episode 169
穏やかな羨望
「…だからこいつと顔見知りだったのか、お前」
「うん。小狼はもう一人の小狼くんを通じて、今のわたしを知った、と思う」
「『死の刻印』は見えてたの?」
「……なぜか、見えてました。今思えば、その時から目をつけられていたのかもしれませんけど」
黒鋼の問いに同意を求める様に、レイノは小狼と視線を合わせる。そして、ぴょん、と小狼の肩から飛び跳ねたモコナを肩で軽く受け止め、指の背で撫でてみせた。影を作る睫毛は少しだけ、身を寄せる様に震えていたような気がする。――人間ではなくなった今では、もう何も分からない真実。まだ飛王の手下であったあの時に問えば、彼は酷く嘲笑っただろう。そう言う人間だから。己の願いしか眼中にない、そんな男だから。きっと笑い飛ばしただろう。
「……レイノちゃんは、ずっと小狼君とさくらちゃんと一緒に?」
「――笑っていて欲しかった。二人が笑っていてくれるなら、何だってするつもりだったよ。わたしは」
7歳の潔斎中に気が途切れてしまったさくらを案じ、王である藤隆が隣国からレイノを呼んだのだ。そこから小狼と出会い、共に『死の刻印』の解呪方法を探し当てるまで、レイノはずっと二人の側に居た。そんなレイノの気持ちは時間を巻き戻す前、気が遠くなるほど昔の事だとしても変わる事は無い。そんな幼馴染の姿を目に、小狼はきゅ、と下唇を噛み締めた。そして、そんな青年の反応を見越してレイノは再び微笑んだ。
『――魔法陣?』
『ああ。『死の刻印』と似た、な』
『それを見に行くの?』
『ああ。しばらく玖楼国を離れるから言っておこうと…』
『……それ、わたしも行っちゃだめ?』
『…………は?』
小狼と知り合って7年、レイノは17歳になった。相も変わらず玖楼国と中つ国を往復しながら、さくらの遊び相手となっているらしい。そんな中、唯一変わったのはレイノと小狼の環境である。二人は10歳を目前にした時期に一人暮らしを始め、『死の刻印』について、独自に調査を始めた。レイノは玖楼国を中心とした情報収集、小狼は国外へと足を運ぶ日々だ。そんな日々を送る中、レイノはまたもや突拍子のない事を口にしたのである。
『いや……お前はこの国から離れちゃだめだろ』
『しばらくの間はわたしの先輩が玖楼国に来てるから、大丈夫!』
『いや、でも…』
『戦力にはなるよ!』
『なんで戦う前提なんだ』
『この国の周辺、最近になって魔物が出るって噂だもん』
この7年の間で、レイノの奇行にはもう随分と慣れた。とは言うものの、その速度について行けている訳でもない。ところどころで抗ったり、抵抗をしてはみるが彼女の勢いには未だ勝てた試しがないのである。恐らくその事にも気付いている当人は最後のひと押し、と言いたげに「ね、一緒に行こ」と僅かに首を傾げた。――この顔、分かってやっているんだろう。そう思うと溜め息しか出なかった。
『…………ちゃんとさくらとその先輩とやらに言うんだぞ』
『やったー!』
『おい!話を聞け!』
『聞いてる聞いてる。小狼は心配性なんだよ』
漸く折れた小狼の言葉はそっちのけ、レイノはその場でいきなり立ち上がってはベッドのスプリング音を響かせた。しかし一つ一つの動作は激しいのに、なかなかどうして繊細な表情を浮かべる。それは、成長と共に伸びた癖のある茶髪が助長させていたようにも思う。動く度に跳ねるそれは愛らしい反面、何処に行くか分からない。――そんな小狼の気持ちなど知らないで、レイノは「そう言えば」と口を開いた。
『――初めての二人旅だね!』
そう笑われてしまえば、おれはもう何も言えなかった。
レイノと小狼が訪れた、『死の刻印』に似た魔法陣が存在する国は、何処か玖楼国に似ているようにも感じた。しかし、どうやらここにも二人が求めていたものは無いらしい。――国立図書館の書物と言う書物は、端から端まで読んだ。考古学者や魔術協会にまで聞き込みを行ったし、「死」や「黄泉」に引っ掛かる情報は出来るだけ網羅したつもりだ。しかし、何も出て来なかった。レイノは、苦虫を噛み潰したように顔を歪める小狼の、その茶色い髪を撫でる事しか出来なかった。
『……小狼、しゃおらん』
『……なんだ?』
『…わたし、この前ね、お給料もらったの』
『…………は?』
