episode 170
撃ち抜かれる太陽

 水は、動かない。しかし、透明感の薄れないそれは酷く輝いて見えた。小狼と、ファイの知らないレイノの過去は、世間一般的には「普通」ではないのだろう。だが、当時の二人にとってはそれが平和の象徴だった。それが、さくらの笑顔が確かに平和を物語っていたに違いない。――はるか昔の記憶。その中で、さくらはいつも笑ってた。きっと大きすぎる力に気付いていたはずなのに、その中でもさくらはいつでも幸せそうだった。それがとても微笑ましくて、羨ましかったはずなのに。わたしはいつだって泣きそうだったけど。だから右手に感じる仄かなぬくもりが、その微笑みが、わたしにとっての救いだった。


『そんな小さい時からずっと頑張ってたんだね、決めた事のために』
「小さかったからこそ、決められたんだと思う」
『小狼…』
「誰かを守る。それがどれ程、難しくて、重い事なのか。おれはまだ幼くて、本当の意味では理解していなかった」

 無知は罪だと、大人は言う。子どもはその言葉の意味さえ分からず、その重ささえ知らずに言葉を交わす。それは酷く純粋で何ものにも代えがたいものの筈なのに、言葉にするととても軽く聞こえてしまうのは何故なのだろうか。その理由さえ分からず、小狼はたださくらとレイノを守りたかった。二人だけじゃない、その二人を取り巻く人々と暮らす中で本当に心から思った。それがどれほど難しい事でも、どんなに辛い事があっても、さくらを死なせたくない。――レイノが、何時も笑顔で居れば良い、と。
 そんな願いを長年抱く小狼の肩に、ファイはそっと触れる。黒い手袋越しでも、その温もりは確かに感じられた。そして、その瞳は先を急ぐ事も小狼の思いを咎めるでもなく、ただ「大丈夫」だと勇気付けてくれる視線だったのである。


「けれど、どんなに探しても、あの刻印を消す方法は見つからず、――あの日が来た」

 しかし、タイムリミットであるさくらの誕生日を思い浮かべては再び、小狼の意識は過去へと連れ去られる事となる。




『姫は今日誕生日を迎えるのに、おれは何も…』
『何も出来ないのは私達も同じ。決して君の罪ではありません』
『けれど…おれは、あの刻印が刻まれた場にいて何も出来ませんでした。その後もずっと姫の側にいたのに…』
『――それはわたしも一緒。あれだけの文献を読んだのに、小狼の力にはなれなかった』
『…レイノはずっとおれの側にいてくれただろ。――それだけで、救われた』

 さくらと小狼の誕生日、四月一日。その日に彼とレイノ、撫子と藤隆は潔斎場にてさくらを待っていた。しかしその場は決して祝勝な雰囲気ではなく、厳粛しきったそれが漂っている。その空気は、小狼の悲愴な双眸とレイノの言葉によって助長されていた。――しかし、それは違う。何故なら、小狼の心が救われたのは確かであったからだ。そして、その言葉によってレイノの心が救われたのも事実であった。


『全てが決まった訳ではないわ、まだ…』
『レイノさんも、有り難う御座います。他国の事であるはずなのに、尽力して頂いた』
『そんなこと…』
『――なんだ、小僧。いたのか』

 「レイノまで」と言葉を付け加えた男――桃矢――は何時もと変わらず、笑みを浮かべて潔斎場の入り口にある階段を慣れた足取りで下って行く。その様子をただただ眺めるレイノと小狼の心の中は言いたいけれど言えない、そんな思いでまみれていた。それが溢れてしまっていたのか、桃矢は二人の神妙な面持ちに気付き、双眸を丸くさせる。そして、桃矢もまた、それを見逃す術を持ち合わせてはいなかったのだ。


『…なんだ?何かあったのか』

 その問いにレイノも小狼も、その場に居合わせた者らの中で答えられる人物は存在していなかった。――そんな中、軽快な鈴の音が潔斎場に響き渡る。円状の金属が擦れ合い、響く音は酷く神聖なものの様に思えた。似た様な楕円形のアクセサリーを身に着け、しっかりと着飾ったさくらは雪兎に支えられ、桃矢の後を追う様にその階段を下りて行く。通常ならばおめでたいその光景も、レイノらにとっては不安要素にしかならなかった。しかし、祝う気持ちに噓は無い。


『…さくら』
『来てくれたんだ』
『誕生日、……おめでとう』
『おめでとう、さくら。着飾ってもらったんだね、すごく綺麗』
『――ありがとう。小狼、レイノ』

 だからこそ「おめでとう」と口にする。それに対して、笑みを浮かべるさくらを見れただけで幸せなのだろう。しかし、飛王が闇の手を伸ばさなければこんな複雑な思いを抱く事さえないのに。そんな事を思いながら、レイノはさくらの髪を覆うフードを軽く撫でる。擽ったそうに笑みを零す幼馴染の姿に何故か、レイノは酷く抱き寄せたくなった。――しかし手を伸ばそうとした瞬間、さくらの身体は「死の刻印」によって喰い破られようとしていたのである。
 レイノと小狼がさくらの名を叫んだ瞬間、何かに反応した様に刻印の切っ先がレイノへと向かう。レイノの身体はそのまま潔斎場の壁に、押し付ける様に撃ち抜かれたのだ。そして、それは音を立てて水の中へと落ちた。しかしその時、彼は刻印の進行が止まった事に気付く。それだけではない。ローブの揺れや水の動き、桃矢や雪兎らの表情さえも停止しているのである。――それの正体は、撫子の魔術によるものだった。


