episode 171
集う役者

 自身の半生を話し終えた小狼は、水の中へと足を踏み入れた。そして、それと連なる様にレイノとファイ、黒鋼も続く。確かにそこにはあるのに生きていない水はぬめる様に、足に絡み付いて来る感覚を忘れさせてはくれなかったのである。――そんな遺跡の中の時間は、小狼が「もういちど」と願ったあの時のまま、ずっと止まっているとの事だった。そう呟いた彼の前には、闇に呑み込まれそうになる幼いさくらの姿が見える。


『サクラ!!』
「もう少しでおれが時間を巻き戻す事を決めたのと、同じ時間になる。あの日は、おれの誕生日でもあったから」
『サクラと小狼、同じ誕生日だったんだ』
「……ああ」

 さくらと小狼はきっと、産まれた時から運命だった。他の人間と結ばれる選択肢なんてないほど、二人の人生は混じり合っていたに違いない。――昔、小狼が時間を巻き戻す前の世界での事だ。まだ幼かった桃矢が顔を歪めながら「あいつはさくらの運命の人だ」と呟いていたのを思い出す。よほど癪だったのか、その表情について、雪兎からツッコまれていた。あの時は笑って流していたものの、あながち間違いではなかったのだと思う。
 ふとそこに跪き、掬い取る様に水中に手を差し込む。それを軽く持ち上げ手を濡らすも、水分はそこには残らなかった。そんな水さえ、さくらは力の限り慈しむのだろう。下心も打算も思い付く事さえなく、優しく、あまりに脆い心で祈るのだろう。――そんな事を思うレイノの横で響く水音は、とある男によって響かせられたものだった。


「ファイさん…」
「ここにはレイノちゃんはいないんだね」
「まだ、小狼とは知り合ってない時なので」
「そっか」
「……どうして?」

 鮮やかな水色に包まれているファイはレイノと目線を合わせる事はせず、ぽつり、と口を開いた。その場に響いた言葉に、彼女はたった一言、問い掛ける。その言葉の真意が分からなかったからだ。――数瞬待ち、漸くファイは魔力を失った金色こんじきの瞳をこちらに向ける。まだ見慣れぬその色に、レイノの心臓はどきり、と高鳴った。そんな心の内などは露知らず、彼は「んー…」と何かに悩む様に声を漏らすも、僅かながらにも楽しげに口角を緩ませたのである。


「…………時間を巻き戻す前のレイノちゃんを見たかったなー、って?」
「……なに。ちっちゃいわたしの方が気になるんですか?」
「なになに。やきもち妬いてる?」
「こんな時に何言い出すんですか!してません!」

 一体何を言い出すのかと思えば、ファイは揶揄う様な笑顔を浮かべて、試す様に顔を傾げた。そんな彼は、短くなったレイノの茶色い髪に軽く触れながらもその態度を変えない。それに対して彼女が少しだけ声を張ると、当の本人はこれもまた幸せそうに表情筋を緩めたのだ。――これだからこの人を憎めない。どう足掻いても「すき」だと言う想いしか湧き上がって来なかった。さくらを取り戻す為に必死でいなくちゃいけないのに、やっぱりいつでもファイさんはわたしを甘やかす。
 むくれたレイノの髪を優しく撫でて、ファイは再び闇と同化しかけたさくらを見上げた。それと同時に石畳を鳴らす、神聖なる音がこの空間に響き渡る。その音によって気を引き締めたレイノ、小狼らがそちらへと目を向けると、そこには「東京」の頃と何も変わらぬ姿の『小狼』が緋炎を手に、こちらを見下ろしていたのだ。――しかし、小狼と『小狼』の視線が交じり合った瞬間、準備していたかの様にレイノとファイ、黒鋼は小狼を庇う様にして前へと出たのである。


「――モコナ、少し離れてて」
『でも…』
「なにかあったら小狼くんをお願い、ね」
『レイノも…』
「大丈夫、戦う術ならまだあるよ。だから見守ってて」
『――みんな無茶しないでね、ね!』
「おまえもな」