何処か甘ったるく響く幼馴染の声は、おそらく小狼を慰めてくれている。しかし、その後に続いた言葉はやはり突拍子のないものだった。思わず疑問符を浮かべるも、レイノは至極真面目な顔付きを崩さない。――こう言うところが、昔から何も変わってない。自分のペースは絶対に崩さず、寧ろその中へと引き込んでしまうのだからタチが悪い。でも、そう言うところが好きだった。だからさくらと共にいれるんだろう。
『美味しいもの、食べに行こ!』
そう言っておれの手首を掴むレイノはその属性の通り、やはり太陽のように眩しかった。――薄暗い路地裏から飛び出すと、商店街だろうか。人と出店で蔓延るそこは酷く賑わっていた。野菜や果物、海鮮物、他の雑貨店には若い女性や幼い子どもが群れている。そんな光景を物珍しそうに眺めながら、レイノは楽しげに頬を緩ませた。時折視界に入る、少し背丈のある建造物はどうやらこの国の居住地になるらしい。玖楼国の様な一軒家ではなく、幾つかの部屋が纏められた建物である。レンガ造りである事が唯一の共通点であろう。
『すごいね!』
『すごいな』
『玖楼国ではあまり見ないよね。時間帯にもよるのかな』
『それは率先してレイノが子どもの相手をしてるからだろ』
『いっつも悪い子達がベールを引っ張って来るんだもん。構うしかないでしょ』
艶々と輝く林檎に似た果物、輸入品であろうヤシの実が綺麗に飾られ、人々の視界を魅了する。その他にも、見た事のない海鮮物はレイノと小狼を驚かせ、そして二人の視線を奪ったのだ。それらは二人が目にした事のない「海」と言う存在から訪れたらしく、僅かに潮の香りが漂っている。――どうやらここら一帯で購入した素材や料理を、近くの食堂で食べる事が出来るらしい。それを聞き付けた小狼は、とある店へと顔を覗かせる。その傍ら、レイノはその隣の雑貨店へと視線を向けていた。
キラキラ、と眩しいアクセサリー。特別欲しいと思った事は無いけど、着飾ってる女の子を見ると少しだけ、羨ましさはあった。そんな気持ちがあけすけになっちゃってたのか、隣で商品を選んでいたはずの小狼がわたしを覗き込む。
『……欲しいのか?』
『…………えっ、いや、ちが』
『そう言えば、レイノってこう言う光り物は持たないよな。一つくらい持ってても良いんじゃないか?』
『ちょっ、ばか、ちがうって』
『せめてもの礼だ。もらってくれないか?』
ぽつり、と呟かれる一つの問い掛けは少しだけ背伸びをした、大人びたい欲が含まれたそれだった。何時もだったらどうにかして丸め込んでは髪を撫でてやるのに、不意打ちであったからか、レイノは酷く狼狽える。そんな幼馴染の姿には見向きもせず、小狼はめいっぱいの光り物を視界に映した。その直後に向けられた柔い琥珀色は、確かに慈しみに溢れている。――「お前はいつでも自由だな」って小狼はいつも言うけど、小狼だって他人の事は言えないと思う。
それでも、穏やかな多幸感に包まれた事はうそじゃない。
『席、どこにする?』
『好きな場所を取ってくれ』
『じゃあ奥の方取っちゃうね』
小狼にそう問い掛けたレイノの手が添えられた盆には綺麗にカットされた魚の刺身と、スティック状に纏められた野菜のピクルス、そして林檎のコンポートが並べられていた。小腹どころではない、しっかりと腹を満たせそうなメニューに彼女は笑みを浮かべている。そんな彼女の後ろを、支払いを済ませた彼が追う。そして、何時もの様に「レイノ」と口を開こうとした。――しかし、その声音はその場に唐突に響いた轟音により掻き消されてしまったのである。
『っ、――レイノ!』
その轟音は食堂を覆うガラスを軒並み壊し、この国民の憩いの空間を喰い尽くさんと言わんばかりの勢いである。外に敷かれた土の道が削られ、こちらにも砂埃が舞い込んで来る始末だ。そのお陰で小狼の位置から、レイノの姿はすっかり見えなくなってしまっていた。そんな砂の膜を追いやり、小狼は座り込んでいるであろうレイノと視線を合わせるべく、しゃがみ込む。当の本人は砂埃を吸い込んでしまったらしく、その場から動けなくなっているようだ。
『レイノ!大丈夫か!?』
『ご、ごめ、埃吸っちゃった……』
『動けるな?』
『っ、……うん、へいき。大丈夫』
『……あの男か?』
『…いや、魔力の気配はしない』