『――王、妃!』
『っ…時間を、止めた。でも、私の力の全てでも数瞬しか保てな…い。時間が…動けば、桜は…刻印に、喰い破られて…し…まう。あの刻印…が視えるのは、貴方と私、そしてレイノ、だけ』

 途切れ途切れに言葉を紡ぎ終わったところで、撫子はその場で血を吐いた。そして、魔術具へと縋り付く様にして倒れたのである。――どれだけ強く壁に打ち付けられたとしても、レイノの意識は微かに残っていた。小狼が何を考えているのか、思考を巡らせられる程には冷静だった。しかし、声が出ない。「だめ」と唇を動かしても、彼には届かない。その隙を突いて、いち早く彼へと接近する声がある。己にとっては悪魔のひと声。しかし、目の前で迷う少年にとっては神のそれと同義だったのではないだろうか。
 ――小狼、だめ、だめだよ。そう言いたかった。禁忌は誰が願っても禁忌で、踏み入れちゃいけない領域。さくらを、この瞬間に縛り付けちゃいけない。小狼がこの瞬間を一生後悔する道なんて、選ばせちゃいけない。でも、わたしを弾き飛ばそうと意思を持った「死の刻印」は思った以上に威力があったみたいで、ゆっくりとわたしの意識を奪って行く。

 奪われて行く意識の中、小狼が「もういちど」と願ったような、そんな気がした。





 レイノの予想通り、あの後の小狼はさくらを死なせぬ為に時間を巻き戻した。己の自由を奪われ、常に命の危機に晒されようと、「死の刻印」を知る者たちの未来さきが大きく変わってしまうとしても、それでも良いと願った。その願いの通り、時間が巻き戻された代わりにその代償として、レイノは人ならざる者と成り果てたのである。それから飛王に狙われる中でファイと出逢い、ミッドガルド国に渡り、旅の同行者となって今に至る事になった。


『そのまま、東京で会う時までずっと…』
「……あいつの元にいた。おれが時間を巻き戻した年齢になるまで」
『…小狼!』

 一行が「東京」で『小狼』に出会うまで、ただ見つめるだけで触れる事さえ叶わない十数年を思い、モコナは小狼の首筋に抱き着いた。その僅かな衝撃で小狼の毛先が揺れるも、当の本人はさほど気にした様子は無い。その本人は――そうだとしても、己の罪が消える訳じゃない。――そう言葉を続けた。様々な過去を、未来を、世界そのものに歪みを与えてしまった事は確かに罪なのだと、小狼は言う。


「それは…」
「――貴方も、巻き戻す前の時間の中では、双子としては産まれていなかったのかもしれない」

 そして、その言葉を以て何やら言いたげなファイの口を噤ませた。――何度か、考えた事がある。一番最初、心と身体にかかるストレスに負けそうになった時、この国に産まれなければ、と。それが何度も何度も積み重ねられれば、その仮定は違う方向へと変化した。双子じゃなかったら、と。そう思う度に馬鹿みたいな考えを振り切って来たけど、どうやらまだ完全には消えていなかったらしい。それでもユゥイに、ファイがいない人生なんて考えられないのに。
 そして、それは黒鋼も例外ではなかった。もしかしたら、母は床で静かに息を引き取っていたのかもしれない。否、そもそも病を患ってさえいなかったのかもしれない。父も、自軍の数を増やしていれば骨だけは帰って来れたのかもしれない。夜じゃなけりゃ、あの魔物じゃなかったら。――考えれば考えるほど、仮定と言うものは顔を出す。今更考えても仕方のない事の筈なのに、その思考はなかなか剥がれてはくれなかった。