 囁く様に紡がれたファイの声音はモコナへと向けられている。しかし目元が見えず、黒い眼帯のみが視界を独占する今の状況ですぐに離れる、と言うのも難しかった。だが、そこで触れるのがレイノの手であり、温もりだ。小さいけれど僅かに硬い指先は、戦いに慣れた者の証明でもあった。それでも、こちらが泣きそうになる程の柔い笑みは変わらない。「お願い」と聞こえそうになるレイノの表情に目尻を潤ませ、モコナは念を押す様に声を張り上げた。それに返答する黒鋼の笑みも、やはり何時もと変わらない。――そして、小狼でさえも気持ちは同じであったらしい。何も言わずにただ頷く姿を見て、モコナは漸く全てを任せたのだ。その直後、『小狼』の背後を見下ろす形で現れた蝙蝠の象徴は余裕綽々、と言いたげな笑みを浮かべ、うっそりと瞳を細めた。


「――飛王・リード」
「…あいつか」

 とある記憶では無機質な腕。細く、しかし酷く強かでもあった身体を貫く情景を脳裏に、黒鋼は銀竜の刀身を僅かながら煌めかせた。チキ、と響くその音は父の思いとも呼応している気さえ湧いたのである。――また、とある記憶では雪の世界から見上げたニヒルな笑み。血が滴り落ちる無骨な手に、神の力さえ手に入れた時の、あの欲深さ。そして何より、幼いさくらを前にした絶望は全てこの現状へと繋がっている気がした。当人である彼――飛王――はゆっくりと、語り掛ける様に口を開く。


「これは、おまえが戻りたいと願った一瞬」
「おまえが切り取ったとき
「おまえの悔恨が焼き付いた刹那」
「お前が刻を巻き戻した為に時空は崩れ、既に時間も空間もその摂理を失いつつある」
「未来だけではない、過去さえも」
「おまえの願いはこの一瞬をもう一度やり直すこと」
「歪みの為にこの瞬間が変わっては意味がない」

 まるで小狼を責め立てる様な口振りにファイと黒鋼は目尻を鋭くさせるが、レイノの表情を読み取る事は難しかった。短く切られた茶髪は思いの外癖があるらしく、上手に輪郭を隠してしまう。周囲の髪とは対照的に少し伸びた様な前髪は桃色の双眸に膜を張ってしまっていた。しかし、ファイと黒鋼は理解している。飛王の畳み掛ける様な話し方に、こちら側の感情を意のままにせんとする飛王の態度そのものに、この空間で最も怒りに身を任せたいのは彼女である、と。そんな感情を見透かしてか、飛王は再び口を開いた。


「――そして、切り取った為に更に摂理は壊れた」
「おまえは、それも知ったはずだ。囚われていた長い時間、写身の右目を通じて」
「けれど、おまえはやめなかった」
「――願う事を」

 再び小狼の心を抉り取る様な言葉の選び方に、彼はギリ、と思わず手の平に爪先を突き立てた。しかし、瞳に宿る冷静さはひと欠片も失ってはいない。そんな彼を見下ろし、飛王は「おまえも同じ」と声音を響かせる。だがその瞬間、地面を隆起させる斬撃とそれに纏わり付きながら直進する雷撃が飛王に襲い掛かったのである。次元の境界線さえ貫いた二人――レイノと黒鋼――の一撃は、飛王の手の甲に切り傷を負わせる事となったのだ。


「……うるせえ」
「――ほんとう、口の減らない男」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。能書きはいいから、――出てこい」

 「同感だ」と口を挟んだ黒鋼は水面に円を描く様に細かい瓦礫を薙ぎ払い、それを肩へと担いだ。それさえいとも容易く跳ね除ける飛王は、既に人としての良心を手離したと思われる。そんな飛王に対し、皮肉にも近い言葉を吐き捨てたレイノの足元には桃色を彩る魔法陣の残像が淡い光を灯していた。溢れ出るその魔力を全て受け止める彼女の双眸は確かに桃色ではあったが、その端々に金色こんじきのそれが入り混じっている様な気がしてならない。そんな変化があるとは露程にも思っていないファイはゆるり、と嘲笑うかの様に口角を上げた。


「無理だよ。オレとの時もああやって、裂け目の中からだけだった」
「なるほど。臆病者って事か」
「まあ、否定するのは難しいねぇ」
「ファイさんはまだマシなんじゃないですか?わたしと黒鋼なんて手だけですよ。サービス精神なんて皆無でしたもん」
「嫌われてたのー?」
「だれが!」
「斬られてえか」