問いを投げ掛けている形だとしても、小狼の表情から察するに、「動けるだろう」と断言されている様なものだった。そんな彼の気持ちを受け入れたレイノは笑みを浮かべた口元を軽く拭い、その場から立ち上がる。そんな彼女は「たぶん」と最後に付け加え、巨大な影が映る箇所を見上げた。そしてゆるり、と双眸が弧を描いたのである。――ビンゴ。そう思ったのは、おそらくきっと、わたしだけじゃないはず。
『――魔物だよ』
だって、小狼だって少しは期待してたはずだから。――一先ず場所を移動させる事にした二人は、幾度かの衝撃を魔物に与える。すると、それは漸く二人の存在を認知したのである。そこから空間の開けた場所へと出るのは早かった。元々、戦う術は教わっている二人だ。それに加えて7年も一緒に居れば、双方の動きは感覚で分かってしまうものである。それの動きが妙に機敏である事を除けば、二人の思惑通りに事態は進んでいた。
『……どうする?』
『…このまま放って置けば、この街は崩れる。……なんとか止めるぞ』
『…小狼ならそう言うと思ってた』
そう言っては微笑うレイノの表情に、小狼は思わず双眸を瞬かせる。しかし、何も変わらぬその様子に彼も笑みを浮かべた。――その瞬間、二人はその場から身体を浮かせ、空へと舞ったのである。空は青く、残酷なもののように思えた。それに視線を逸らしたレイノは腰辺りに小さな魔法陣を展開させ、そこから魔力で作られた刃物が生成する。それを魔物の身体へと突き立てれば、劈く様な奇声が鼓膜に襲い掛かったのである。その声に一瞬、気を取られてしまった彼女は鋭く靡く巨大な腕を一身に受けた。
『レイノ!』
近くに聳え立つレンガ造りの塔に、勢い良く身体を打ち付けたレイノの姿は砂埃で見えなくなっている。時折地面へと落ちる瓦礫が、小狼の気持ちを酷く焦らせた。思わずその場へ駆け寄るも、砂埃で汚れた彼女の身体はぐったりとしている。その瞬間、ぞわり、と嫌な感覚を覚えた時、威嚇する様な轟音と周囲の悲鳴が背後から響いて来たのである。――振り向いた瞬間、小狼はレイノを守る様に風の球体を作り上げる。それと魔物の腕が擦れ合う度に、強大な衝撃が巻き起こった。
しかしその衝撃は決して、小狼にとって優位なものではなく、時間が経過すればするほど球体を維持する腕には、小さな切り傷が幾つも生まれていた。そして、彼への打撃が限界を超えた瞬間、レイノを守っていた球体は破られる。――細い世界の中、レイノは震えながら指を構えた。しかし、それと同時に現れた二つの人影に大きく目を見開いたのである。
『まさかこんなところで大物に出くわすとはな』
『ほんとね。あんたの悪運もたまには役に立つじゃない』
『それはお前だろうが!』
『だ、れ…?』
ぐちゃぐちゃに汚された広場の中、強大な破壊力を持ち合わせる魔物を前にしても、その二人は軽口を止めない。しかし、酷く痩せ細ったレイノの問い掛けに、漸くこちらに表情を見せたのである。――腰辺りまで伸びた紫のグラデーションカラーの髪を、高い位置で一つに纏め、その毛束を軽く靡かせる。古びた麻布のコートからは少しだけ、潮の香りがした。そんな女性はふと笑みを零すと、レイノの頬を愛でる様にそっと撫でる。「もう大丈夫よ」と言いたげな柔い指先は、レイノに安堵感を与えた。
『…ゆっくり話をしたいところだけど、こいつが許してくれないみたいだから』
『ちょっと待ってろよ、お二人さん』
そう言って、歯を見せて笑い掛けたもう一人の男はフードと金色の前髪の隙間から蒼の瞳を覗かせる。ゆるり、と弧を描くそれに瞬きを繰り返しては、小狼はゆっくりと一度だけこくりと頷いた。それを見届けた男は同じ様にふと笑みを零し、短いコートを靡かせる。その風によって外れたフードは、男の髪の全貌を露わにした。――鎖骨辺りまで伸びた毛先を軽く纏め、筋肉がついた首筋を見せる。太陽光に反射するその金髪は酷く眩く、そして圧倒的に見えたのだ。
『――すぐに終わらせっからよ』
そう言って宙を舞った二人は本当に、あっと言う間に魔物を沈めてしまった。そして、手慣れた様子でそれの処理を行う二人――名をサクラ・イ・ゾルグとフェンリー、と言うらしい。――は魔物の討伐を生業とし、暮らしているのだそうだ。食堂から広場までの一帯は戦闘痕がなかなか消えず、粗方の瓦礫をどかせた後、臨時として幾つかのテーブルと椅子を配置させた。その一つに腰を落ち着かせた小狼とレイノは、巻き込んでしまったお詫びとして、サクラとフェンリーから食事を分けて貰う事になったのである。
