「レイノさんがいると、とても賑やかだ」と表情筋を緩ませながら、そう紡ぐ。その表情には呆れが孕みつつも、大部分は穏やかだったと、今では思う。

 ――いつだっておれはお前に振り回される。それにイラついて、呆れて、それでもいつも救われていた。




 この時、レイノにさくらとの面識は無かった。しかし、さくらの存在は隣国である中つ国でも有名であるらしい。「神の愛娘」と言う大層な異名を与えられたさくらはそう呼ばれると困った様に眉を下げて、しかし、その重圧に耐え切れなくなる事は終ぞ訪れなかった。果物の差し入れを綺麗に完食したレイノは、そんなさくらの小さく、傷一つない手を握り締め、少しだけ腰を折って目線を合わせる。翡翠色の双眸はキラキラ、と輝き、笑みを浮かべるレイノの姿をしっかりと映していた。


『――初めまして、さくら姫さま。レイノ・アン・クォーツと申します。しばらく玖楼国でお世話になります、中つ国の近衛兵をしております』
(普通に敬語でも話せるのか……)
『……レイノ、さん』
『レイノで良いですよ、姫さま』

 心の中で失礼極まりない感想を零す小狼を無視しながら、レイノは定型文とも言える様な言葉を紡ぐ。「姫さま」と囁き掛ける様な柔らかな声音は、さくらを安心させる為だけに存在している様なものだ。しかし、その目論みは失敗してしまった様な気も、する。当のさくらはわなわな、と小さな唇を震わせていたのだ。そして、それに気付かない様では、十歳にして近衛兵と言う地位を確立してはいないのである。そんなレイノに対し、さくらは声を張り上げた。


『レイノって!呼んでも良いかな……?』
『もちろん。お好きになさって下さい』
『あ、あと!敬語、止めて欲しい……』
『……敬語ですか?』
『歳が近い女の子が側にいるの、初めてで。――お友達に、なりたくて』

 ぽつり、とそう呟いたさくらに、レイノは薄く茶色い瞳で何度も瞬きを繰り返した。初々しく、あまりにじれったいおねだりに、レイノはゆるり、と瞳で弧を描く。一国の姫君らしくはない、あまりに謙虚な願いだった。そんなさくらに応える様に、レイノはその手を強く、先程よりも強く握り締めた。肌と肌が擦り合い、ぎゅう、と音が鳴る。びくり、と肩を震わせるさくらとは裏腹に、レイノはにこり、と盛大に笑みを浮かべてみせた。


『もちろん、さくら!』
『ほ、本当?』
『ほんとう』
『ほんとにほんと?』
『だから本当だってば』

 何度か同じ様なやり取りを繰り返しているうちに、さくらの頬は桜の様に桃色に熟れて行く。その反応に首を傾げていれば、レイノの身体は唐突にさくらの温もりで包まれたのだ。レイノの耳元では嬉しそうな笑みが零れるも、レイノはさくらが倒れないように、と足腰に尽力する他に術は無い。しかし、「わーい!お友達!」と楽しげに飛び跳ねる、あまりにお転婆な姫を見てしまえば、こちらも苦笑を零すしかないのである。


『小狼も!三人でいっぱい遊ぼうね!』
『――ああ、そうだな』

 小狼はそう言って、漸く触れる事が叶うその温もりを握り締める。――それからずっと、本当にレイノは玖楼国にいた。仕事はしているはずだが、大体いつも、おれとさくらの側にいた。そしていつも、真っ白なローブを風に靡かせて笑ってた。でも、その目にはいつも「死の刻印」があったんだと思う。このままではいつか死んでしまう、あたたかくて儚いさくらが映っていたんだと思う。レイノもさくらが大好きだから。大好きで、大切だから。だからいつでも、おれに全力でぶつかって来てくれたんだろう。




 あの後、藤隆に呼ばれたレイノは彼に暫く滞在する部屋を案内して貰い、再び大広間へと戻って来た。そこでは小狼とさくらが会話を繰り広げている。さくらにとってはたったの一週間、しかし小狼にとっては、さくらとの再会は果てしない程の奇跡の上に成り立っていた。そんな二人の様子を眺めているレイノの側に、桃矢が近付く。さくらを苛める時とは異なる、ひそり、と囁く様な声音は、さくらにその内容を知られたくない、と言いたげだ。そんな桃矢は、さくらの刻印については知らない。知れば、国力全てを集めてでも刻印を消す方法を探すだろう。桃矢はそう言う人間だ。


『……良かったのか?』
『なにがです?』
『さくらの我が儘』
『…わたし、そんなに仕事人間に見えます?これでも嬉しいですよ、わたし』
『けど、お前』
『わたしだって女の子のお友達、欲しかった。――それに桃矢王子、さくらの事ばかりにかまけてて良いんですか?』
『あ?』

 だからこそ、その刻印について、を悟られない様にレイノはわざとらしく、茶化す様に言葉を紡ぐ。そして、ベルトに差していた魔法杖の先端を桃矢に向けた。――正直「死の刻印」について、どうすれば良いのかは分からない。物心がついてから魔導書はいつも側にあったけど、その中でもあの黒い羽根は一度しか見た事がなかった。そして多分、あの羽根の紋様は玖楼国の遺跡のものに良く似ている。色違いだったけど。
 病気になったり、体力がなくなったり、そう言う呪いじゃない。どちらかと言うと、わたし達に対する呪いじゃないのかな。――じわじわと嬲り殺す運命にある――そう宣告されているようなものだから。でも、巻きこまれると決めた。物心がつく前、遊びに行った玖楼国で見たキラキラ、と輝くさくらの笑顔を見て守りたい、と思った。そして、小狼が笑えるような未来を作りたいと思った。だからわたしは、二人の友だちになるよ。


『――わたしの修業、お忘れじゃありませんか?』

 そして、小狼の相方で相棒になろうと、心に決めた。


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