 お互いがお互いに皮肉めいた、飛王の立ち振る舞いを煽る様な言葉を口にする。その輪の中では決してレイノも例外ではなくて、わざとらしく首を傾げては表情筋を歪めてみせた。それに対して揶揄う様に笑ってみせたファイは以前より格段と本性を見せて来ているらしい。当人の思惑通り、彼女と黒鋼は良い反応を見せて吠えてくれるのだからファイは幸せで堪らない。そんな二人の反応を見事に流して、ファイは「小狼くん」と呼び掛けた。
 その記憶はピッフル国まで遡る事となる。「そこにあった未来を変える事が許されるのか」と『小狼』に問い掛けたあの言葉、あれは彼を通じて小狼に告げた事でもあったらしい。変わる事を知っていれば、きっと手は出さなかっただろう。けれどあの時の二人はただ己が出来ること、やりたい事に手を伸ばしただけだ。それは決して悪い事ではないし、現実から逃げた訳でもない。そう言葉を紡いだファイの表情は酷く晴れやかで、何処か吹っ切れた様子にも見えた。だからこそ、その後に投げ掛けられた「きみがやりたい事は?」と言う問いに、小狼は気負う事もなく答えられたのだと思う。――その時の「さくら」と言う固有名詞に、僅かながらにも反応を示した『小狼』は小狼と向かい合う事はせず、踵を返した。


「おまえは自分とけりをつけろ」
「…ああ」

 そう言ってローブを翻す小狼はその直前、レイノの双眸と視線を絡ませる。僅かに潤んだそれらは彼に何かを伝えようとしていて、しかしその詳細は最後まで分からなかった。――いつだってレイノはおれとさくらばかりを思っていて、おそらく自分の為に生きた時間はほとんど皆無に近かっただろう。だから「大丈夫」と言われている気さえ起こすその視線におれは思わず喉を震わせた。あの二人が、あの魔術師がいるから大丈夫だと言うレイノは少し満たされたようで、幸せそうだったから。


「――さて。お出まし願おうか、弱虫さんに」
「分かってんだろうな、あいつは俺の獲物だ」
「えー、どうしようかなー」
「仲間外れはだめですよ。ちゃんとわたしも仲間に入れてください」
「レイノちゃんはだめ。一番狙われてるでしょ」
「それはわたしじゃなくてソールだし、フレイだったでしょ!」
「なんの話をしてやがるてめえら」

 小狼が同じ存在を追ったあと、レイノ、ファイと黒鋼は漸く殺気を露わにした。笑みを絶やさずとも緊張感が漂う、眠気さえ吹き飛ぶそれは飛王の戦闘心を酷く擽ったのである。それとは対照的に沸き起こる彼女とファイの痴話喧嘩はあまりに場違いで、しかし、僅かな日常を思い起こさせた。それを取り戻す為に飛王に対峙する三人だったが、その目の前に広がったのは好奇心が削がれる戦力を落とす為のものだったのである。


「あー、やっぱりこういう展開?」
「おまえらがやれ。レイノ、てめーの魔術とやらなら一掃できんだろ」
「貴重な魔力を使いたくないんで」
「てめえ」
「まあまあ。こういうその他大勢こそ、お父さん大活躍って感じで」

 次々と現れる人影に、ファイは既に辟易としているようだった。それを嗜める様に黒鋼は口を開くも、未だ黒鋼を茶化す事を止めないレイノの態度に青筋を浮かべてしまったため、もはや意味は無い。そんな空間を切り裂く様に敵らは武器を振り翳すが、それらは全て黒鋼の一閃によって弾き飛ばされた。ドサ、ドサ、と次々と地面へと伏す敵らは、言葉は悪いが酷く呆気なかったように思う。しかし、そんな情景を見せても飛王は笑みを絶やさない。それが酷く、不気味に思えた。