『レイノ、本当に医者に診てもらわなくても平気なのか?』
『大丈夫。痛みで意識飛ばしちゃってただけだから』
『それは大丈夫ではないんじゃ…?』
『面白い子ね。いっぱい食べてちょうだい』
ありがとう、と声を上げたレイノは、目の前に置かれた林檎のパーユを口いっぱいに頬張る。果物特有のみずみずしさと仄かな甘さを丁寧に堪能すれば、側にあるレモン水でそれを喉へと流し込んだ。――そんな幼馴染の姿を見届けた小狼はその後に、綺麗にカットされた果物に手を伸ばした。皮も美しくカットされたそれらは遊び心を忘れていない。歯を立てるとシャク、と響く音に疲労が吹き飛んだ気がした。
『そういや、レイノと小狼は玖楼国から来たんだっけか。結構遠くねえ?』
『確かめたい事があったんだ。見当外れだったみたいだが』
『フェンリーさんとサクラさんは?ここが地元って訳じゃないですよね?』
『私達は游月国出身なの』
『一面が海に囲われてるんだけど、見た事あるか?』
『……いや、玖楼国は砂漠に囲われているからなかなか…』
小狼がそう答えると、フェンリーは気を昂らせた様に身を乗り出して「すっげー綺麗なんだぜ!」と楽しげに話し始めた。――青と白のコントラストが驚く程に涼しげで、一面に広がる砂浜は埋まってしまいそうになるんじゃないかと思う程に柔らかい。日中は暑いが、早朝や夕暮れの時間帯には儚い光景が広がるのだ。――そう力説するフェンリーの双眸は星が瞬く夜空の様に煌めいており、レイノと小狼はその勢いに圧倒されるばかりだ。それを見兼ねたサクラは後ろからフェンリーの首を固め、その勢いを殺してくれたのである。
『ちょ、ッ、オイ待て馬鹿!』
『フェンリーの勢いに引いてるじゃないの。もうちょっと周りを見なさい』
『いや何で締め技!?お前の前世はゴリラか?』
『本気でキメられたいようね?』
『アッ、待って!ごめんごめん!冗談です!』
所謂「マシンガントーク」の勢いは無くなったものの、その止め方が良くなかった。そして、それに対するフェンリーの言葉の選び方も大変まずかったのである。彼の首筋に添えるだけだった腕は外堀を埋める様にゆっくりとそれを締め上げ、彼の生命線を奪って行く。しかし、どうやらこの一連の流れが二人のコミュニケーションらしく、笑みが消える事は無かった。そして、そんな光景を目にしては瞬きを繰り返すばかりだったレイノと小狼も、怒涛の変化に笑みを零す他に術は無かったのである。そんな二人を見届け、フェンリーは再び笑みを浮かべた。
『まあでも、マジで良いところだから、また遊びに来いよな!』
『その時は案内してくれますよね?』
『もちろんよ。お友達も連れていらっしゃい』
そう言って、サクラは再びレイノの髪を柔く撫でた。――それがとても懐かしく感じて、でも少し、寂しくて。それがどうしてかは分からないし、どれだけ時間が経っても分からなかったけど、出会えて良かったんだと今では思う。その笑顔と温かさを直に感じる事が出来たんだから、それだけで良かったんだろうなって。そんな、少しの侘しさと幸せな気持ちを覚えて、わたしはフェンリーさんとサクラさんと別れた。「いつか、どこかでまた会おう」と言う口約束を交わしたわたしは、身体は疲れているはずなのに穏やかさもあった。
『…ねえ、小狼。海、見てみたいね』
『ああ、綺麗なんだろうな』
『…呪いも何もなくなったら、さくらも連れて遊びに行こうね』
『……ああ、約束だ』
きっと、口約束以上もそれ以下でも、何でもない。運が良かったら会えるかもしれないし、もしかしたら一生会えないかもしれない。そんな縁だろう。レイノは良い意味でも悪い意味でも純粋だが、無知ではない。でも、淡々と口から出た言葉は優しいものだった。救いのある未来でしかなかった。確証も何もないのに優しくそう告げて、ただ笑いかけてくれた。その笑顔も、おれは守りたいと思った。
『――帰ろっか』
『……そうだな』
もう何も失くしたくないと、その時のおれは本当に思ったんだ。prev next