「……レイノには、一番迷惑をかけた」
「小狼…」
「おれが時間を巻き戻さなければ、お前は、――レイノは、人ならざる者になんかならなかったのに」
『そんな…!』

 その一言で、多分黒鋼には気付かれた。「また隠し事かこの馬鹿女」って言う視線がビシビシ注がれる。でも、そんな視線よりも泣きそうな小狼の表情かおに、わたしの心臓はツキン、と痛んだ。――どうして小狼が、わたしの事で後悔をするの。なによりも「さくらを死なせない」って、そう決めたんじゃなかったの。どうして、脇目を振ってわたしを見るの。小狼は、今のわたしを見てはくれないの。わたし、わたしは、そんなに幸せそうには見えない?そんな事を心の中に留めていても届くはずないって分かっていたけど、少しだけ寂しくて、少しだけ、腹が立った。
 そんなレイノの葛藤にも気付かない小狼は「選んでくれ」と、彼女らに願う。この旅の元凶である事を呪い、恨むか。それさえ受け入れて「仲間」とするか、今ここで選べと小狼は言うのである。しかし、小狼は眉間に皺を寄せ、琥珀の双眸を隠す。気持ちは、既に一つの選択肢へと固まってしまっていたらしい。そんな小狼を視界に、黒鋼は漸く動き出す。手を振り翳した瞬間にはモコナの悲痛な声音が響くも、その手はただ、小狼の脳天に拳骨として降り掛かるに留まったのだ。その後に吐き出された吐息は「馬鹿を言うな」と、そんな意味合いに思えた。そして、それに続く形で、拗ねた様子のレイノが両頬を軽く抓り、その熱を取り払う様にファイがそれを軽く叩いたのである。


「選んだよ。だから、これ。――黒様、意外と子供だからね」
「あと言葉足らず」
「なんだと」
「おれは…」
「小狼君のさっきの悲愴な顔みて拗ねちゃったんだよ。オレ達が巻き戻された時間の事を知って、君から離れていくと思ってるのかなって」

 小狼の両頬をもう一度ぺしん、とはたいたファイの、揶揄う様な言葉にレイノは似た様な声音で言葉を付け加えた。それに噛み付く黒鋼、と言う構図は少しだけ、以前の一行の姿と重なったのである。――小狼の思った通りにはならなかった。レイノらにとっては、それは当たり前の事だったのだが、小狼にとっては予想外の答えであったらしい。そんな小狼を諭す様に、ファイは薄らと笑みを浮かべた。そして「すべてを背負おうとするのはある意味、傲慢だ」と言葉を紡ぐ。


「これは、自戒を込めてね」
「もし同じ事が起こって選べと言われたら、俺も選ぶだろう。守ると決めたものを、守れるのならば」
「…オレも、ね。辛い事を話してくれて有り難う」

 インフィニティとセレス国にて、さくらが消えた責を全て一人で背負おうとしたこと。レイノらを脱出させる為に、己だけが犠牲になろうとした事を脳裏に掠め、ファイは苦笑を漏らす。そんなファイでさえ黒鋼と同様、守れるものがあるなら小狼と同じ選択をすると、そう言葉にした。それを聞いてもなお、小狼の表情は晴れない。その、一連の様子を見ていたレイノは、ゆっくりと唇を動かした。


「……もしかしたら、少し、他人事だったのかもしれない」
「え…?」
「さくらを死なせたくなかったのは一緒。でも、ずっと一緒にいた小狼も、笑顔でいて欲しかった。…それに、わたしは玖楼国の人間じゃないから」
「そんなこと…!」
「…でも、今なら。色んな気持ちを知って、失くしたくないものが出来た今なら小狼の気持ち、分かるよ。それを失わずに済むなら、またどこかで笑ってくれる未来があるなら、わたしも、――きっと、時間を巻き戻すと思う」

 小狼は、わたしを「死の刻印」に巻き込んでしまった事を気負っていた。それにずっと気付かずにいたわたしはきっと幼くて、あまりに無知だったんだと思う。でも旅をして、ファイさんをすきになって。壊す為じゃない、守る為の力を欲しがってからは、少しだけようやく小狼に近付けたような、そんな気がした。――小狼は確かに禁を犯した。でも、それはたださくらが笑う未来が欲しかったから。ただそれだけであるはずだった。


「でも、小狼も悪いんだよ?わたしに遠慮なんかするから」
「ご、ごめ…」
「そうそう。だからお父さんからはゲンコツで、オレからは、コレ、ね」

 しかし、先程の憂いを帯びた雰囲気とは打って変わり、何処か拗ねた様子で小狼の頬をつつく。それを避ける事が出来ない彼は、そのままファイの温もりを享受する事になった。――温かい。本当に、少しだけ、母さんのものに似てると、そう思った。温もりだけじゃない。穏やかな表情だとか、慈しむような瞳が全てを包み込んでくれるようで。ほんの少しだけ、瞳が潤む感覚がした。そんなおれの頬に、モコナはキスをする。


『じゃあじゃあモコナからも。あのね。モコナ、小狼、大好きだよ!』
「…あのね、小狼。わたしね、今すっごくしあわせだからね。大丈夫。――わらって、ね」

 レイノとモコナはそう言って微笑わらう。やはりそれらは酷く温かかった。溜め込んでは固くなってしまっていた小狼の心を、思いを、すぐさま融かしてしまったのである。そして、そんな光景を見守るファイと黒鋼の瞳も幾分か柔らかい。――わたしきっと、小狼の本当の表情かおが見たかった。ただ、安心して欲しかった。聡い分、色々と考えてしまう小狼だから。小さな幸せを感じて欲しかった。


「…ありが…とう」

 その幸せを「しあわせだ」と、そう思って欲しかったんだと、今では思う。

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