「技名くらい言いなよ、黒様」
「面倒くせぇ」

 その表情が合図であったかの様に、レイノらの周囲では再び劈く様な機械音が響き渡った。どうやらそれが敵が出現する証であるようで、気付いた時には既にファイの周りは黒で埋め尽くされている。――それがどうした。ファイは敵である一人の額を軸に、空中からこちらを狙う敵の腹部にブーツの角で思い切り蹴り上げたのである。それでも留まる事を知らない敵どもの動きは明確にファイの命を狙っており、飛び道具と化した刃物を360度、余す事なく当人に向ける。しかし、それでも笑みを消さぬファイは金色こんじきの瞳を煌めかせ、急激に伸びた鋭い爪によってそれら全てを薙ぎ払ってみせたのである。
 だがそれも束の間、目の前にはレイノの背後を狙う敵の姿が広がっていた。同じタイミングにて黒鋼もその事に気付くが、どうにも距離が遠い。その事を瞬時に悟ったファイは一瞬、舌打ちを微かに響かせてはその敵に向かって勢い良く膝を打ち付けたのである。その時、ファイの視界を独占したのはありがとう、と嫌味たらしくほくそ笑む彼女の姿だった。


「…わざと?」
「――レコルトでの仕返しですよ」
「意地が悪いねえ」
「なに言ってんですか、嫌いじゃないくせに」
「そうだねえ、すきだよ」

 確かめる様にレイノを見下ろすと、当人である彼女はまるで煽るかの様に薄らと笑みを浮かべた。しかし、その後に紡がれた本音でしかないファイの言葉に、己からけしかけたのにも関わらず微かに頬を赤らめたのである。そんな彼女に対して向けられた「なあに照れてるの」と言う言葉が酷く甘ったるく響いたのは、おそらく気のせいではないのだろう。
 そんな二人に呆れつつも、黒鋼は銀竜を振り翳し、向かい来る敵らを薙ぎ倒して行った。それはレイノとファイも同様で、ファイが爪で切り裂き、狙い切れなかった敵の存在に彼女がとどめを刺して行く。しかし、敵の数は一向に減る気配がない。――それどころか地面に伏す直前、倒した敵の身体は不自然にも液状化し、消滅したのである。


「……気付いた?今倒したの」
「少なくとも、幻の類じゃねぇな」
「人形みたいですね。肉の感触がない」
「――集めた魂で作った、只の出来損ないだ。好きなだけ、遊べ」

 「東京」を過ぎた旅の途中、一度だけ侑子から話を聞いた事がある。――日本で、人の魂が次々と奪われている。――と。それが確定的となったのは日本国の通信時が初めてではあったが、その当時は明確な目的が不明なままだった。恐らく、飛王の言う「出来損ない」とは、その魂らで作られた存在なのだろう。人道に反した行いに加えて、生身の存在であるレイノらにそれらを向かわせるとは、酷く嘗められたものだ。それに気付いた瞬間、レイノらを纏う殺気は一瞬にして増幅した。


「…てめぇ、もうしゃべるな。――その口ごと切り刻んでやる」
「…だね」

 それが、最も強かったのはレイノだった。そんな彼女の足元には再び桃色の魔法陣が展開され、彼女だけではなくファイと黒鋼、そして敵らまでもがその輝きの範疇となったのだ。――こうなればもう、逃げられはしない。そうほくそ笑んだレイノは魔法陣が刻まれた水面に手を這わせ、そこに魔力を流し込む。自然と、さくらの魔力が込められた水を利用した攻撃から、「出来損ない」が逃げられるはずもなかったのだ。肌を潤してくれるそれも、一点に集中させれば骨さえ砕く殺傷力になる。それを数多の敵の身体に受けさせ、加えて地面を隆起させる爆破を与えた。

 人の命を、そして神聖な場所さえ穢した罰だよ。――綺麗に砕いて、美しく消してあげる。


「…レイノちゃん」
「あの口、切り刻むんでしょ?」

 その衝撃が鳴り止んだ直後、呆然とした様子でファイはレイノの名を呟く。それの返答と言いたげに、彼女は黒鋼の言葉をもじり、煽る様に口角を上げた。――レイノは存外、気性の荒い小娘だ。優しく、柔らかな表情かおをして、もっとも記憶へと残る方法で手を加える。その一面が恐ろしく、だが、俺は好ましいと思っていた。それを分かっているのかいないのか、最近のレイノの笑い方は少しだけ、俺に似ている。……まったく、また喧嘩の火種が出来ちまうだろうが。


「――ほざけ」

 だがレイノの怒りの理由が分からない者など、この場にいない事は明白だった。

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